涙雨(なみだあめ)
その夜、愛実に予定は何もなかった。いつもなら翔太と過ごすはずの時間を、愛実は一人ベットにもたれて時をやり過ごしていた。
付き合って二年になる彼は、土曜日だというのに上司の接待のお供に連れ出されている。昨日の夜、申し訳なさそうに電話してきた彼を責めることは出来なかった。
愛実は突然暇になった休日を、掃除をしたり買い物に行ったりして過ごした。いつもより少しだけ手間をかけた食事を作ってビールを飲みながら夕食を終えると、することももう思いつかなくなった。
仕方なくテレビをつけ、興味のある番組を探してしばらくの間チャンネルを変え続けたが、バラエティはうるさいし、かと言って深刻なドキュメンタリーを見る気分でもなかった。
テレビのボリュームを少し小さくして、愛実はスマホを手に取った。
それにしてもいつからなのだろう。子供の頃にはあれほどにテレビのアニメを夢中になって見ることが出来たのに、いつの頃からか一つのものに集中することが難しくなった。
週末をこのように過ごせば、月曜日の朝に後悔するのは分かっているのに、愛実はテレビも消さないまま、だらだらとスマホに次々と現れるニュースをスクロールし続けた。
テレビとベットの間においてある小さなテーブルには、先程済ませた夕食の食器が汚らしい姿をさらしている。食べる前にはあれほど心を躍らせた食事なのに、済んだあとの食器はどうしてこれほどまでに醜いのであろう。愛実は食器から目を逸らすようにして意識をテレビに向けた。
サスペンスドラマが始まっていた。
二十代半ばの女性が、マスクと帽子で顔を隠した男に追われている。
女性は雨の降る暗い道を歩きだしてほどなく、自分のあとを歩く不審な男の存在に気付く。女性が後ろを意識しながら足を速めると、後ろの男も足を速める。
珍しくもないシーンなのに見ていて緊張するのは、この女性と愛実が同じような年齢だからだろうか。
予測したとおり、ナイフを持った男は女性に襲いかかり、最初は抵抗していた女性もしばらくして力尽きてその場に崩れ落ちる。女性の身体には大粒の雨が無情にどんどんと降りそそぐ。
カメラは、地面に横たわり雨を見上げる被害者の目線になる。
その非日常な視野を通して悲劇を表そうとしたのであろう。
あ、と愛実は思った。私はこの景色を見たことがある。
ドラマの女性のように、雨降る空を見上げた記憶が自分の脳裏のどこかに存在していることに愛実は気付いたのであった。
だがドラマと大きく違うのは、その記憶は決して恐怖に満ちたものではないことだ。むしろそれは愛実のなかで柔らかく暖かいものとして残っている。
どうして今までそのことを忘れていたのだろう。
テレビを消して愛実は汚れた食器を流しで洗い始めると、自分の記憶を手繰り寄せ始めた。
雨が綺麗だ。愛実、見てごらんよ。
空から落ちてくる雨粒が、ものすごい速度で落ちてきてあっという間に眼の前で大粒になるよ。
記憶の中でそう嬉しそうに愛実に言っているのは、きっと叔父の直樹に違いない。
愛実は子供の頃、自分と十歳しか年の離れていない叔父が大好きだった。
叔父は四人兄弟の末っ子で、兄弟の長女である愛実の母親とは十五歳も年が離れていたから、愛実にとっては叔父はむしろ年の離れた兄のような存在であった。それは叔父にとっても同じだったのかもしれない。一人っ子の愛実は叔父によく遊んでくれるようにせがんだが、それを彼が嫌がることはなかった。
だが愛実の母親は、愛実が叔父の話をするといつも少し困った表情を浮かべた。それだけでなく、夜遅くに母親と父親が険しい表情で小声で話をしている時、叔父の名前が漏れ聞こえてくることすら少なくなかったのである。
世界中には誰一人僕を理解してくれる人がいないんだ、というのが叔父の口癖であった。
「私がいるでしょ」
愛実は何度もそう言ったが、叔父は何も言わず微笑むだけであった。
「私が大人になったら今よりももっと理解できるようになるわ。結婚だってしてあげてもいいのよ」
愛実は何度もそう言いかけてはいつもその言葉を飲みこんだ。
寂しそうに呟く叔父のその横顔は、愛実のその言葉が自分で恥ずかしくなるほどに侵しがたく美しかったからである。
叔父と姪では血が近すぎるから結婚は出来ないのだとか、そんな常識的なことを思いつく年齢でもなかった。
愛実は叔父がその言葉を呟くたびに、いつか彼が自分の存在に気付いてくれる日を夢見て、壊れてしまいそうなほどに端整な叔父の横顔を飽くことなく眺めた。
叔父は小柄な人であった。
子供の目から大人は誰でも一様に大きく見えるものだが、愛実の父親よりずっと背の低い母親より叔父の背は少しだけ低かったから、その分いつでも叔父は愛実に近かった。
小柄でも痩せていてバランスの取れたスタイルの叔父は、愛実にとってテレビで歓声を浴びているアイドルよりもずっとカッコよかった。
叔父の憂いをおびた表情も、華奢な腕に光る大きな腕時計も、座った時のズボンの裾から覗く細い足首も、少し茶色いサラサラな何もつけていない髪が顔に作り出す影も、その全てが愛実にまばゆく見えたのである。
愛実が幼稚園の頃までよく週末に遊びに来ていた叔父は、次第に愛実の父親が在宅している時間には顔を見せなくなり、平日の昼間に訪ねて来るようになった。
学校から戻った愛実は、母親と叔父が向いあって座っているのを何度か見かけたことがあったが、深刻な顔をしている母親とは対照的に、叔父はいつもどこかへらへらとした様子で誠意のない笑顔を浮かべていた。
雨の記憶は愛実が九歳の時だっただろうか。
だとすると叔父は当時まだ十九歳だったことになる。
ある夜、部屋の窓をかすかに叩く音がした。既に夜中だったと思う。
目を覚ました愛実はその音に気付くと、途端に恐怖で震えあがった。幽霊だと思ったのだ。そうでなかったとしてもせいぜい泥棒であろう。
どちらも嫌だ、と愛実は震えながら思った。
だが布団の中で身体を固くしていた愛実は「僕だ。直樹だよ」と囁く声を聞いた。
それを知ると、叔父が玄関からではなく窓から訪ねる異常を不審にも思わないまま、愛実は喜々として窓を開けた。
「遊びに行こうよ」
叔父はそう言うと両手を差し出した。
愛実は迷わなかった。すぐ窓から降ろしてもらうために叔父に自分の両手を差し出した。
裸足だったので、石も草もちくちくと愛実の足の裏を差した。
片田舎にある愛実の実家は、門から道に出てしまえば、小声の話などは家の中まで届かない。
「じゃじゃーん」
門の外まで来ると、叔父は子供のように両手を広げて言った。
見たこともないピカピカの車がそこにあった。
車体には派手なイギリスの国旗の模様が描かれていた。車は小型だったが、子供の愛実から見ても、車の持つ品格のようなものでそれが高級車であることが分かった。
「どうしたの、これ」
愛実は嬉しくなって聞いた。
「もらったんだ。ドライブに行こう」
こんな高そうな車をあげてもいいと思ってくれるほどの理解者を叔父は見つけたのだ、と愛実は咄嗟に考えた。愛実は自分の心が彼の為に喜ぶよりもむしろ痛んでいることに気付いたが何も言わなかった。
叔父は嬉しそうに「さぁ早く乗って」と言って、まるでお姫様にするように愛実のためにドアを開け手を差し出した。
車が走り出すと、かすかに開けた窓から七月の蒸し暑い風が入って来た。
叔父の髪は風に巻かれて、何度も上がったり下りたりした。
愛実は叔父の横顔を寂しい気持ちで盗み見た。理解者を見つけた彼は、もうこれから私を必要としないのだろう、と思ったからである。
叔父は、「暑いね」と言って窓をもう少し開けた。
窓からの風が叔父のシャツの襟を大きく揺らした。
すると踊り始めたシャツの襟の間から叔父の首筋が見え隠れし、愛実はその首筋に赤い線があることに気付いた。
「なおちゃん、首が赤いよ」
「あぁ、そっか。やっぱり跡になってんだな。さっき首絞められたからな」
叔父は何でもないような口調で言った。
愛実は驚き、「大丈夫だったの?」と聞いた。
「大丈夫だよ。だってこの通り生きてるだろ。でも苦しかった。だってスカーフで絞められたからな。おばさんでもあんなに力あるんだな」
叔父は右手でハンドルを握ったまま、左手で首筋に触れた。
「だから、この車をもらったんだ。殺されるところだったんだから」
「ふうん。首を絞めるのはダメだけど、車くれたんなら、その人はいい人なんだね」
「そうさ」
叔父は小一時間ばかり車を走らせていただろうか。
突然車を停め、愛実ちゃん歩こうよ、と言って寝ぼけ眼の愛実の肩を揺すった。
叔父は靴を履いていない愛実に「おいで」と言って背中を差し出した。
河べりの道には土手があり、辺りに人気はなかった。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出し、夜の静けさの中で雨は昼間ならば聞こえないような音をたてた。
「雨が降っているよ」
「うん。でも大したことはないよ。ナミダ雨だ」
「なにそれ?」
「涙みたいに少ししか降らない雨のことだよ」
夜の雨の匂いは昼よりも濃いのではないだろうか。
それほど強い雨でもないのに、辺りには雨の匂いで充満していた。
「愛実、公園がある。行こう」
心臓がことりと音をたてた。
いつもは愛実ちゃんと呼ぶ叔父が初めて愛実を呼び捨てにしたからである。
聞き間違いか、と考える間もなく、「愛実。こっちだ」叔父はそう大声で呼んだ。
公園の遊具はあちこちが濡れていたが、叔父はそれを気にする様子ではなかった。しばらく二人でブランコに乗ったり滑り台を滑っていたが、雨は一向に止む様子がなく、パジャマが濡れて気持ち悪くなった愛実は「帰りたい」と叔父に言った。
「あと五分だけ」叔父はそう言うと着ていたシャツを脱いで芝生に置くとその上に横になった。
絞められた跡はまるで赤の短いネックレスのようで、それは叔父によく似合っていた。
アクセサリーは普段決して身に着けない叔父が、シャツを脱いで上半身が裸で横たわる姿は、愛実の目にその赤い首筋とともに鮮やかに移った。
「愛実もこっちに寝転んでみなよ。雨粒が大きく見えるよ。粒を数えられるそうなくらいだ。すごいな」
叔父の声があまりにも楽し気だったので、愛実は帰りたい気持ちを忘れてふらふらと引き寄せられるように叔父の隣に横たわった。
確かに雨は粒になって次々と二人の上に落ちてくる。
「小雨なのに下から見るとすごい勢いで落ちてくるように見えるんだな。まるで銃弾に打たれているみたいだ」
叔父は手を鉄砲の形に作り、雨を打ち返す振りを始めた。
愛実も試しに真似してみると、意外にもそれは楽しかった。二人はしばらく時を忘れたように、ばぁん、ばぁん、と言いはしゃいだ。
だが、あはは、あはは、と最初楽しそうに笑っていた叔父の目に、次第に狂喜に似た光が浮かび始めたことに気付くと、愛実は急に恐ろしくなった。
「ねぇ帰ろうよ」
だが叔父はその言葉を無視して、両手をばたつかせ笑い続けた。
愛実は叔父の身体を何度も揺さぶり、帰ろうよと繰り返し言って泣いた。
愛実は洗い終わった食器を手に茫然としていた。
どうして今まであの夜のことを忘れていたのだろう。
確かあの頃に高熱を出して何日も寝込んでしまったことがある。
それはあの夜に関係していたのではなかったろうか。それがあの夜の出来事を夢であったと愛実に錯覚させたのかもしれない。
叔父はある時を境に愛実の家に姿を見せることがなくなった。
愛実は叔父のことを知りたくて、両親の話を盗み聞きしようとしたことがあったが、耳に聞こえた言葉は、ダンショウだとか、セイトーボーエーやジダン、などの聞きなれない言葉ばかりで、当時の愛実には叔父の様子を知る手掛かりはなかった。
その後、派手なイギリスの国旗が描かれたあの車を一度だけ街で見かけた。愛実は期待して車をのぞき込んだが、運転席にいたのは叔父ではなく、頭に大きな包帯を巻いた太ったおばさんだった。
いま思えばあの夜が叔父に会った最後の日だったのだろう。
昨年、叔父は妻と子供二人を連れて突然愛実の家に現れた。
東京で一人暮らしをしている愛実が里帰りをしている時で、愛実には十五年も音信のなかった叔父に何の興味も湧かなかった。
丸まるとした短い手足を大きく振りながら、妻の実家の定食屋の忙しさを語る叔父はどこにでもいる普通のおじさんであった。
あれほどまでに美しかった叔父の姿はもしかすると、幼い愛実が作り出した幻想に過ぎなかったのだろうか。
「愛実、ちょっと悪いけどこの子たちと遊んであげてくれない」
母親が、初めて会う従妹二人の手を引いてきた。
愛実は従妹たちを見て驚いた。幼いのに二人とも驚くほどに端整な顔をしていたからである。
「愛実さん、この子たちと遊んでくれるの?嬉しいわ」
叔父よりも十センチは高いであろう長身の子供達の母親は、地味な顔立ちの人で、子供達との顔とはどこも似ていなかった。
今は千葉で暮らしているという子供達は庭が珍しいのか、二人は木に登って遊び始めたので愛実は縁側から二人を見ていた。
「子供たちと遊んでくれてありがとう」
従妹たちの様子を見ている愛実の側に、いつの間にか叔父が立っていた。
「久しぶりだね、愛実ちゃん」叔父はそう言うと、縁側によいしょ、と言って腰掛けた。
「元気そうだ」そう言って叔父が愛実の近況を聞いてきたので、愛実はそれに出来るだけ短い言葉で返答した。
話題が尽きた頃、叔父はぽつりと言った。
「お別れに行ったんだよ」
愛実はきっと不思議そうな顔をしていただろう。
当時の愛実に雨の夜の記憶はなかった。
「昔、二度と愛実ちゃんに会えなくなると思って、朝まで待てないから夜中に会いに行ったことがあるんだ。覚えてない?」
愛実は、その秘密を共有しているかのような叔父の話しぶりが煩わしかった。
「覚えてないのならいいよ。僕が若くてバカだった頃の話さ。むしろ忘れて欲しいくらいだ」
叔父は何を思い出したのか、苦笑いの表情を浮かべた。
「だけど僕はね、ずっと愛実ちゃんにお礼が言いたかったんだ。その夜、僕はいろいろなことにとても腹をたてていたんだけど、愛実ちゃんを見ていたらそれが自分への後悔へ変わったんだ」
愛実は叔父の話を理解できないまま、気持ち悪げにうなずいた。
「その夜はまるで涙のような雨が降っていたよ」
叔父は「ようやくお礼が言えた」と言うと、立ち上がって子供二人の名前を大声で呼び木の上の子供たちに手を振った。