第2話 結局この程度の覚悟
芥は前方へ駆け出した。
が、夜島の腕を掴むには到底間に合わない。
彼女は折れたフェンスの一部分を掴んだまま落ちようとしている。
ならば。
芥は咄嗟の判断で、彼女が掴むフェンスのもう一端を片手で捕まえた。
「うおッ!?」
落下の勢いに自身まで持っていかれそうになるが、上体を思いっきり後ろへ倒し踏ん張った。
屋上の縁にあるわずかな出っ張り、そこに引っ掛かった上履きのかかとに、二人分の命とフェンスの重みがのしかかる。
「芥君、何やって……?」
「離すなよ……!」
夜島がフェンスを握りしめたまま落下したのは、奇跡としか言いようがない。
芥の登場にテンパったおかげだろうか。
さて、ここからどうしたものか。
ひ弱な芥には、夜島の体重と、彼らを繋ぐ鉄片を引き上げる腕力など持ち合わせていない。
むしろ下手に動けば、二人揃って奈落の底だ。
このまま誰かに発見されるまで耐えきれる自信も無い。
ギシッ。ギシギシッ……。
両端から芥と夜島に引っ張られている1.5メートル程の鉄片は、そろそろ限界を迎えるらしい。
無理だ。
芥が限界を迎える前に、フェンスがちぎれるという最悪の未来まで見えた。
「芥君」
「……」
「芥君!」
「なに!」
今、話ができる余裕などない。
が、無下に扱って手を離されても困るので仕方なく返事をした。
「私、死ぬつもりだったんだけど」
「うるせえ! この状況で死なれてみろ! 俺にとっては人生最大のトラウマだぞ!」
「だけど……」
(ネット上ではイキり散らかしてた俺も、他人の死に直面したらこんな風に必死になるんだな)
SNSのアイコンの裏には、一人一人の人生がある。
死を煽るようなことを散々言っておいて、いざこの状況になれば手を離す勇気もない。
彼女が自殺に踏み切ったのは自分のメッセージのせい。
偶然居合わせたものの何もできなかった。
握力ももう限界。
フェンスもちぎれそうだ。
何もかも、もう遅い。
「だけど、なんでだろ。今はあんま死にたくないかも」
「夜島さん……」
それは死と隣り合わせの状況になって初めて、未練が湧いたからか。
それとも、目の前の男に迷惑をかけたくないという一心からか。
しかし夜島の言葉とは裏腹に、芥の手の感覚は失われてゆく。
「……ごめん、夜島さん」
「え?」
「無理みたいだ」
「ちょっと待ってよ」
「もう手が……」
「もうちょっと我慢して! 今私が落ちれば、芥君は一生苦しむことになるんでしょ!? 私のせいで人の人生を台無しにするなんて、そんなの私耐えられない!」
「んな事言われてもッ……え?」
手首に不思議な感触が走った。
上体をそらしたままで首だけを下に向け、手元を見る。
「夜島さん……!」
夜島が、芥の手首を掴んでいる。
ここまで自力でよじ登って来たらしい。
芥は掴んでいた鉄片を離し、両手で彼女の手を握り返した。
ガランと音を響かせ、フェンスの一部分だったものは地面に落下した。
「言ったでしょ……もうちょっとだって」
彼女は鋭い目を芥に向けた。
生に執着する、熱い視線。
フェンス片を捨てたおかげで、だいぶ軽くなった。
女子一人の体重なら、芥の残りの全ての筋力を使い何とか引き上げられそうだ。
「う、おぁっ……!」
声にならない声を上げ、力を振り絞って彼女の身体を引っ張り上げた。
ドサッ。
彼女は芥の身体に重なるようにして倒れ込む。
そしてそのままの勢いで転がり、芥のすぐ横へうつ伏せになった。
「ハァ……」
全身の力が抜ける。
それからしばらくは二人とも、横になったままで息を整えた。
先に口を開いたのは夜島。
「ありがとう」
「え? ああ、いや」
「芥君が頑張ってくれなかったら、私、死んでた」
「でも──」
一瞬だけ迷ったが、芥は覚悟を決めた。
ここで言わなかったら、きっと一生言えない。
うしろめたい思いを抱えて生きていく方が、目の前のクラスメイトに嫌われる事よりも、彼はずっと嫌だった。
「昨日のメッセージ送ったの、俺なんだよ。いつ死ぬんですか、ってやつ」
「ふーん……そうなんだ」
意外にも反応は薄い。
「……ごめん」
「いいよ。芥君、結局助けてくれたじゃん」
「でも俺のせいで、今日死のうと」
「ううん。遅かれ早かれ、死ぬつもりだったもん。良い場所探してたの」
「そ、そうなんだ」
「でもやっぱり死にたくないって思った。今はね」
『今はね』の意味を考える余裕など、今の芥には無かった。
「結局この程度の覚悟だったんだな。私って」
「……」
「死にたい死にたい言ってても、結局手を離す勇気は無かった」
「それは俺もだよ」
芥は仰向けのまま、ちらと夜島を見た。
「早く死ね、みたいなこと……ネットでは言えても、目の前で死のうとしてる人を見捨てるなんてできなかった」
「……ありがと」
「やめろよ」
「わかった」
そう言って彼女は笑った。
言葉を交わすのは初めてのはずなのに、それはなぜだか、妙に懐かしく感じる笑顔だった。
何となく心地よい雰囲気が流れた。
「あ!」
突然夜島が立ち上がる。
「フェンス……」
「あ」
二人は、屋上の縁から顔を出して下を見た。
さっき手放した鉄片は、真下のコンクリートの上でひしゃげている。
「誰にも当たらなかったみたいだね。良かった」
「そうだな。……てか夜島さん、力あるね」
「え、そうかな」
「うん。だってさ、腕の力で登って俺の所まで到達したんでしょ」
「登り棒とか得意だから」
「得意ってレベルじゃないよ」
二人はまた笑った。
息も心拍数も落ち着いてきた。
ふとスマホを見ると、13時27分。
あと三分で昼休みが終わる。
「やっべ。夜島さん、そろそろ戻ろう」
「ヤミコでいいよ」
「え?」
「あだ名。ヤジマミサコから三文字とって、ヤミコ」
「……分かった。行こうヤミコ」
(ジマミじゃねえんだ)
芥は心の中で笑った。