Lie no Lie
「天気晴朗ナレド波風高シ」と謳われた夏至の海は、お風呂の湯舟を思わせるほどに静かだった。肌を焦がす太陽が真上にあり、日ごとに熱と湿り気を帯びていく大気とは異なり、海は依然として冷たかった。僕の熱はすっかり奪われ、頭の奥まで悴んでしまった。僕の真下は暗くて、真上は明るくて、水面の煌めきは扁平な海月が重なり合っているようだ。
こぽりと、僕の肺が一掴みの空気を逃す。手を伸ばしても届かない。ゆったりと空気は水面へと浮かんでいき、比例するように、僕は晦冥へと沈んでいった。
目を覚ませば、そこは海の上。海月の群れに乗っかって、僕は波に揺られていた。
「気が付いたか? よう眠っておったなあ」
陽光を遮るように、一人の女性が僕の瞳を覗き込んでいた。
不思議なことに、その女の貌を、僕はどうしたって見ることができない。流麗な天色の髪と胸のふくらみ、氷を弾いたような声音、そういうものを除いては、何も見ることができない。きっとそこには目があり、鼻があり、唇があり、黒痣だってあるのかもしれない。それなのに見えるのは真っ白な靄だけで、そこに彼女の貌というものはなかった。
その人は僕に膝枕を貸しながら、夏至の海に座っていた。
「……あなたは誰ですか?」
「目覚めて一番にそれか? 坊は詮索好きやのう」
少しだけ眉間に皺を寄せる。「坊」と呼ばれるのは、あまり嬉しいものではなかった。
「嫌なら嫌と、ちゃんと言わんと、後悔することになるぞ?」
伏せた瞳を持ち上げる。彼女は僕からほんの僅かに顔を背け、太陽の煌めきに向かって「坊の場合、もう後悔なんて役に立たんのやな」と寂しそうに呟いた。
「それで、坊は何と呼ばれたい? 坊の名前を教えておくれ」
教えてもよいのだろうかと唇は結ばれ、けれど、迷いは途方もなくちっぽけだった。
「玖珠樹、僕の名前」
「ええ響きやのう」
目を細めたのかもしれない。彼女の気配がふっと薄らぐ。
脳裏に無粋という言葉が浮かび上がる。それは彼女には関係ないこと、僕だけの事情だ。伝えたところで何も変わらないし、誰も得をしない。僕の得意なことは口を閉ざすこと。だから洋服の裾を握り締め、「お姉さんの名前は何て言うの?」と可愛らしくもなく話転した。
「……忘れた、というよりは失くした」
頬を叩かれたような気分だった。彼女の膝に頭を預けたまま、天上で輝く太陽を見上げる。痛いほどに瞳を突いてくる陽光もどこか色褪せ、それはモノクロームに染まっていた。
「ほんの六十年ほど前には名前を呼んでくれる人間もおったけど、人間の寿命なんて露草みたいなもんやから、あっという間にいなくなってしもうた。逢坂か、京の都か、それはもう綺麗な西の言葉を話す人でな、話し相手なんてあの人くらいやったから、言葉を交わすうちに段々と引きずられて……習得する前に、妾は一人となった」
残されたのはちゅうぶらりんな言葉だけだと、彼女は呟く。
「呼ばれないと、口にされないと、名前は消えてしまうからの。特に、縁の薄い神々は――」
身を起こす。僕の瞳と彼女の瞳が同じ高さに並び、真正面から見つめた彼女の貌に、靄はかかっていなかった。突き抜けた夏の群青を思わせる蒼眼と、ハクモクレンのような素肌、たくし上げられた天色の髪も合わさり、彼女の相貌は海を想起させた。世辞ではなく、心の底からの感情として、ぼくは彼女を美しいと感じた。
「……神々?」
「あぁ、玖珠樹。妾はほんの四百年ほど、神様をやっておる」
× ×
意識をノックされて瞼を持ち上げると、紅蓮夕陽が瞳の裏まで突き抜けた。光の源、沈みゆく太陽は、まだまだ輪郭線がおぼろげな月へと精一杯の賛辞を送っている。
机になだれ込むようにして、ぼくはどうやら眠っていたらしい。
「おはよう、寝坊助さん」
「……エミ。ぼく、どれくらい寝てた?」
体を起こす。ぼくの頭上に真っ黒な影を落としているのは、二つに結ったおさげ髪の少女。名前の通りあどけない笑顔が似合う女の子だった。
「そうね。六時間目が始まった頃には伏せっていたから、三時間半というところかな」
「起こしてくれればよかったのに」
「玖珠樹を起こすことが徒労に終わることくらい、みんな知っているもの」
「今日はちゃんと起きるつもりだったんだ」
それでもエミは信じていないようで、呆れたように肩を竦めるだけだった。
上履きのゴムをキュッと床に擦り付け、彼女はぼくに背を向ける。制服の襞スカートがふわりと浮きかけ、彼女の手によって押さえられる。夏服はそろそろお役御免の頃合いだった。ショルダーバッグを引っ掴み、彼女と肩を並べて放課後の教室を後にする。屋上から届くユーフォニアムの響き、金属バットの赤銀の煌めき、油絵具の厚ぼったい香り。生徒の半数以上を失った学び舎は、それこそ昼時に勝るほどの熱気と活力を宿していた。
「うちの野球部、あと一人抜けたら公式戦出られなくなっちゃうね」
昇降口でローファーに履き替えながら、エミは寂しそうに呟いた。屈めた体を一度起こし、泥だらけの白球を追いかける野球青年を見遣る。
「野球は男のスポーツだから仕方ないよ」と目を伏せた。
「そうね、玖珠樹とは無関係ね」とエミも冷めたものだった。貧弱だからね、と付け加えられた言葉は聞こえないふりをした。そう、ぼくは貧弱なのだと言い聞かせる。
野球部を避けるように校庭の隅をそろそろと歩きながら空を仰ぐ。夕暮れも深まり、空は紫陽花色のグラデーションに染まっていく。空気はまだ夏の暑さを残しているけれど、風が撫で付ければ堪らず肌を擦ってしまう。どことなく心地よく、それとなく不安になる季節だった。
「夢を視ていたんだ」
つと、言葉を漏らす。先を行くエミは少しだけ歩調を緩め、ぼくと肩を並ばせた。
「……昔の夢。ずっと、今日まで、あの日のことなんて忘れていたのに」
「どんな夢なの?」
「信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくの背丈がまだひまわりにも届かなかった頃、神様に出会ったんだ。天色の髪をして、四百年くらい生きていて、忘れられてしまった神様」
相槌とかそういうのはなく、エミは静かに耳を傾けてくれていた。
「ぼくを助けてくれたんだ。どうしてそうなったのかは憶えていないんだけど、とにかくぼくは溺れていて、海の底に沈もうとしていて、彼女が引き上げてくれた」
「……女性の神様だったの?」
首肯すると、エミは喉を唸らせた。信じているとも、そうでないとも取れる風に。
彼女を一瞥して、ぼくは眼差しを前に送る。キン――とひときわ高い金属音に振り返ると、白球がぼくたちの方に転がってきた。つま先に当たり、静かに止まったそれを拾い上げる。
「ひとつ、神様と約束したことがあるんだ」
肩を引き、手を振る野球青年に向けて投げ返す。不格好な放物線を見つめ、目を細める。
「ぼくが大きくなったら、神様の《ミタマ》を受け取るようにって――」
そう、幼いぼくは約束した。もしも神様があの日のことを憶えているのなら、そろそろ約束の時になるのかもしれない。それならぼくは、また神様と会うことになるのだろうか。
「行こう」と囁き、駆け出す。エミは置いてけぼりをくらい、慌てた風に追いかけてくる。追い付かれまいとなおさら足を速め、一息に校庭を駆け抜け、茜色の学び舎を後にする。五十メートルも進めば右手に杉並木が現れ、並木の手前で右に曲がる。アスファルトは途切れ、土肌と木の根、灰色の石段から成る坂道が並木の奥まで続いていく。急な運動で胸は喘いでいた。
「ばか! 汗かいちゃったじゃない!」
背中を押され、よろめきながら振り返る。ぼくに負けじと息を荒くしてエミが憤っている。
「……ごめん、ちょっと興奮した」
「玖珠樹は自分をコントロールするのが下手すぎ。ホント、そればかりは昔から変わらない」
へらへらと薄ら笑いを浮かべ、ぼくは「ごめん」と繰り返す。エミの前だからこそ、こんな風に身勝手でいられるのだと伝えたことはない。多分、これからもないと思う。
今度こそエミと肩を並べ、石段へと足を乗せる。綺麗に研磨されたものではない。石山で叩き割ったものをそのまま持ってきたようで隆起が激しく、足裏を刺激してくる。陽もかげり、そろそろ辺りは暗くなってきた。足下の危うさを紛らわすためにも、ぼくとエミは手を繋いだ。絡ませた指と指、触れ合う手のひらを通してエミの体温が流れ込んでくる。ぼくが彼女の手のひらを温かく感じているのだから、きっと、彼女は冷たく感じているのだろう。
石段を登り切るとくすんだ緋色の鳥居が見えてきた。参道がほんの数十メートルしかない小さな境内には、鳥居を入ってすぐ脇に手水所、右に奥まったところに社務所、正面奥に拝殿と本殿が配されている。ぼくの暮らす町にひとつだけの神社、エミの実家だ。
「今日も食べていくでしょ?」
エミに訊ねられ、頷くとともに繋いでいた手を離す。
社務所に入ると、エミはそのまま奥の居住区へと歩いていき、ぼくは扉脇の小さな部屋に入る。卓袱台と給湯器がある他には家具が置かれていない、四畳一間の部屋。卓袱台の上には濃紺の作務衣と、緋色と白の彩色が眩しい巫女装束が綺麗にたたまれて置かれていた。巫女装束を一瞥すると微かなため息を溢し、カーディガンのボタンに手をかける。カッターシャツ、スラックスまでを脱ぎ終えると、無地の黒シャツ、短パンを身に付け、その上から作務衣を着込む。脱いだ制服を荷物とともに部屋の隅に置き、ぼくは部屋から出た。居住区の方へ行き、台所にいるエミに顔を覗かせる。
「じゃあ、いつも通りやっておくから」
「うん、お願いね」
手を振ってから背を向ける。社務所の玄関脇から箒と雑巾、バケツを取り出して外に出る。
「……ヒグラシかな」
キキキキキ――と遠くから音が届いてくる。少しだけ耳を澄ます。微かな響きの連なりは、夏の終わりと秋の訪れをひしひしと訴えていた。
参道の石畳、鳥居横の狛犬と手水所、賽銭箱、拝殿と本殿の周り、その中を簡単にではあるが掃除していく。ぼくとエミの放課後の奇妙な関係は、親友と表すには少しだけ複雑な事情を孕んでいて、バイトと雇い主と表すには、それほど希薄でもない。
ぼくはエミに掃除という労働力を提供し、エミはぼくに気持ち程度の賃金と夕食、許される限りの居場所を与えてくれる。それは全て、ぼくが《ぼくの肉体》をきっかけとして家庭に不和を抱えていて、それがどうにも立ち行かなくなったときにエミが逃げ道を示してくれたことを発端としている。ぼくの家庭の不和を逃げてはならないと叱責するのではなく、逃げたくなったら頼ってもいいのだとエミは伝えてくれた。ぼくはそれに甘んじていて、救いを得て、今もこうしている。どうしようもない葛藤と感謝とともに。
掃除をひとつずつ終わらせていくにつれて時間は着々と過ぎていき、境内にひとつだけの電灯をなくしては、外は一寸先の視界にも困るほどになっていた。本殿の奥、御神体の前で雑巾を走らせていたぼくの背後に、ギィ――と床板を鳴らしてエミはやって来た。
「お疲れさま。ご飯できたわよ」
「うん。ここだけやったら終わりだから」
足の裏に力を込める。親指にぐっと意識を集約させ、トットットッと不慣れな足取りで進む。雑巾にあてがった手のひらは全部を覆うには小さすぎて、端の方はしわくちゃになっていた。
「随分とうまくなったじゃない。前は端から端までも行けなかったのに」
「エミに比べたらまだまだだよ」
「そりゃ、だてに宮司の娘を十六年間もやってないわよ」
「今日、おじさんは?」
「他所の祭事の手伝い。玖珠樹がいるから大丈夫だろーって。自分のところをほったらかしにして、いい加減なんだから」
「働いているんだからいいじゃない。遊びじゃないんでしょう?」
「まあね」と頷きながらも、エミは不満そうだった。
ふと、足を止め、御神体を仰ぐ。
「ねぇ、エミ。ここの神様は山神なんだよね」
「そうよ。大山津見神幸恵様、山と豊饒の神様ね」
「――……海の神様はいないの?」
訊ねられ、困ったようにエミは唇を結んだ。
「それは、玖珠樹が出会った神様のこと?」
「別にぼくが出会った神様のことだけを指しているわけじゃないけど、この町には山があって、海だって隣接しているから、どちらの神様がいてもおかしくはないかなって」
「女神という意味では山神はそれに当てはまるけど……私を含めて、ここの神様は多くの人に知られているもの。玖珠樹の言う、忘れられた神様とは違う気がする」
「そっか……」
うまく隠せたつもりではいたけれど、ぼくの表情は落胆をありありと表していたらしい。エミは何とも言い表せない複雑な表情を浮かべ、ぼくの方へと歩いてきた。磨いたばかりの床は薄らいだ鏡面のようで、彼女の姿をほんのりと映し出していた。キュッと床が鳴る。エミはぼくの横で屈み、ぼくの髪へと指を伸ばした。腫れ物に触れるような恐る恐るとした手付きで何度か梳かれ、前髪を耳にかけられる。
「でも、玖珠樹が出会ったのなら、きっと神様はいると思う。社があるかは分からないけど、神様はヒトの想いに生きる存在だもの。玖珠樹が知っているのだから、神様は今もいるはず」
「そうかな?」
「そうよ。宮司の娘が言うんだから信じなさい」
胸を張ったエミに微笑を溢し、そうするよとだけ返した。本音を吐露すれば、エミに否定されたところで信じることをやめはしなかったと思う。今日に至るまですっかり忘れていたというのに、ぼくにはあの日のことが夢や妄想の類だとはどうしても思えない。
だって、ぼくのことを《坊》と呼んだ人は神様以外にもたくさんいたけれど、ぼくがそれを嫌っていることに気付いてくれたのは、天色の髪をした神様が初めてだったのだから。
「玖珠樹、顔がにやけてるわよ」
「――え?」
指摘されて初めて気付く。頬に両手をあてがい、ぐにぐにと上下させる。
「そんなに?」
「やだ、その表情で上目遣いはダメよ」
エミはそんなことを言って、ばかみたいに身悶えた。
「玖珠樹はもう少し自分の可愛さに気付いた方がいいよ。そして、さらけ出していくべき」
エミはきっと親切心からそう言ったのだろうけれど、ぼくの胸はチクリと痛んだ。ふと、神様の姿がエミと被る。《坊》と呼ばれるのが嫌ならばもっと主張するべきだと諭した神様と、自分の姿をもっと自覚して、隠さずにいるべきだと訴えるエミ。二人とも正しくて、間違っていなくて、ぼくにとっては難しいことを平気な顔をして言う。
でも、それは――二人がぼくのことを正面から見てくれていることの証だった。
「うん、努力する」
そのことだけは、素直に嬉しいと思えるから。
「よろしい」と頷くと、エミはぼくの手を取った。
「掃除道具、片付けないと」
「そんなの後でいいわよ。ご飯はあったかいうちに食べないと」
手を引かれ、本殿を後にする。去り際に、御神体の傍で天色の光が躍っていたように見えたけれど、それはきっと気のせいだと思う。
× ×
夕飯をご馳走になり、談笑を交わすうちに、気付けば十一時を過ぎようとしていた。
「どうする? お父さんもいないし、玖珠樹がそうしたいなら泊まっていってもいいけど」
「ん……うん……」
瞳を伏せる。白状すれば、帰るのは億劫だった。帰途の労苦ではなく、家に渦巻いている不和のために、このままこうしていたいという思いは強い。けれど、諮詢を重ねた末に、
「大丈夫」
心を押し殺すことにする。エミの家は逃げ場であって、帰るべき場所にはならないから。
「そう、気を付けてね」
作務衣から制服に着替え直し、外に出るとエミが待っていてくれた。懐中電灯を手渡され、一歩踏み出したところで空を仰ぐ。ポタリと――小さな雫が額で弾けた。それは次第に大きくなり、集まって雨となる。
「やだ、濡れちゃう」
エミは慌てて社務所の中へ戻ると、色褪せた若芽色の傘を手に戻ってきた。
「私の子供のときのだけど」
「ううん、ありがとう。明日、返しに行くから」
手を振ると、今度こそエミの家を後にする。ぼくの姿が見えなくなるまで、彼女は見送ってくれていた。石畳の上を歩き、鳥居を過ぎるとそこから先は真っ暗な森。懐中電灯のスイッチを入れようとして指を止め、ふと前を向く。小高い山の頂、まっすぐに開けた視界の先、眼下では人工夜灯がぐるぐると舞っていた。本物の空は真っ黒な雲に覆われてしまい、月明かりも星の瞬きもなく、対して大地は煌々と輝きに満ちている。
あぁ、ヒトは空を落としてしまった。
スイッチを入れる。ぽつりと灯りを道に落とし、ぼくは歩き始めた。山を下って学校まで引き返す。学校の敷地に沿って反対側まで回り、そのまま二百メートルほど直進すれば波の音が聞こえてくる。そこでは半月状の砂浜と海が広がっている。強い磯の香りが鼻腔をくすぐり、肌を撫で付ける潮風はもう冷たかった。海岸線に沿って歩いていくと漁港が見えてくる。雨はだんだんと強まり、嵐の域に入ってきた。この分では、明日の港は閑散としているだろう。
漁港の手前で左に折れ、なだらかな坂を上る。中腹まで来ると、街灯と電波塔の向こうに家が見える。臙脂色の瓦屋根の、エミの神社をゆうに凌ぐほどの敷地を有したお屋敷。この町の大地主、雁屋家。そこがぼくの帰るべき家だった。
門灯が点された正門は避けて裏に回る。鉄柵を押し開け、玉砂利の庭を通り抜けて裏口から家に入る。時刻はすでに十一時半を過ぎようとしていた。十六歳の帰りとしては、とてもじゃないが褒められたものではない。ただいまの一言もなく、それこそ空き巣に入るかのように、息を殺しての帰宅。閉じた傘からは大粒の雫が流れ落ち、三和土に小さな水たまりを作る。
服からも水が滴り、体は芯まで冷え切っている。寒さに喘ぐように息を漏らし、そういえば、あの海の中もこんな感じだったなと思う。
重くなったソックスをどうにかして脱ごうと四苦八苦するぼくの背後で、キシリと、床板が鳴らされた。肩を震わせて振り返る。二秒ほど、そうして固まっていて、安堵とともに肩の力を抜く。乱暴に飛び跳ねた心臓は、ゆっくりと時間をかけて穏やかさを取り戻していく。
「おかえりなさい」
ぼくの弟、望生だ。眠たいだけなのか、それとも目がかゆいのか、望生は頻りに目を擦っていた。そんなことをしていたら、朝になってあの人が慌てふためていてしまう。望生の手を握り、それ以上、目の充血が進まないようにする。
「どうしたの? おトイレ?」
「のどかわいたの……」
「もう飲んだの? それともこれから?」
「もうのんだ」
「うん。おいで、おやすみのハグしてあげる」
広げた腕の中に、望生が飛び込んでくることはなかった。
「くーちゃん、ぬれてる」
望生がそうしなかった理由にはたと気付くとともに、胸中では、何かがすーっと熱を失していく。背中を押して部屋に戻るように促し、望生を見送ってから、ぼくも玄関を後にした。濡れたソックスを洗面所に置き、床板を微かに鳴らしながら自室に向かう。雨はますます激しさを増しているようで、雨音は家中に鳴り響いていた。明かりはどこも落とされていて、エミから借りた懐中電灯を失くしては足下を探ることも困難なほどで、そうやって自分の家を徘徊するという行為の滑稽さにあてられ、ぼくは唇の端を僅かに釣り上げていた。
だから、ぼくは油断していたのだろう。いつもならひしひしと感じるあの人の息遣いに、少しも気付くことができなかった。
ダイニングの前を通り過ぎようとしたとき、すぐそばで電灯が点けられた。赤橙色の光を当てられたことに息の仕方を忘れる。全身が粟立ち、裸でいるかのような寒気に見舞われる。
「随分と遅かったのね」
ダイニングの奥、ソファーに体を預け、スマホの画面から目を離すことなくその人は言う。
「また御影さんのところ? 甘えすぎよ、あなた。少しは遠慮を知りなさい」
ぼくが苦手とするヒト。ぼくを《ぼく》にしたヒト。ぼくの母親。
「だいたい――」と母は言葉を続ける。抑揚のない声で、依然としてぼくを見ることはなく、
「あなたは女なのだから」
ぼくの心をズタズタにする。少しでもぼくのことを見ていたなら、眉間に刻まれた渓谷も、厚ぼったく張り詰めた眦も、への字に歪められた唇も、ぼくが泣きそうになっていることにだって気付けただろうに、母の関心は微小にもぼくには向けられていない。
「男として育てたのは、お母さんじゃない」
それはひどく非常識で、もしかしたらとてつもなくありふれた確執なのかもしれない。雁屋の家は古くからの名家だった。歴代のしきたりなのか、それとも祖父母の独断なのかは知らないけれど、母は雁屋家に迎え入れられるにあたってひとつの条件を言い渡されていた。それは世継ぎ――男の子を産むこと。もとより不妊の気があった母は子に恵まれず、父と結婚してから三年の月日を要して、ようやくぼくを孕んだ。
それはどれほどの喜びだったのだろう、母にとっては奇跡に等しい懐妊だったのだから。
そしてどれほどの嘆きだったのだろう、待望の乳飲み子は女の子だったのだから。
悲嘆に暮れた母はとある詐称をはたらいた。それは祖父母だけに留まらず、世間に対して。
「仕方ないでしょう、お義母さんにいびられるのは散々だったのよ」
雁屋玖珠樹という人間の性別を偽り、女の子ではなく男の子として育てることにした。それは《私》として生きるはずの人間が《ぼく》へとすり替えられた瞬間だった。それから時は経ち、待望の男の子である望生が生まれた。時にしてぼくは十歳、内外共に男として育てられ、
「ぼくが女の子だっていうなら、今からでもいいから女の子に戻してよ!」
弟が生まれたからといって、女に戻ることは許されなかった。
「そんなのダメよ。私の世間体を考えなさい」
少なくともこの町にいる限り、母が自分の世間体に泥を塗るようなことを容認するはずもなく、ぼくがどれだけ私になることを望んだとしても、その心は目を逸らされ続けた。
母は逃げていて、ぼくも逃げている。本心から《私》になりたいのだとしたら母の意向も世間体も気にしないでそうすればいい。一人称を変える、服装を女の子のものにする、言葉遣いだって趣味だって何もかも、ぼくを形成する全てを捨ててしまえばいい。それを止められる人なんて誰もいないのだから。ぼくはぼくの支配者であるべきで、親子のしがらみなど抑止力としては微々たるものでしかない。けれど、想像すればするほど、そこには私の孤立しか見えなかった。
手のひらに嫌な汗を握り締めて起きた朝のことを憶えている。ただ横になっていただけだというのに全力で駆けたあとのように吐息は乱れ、動悸は高鳴り、ぼくは夢の光景に恐怖する。
『オカマ!』
真っ青なキャミワンピースに身を包んで、髪を腰まで伸ばし、ふわふわのぬいぐるみを抱えたぼくに対して――罵声はかけられた。ぐるぐると嘲笑が渦を巻く。蔑視は小高い丘となる。
玖珠樹はちぐはぐ。女の子なのに男の子。狂った玖珠樹、男の子なのに女の子。
この町で生まれ、この町で育ち、この町で終わるぼくはいったいどちらで生きればいいの?
忘れられた神様でも、エミでも、誰だっていいからどうか《私》を導いて。私の前には高い壁が立ちはだかり、ぼくにはそれを越える方法がどうしても見いだせない――……
ボタリと、水道の蛇口から落ちた雫がステンレスにぶつかる。部屋の中にはぼく一人、膝を抱えている。母は自分の部屋に戻っていった。ただの一度もぼくを見ることなく。
自分を抱き締めるように両肩に手のひらを添える。どうしてだろう、吐息が白かった。なぜだろう、吐息が荒かった。膝を震わせ、ゆっくりとその場で頽れる。
「……寒い……」
引き攣った声で訴える。
「寒いよ、お母さん」
指先、粟立った肌、頬、手足、体の奥の方、どこも寒くはない。そこに寒さを感じられはしない。それはもっと別のところ、手のひらが探り当てた場所は《こころ》だった。
どうしよう。手が届かない。温め方を知らない。心の癒し方をぼくは知らない。きっと、それはぼく一人では叶えられないことだから。
「あぁ――」
頭が下がる。床に膝を着けて、痛いくらいに胸を鷲掴みにしてぼくは低頭する。
いっそのこと男だったらよかった。そうすれば歓迎されて、祝福されて、手厚く育てられて、玖珠樹なんて名前をつけられることだってなかったかもしれない。神様がよい響きだと言ってくれたぼくの名前は、望生が生まれたときからあらぬ思いを抱かずにはいられなくなった。望まれて生まれた子供が望生なのだとすれば、ぼくは屑の木、捨ててしまいたい子供だと――そんなことしか考えられない。《くずき》と名付けなかったのは、ひとえに母が体面を守ろうとしただけのことで、本当はそうしたかったのではないかと訊ねてみたくて堪らない。
望んだ子供ではなかったかもしれない。あなたの理想には応えられなかったかもしれない。
「それでも、お母さんに見捨てられたら……私はどうすればいいのよ……」
ただ、ぼくを私として見て欲しい。それだけの願いはいけないものなのだろうか。
「……ホント、ばかみたいなことで悩んでるんだから」
笑顔で心を塗り固め、立ち上がる。
「お母さんに期待するだけむだだって知ってるくせに」
薄っぺらな足音を響かせて部屋を後にする。冷えた心は温められずとも、せめて体くらいはと風呂場に向かう。ショルダーバッグを放り投げ、濡れたカッターシャツを見下ろすと、胸に巻いたさらしの影が見えた。髪を短くして、さらしで胸を圧し潰して、男の子の服で飾ったところで、ぼくの体は確実に女の子へと向かっている。いつまでも出てこない喉仏、濃くならない体毛、変わらない声音。反比例するようにふくらんでいく胸、丸まっていく体つき。
ぼくだってすでに十六歳、いつまでもごまかしてはいられない。あと数年もすれば成熟して私に戻らざるを得なくなる。たとえ母がそれを望まないとしてもいつかは現実が牙を剥く。捻くれ者は是正され、全ては白日の下に晒される。その時、母はどうするのだろうか。意地の悪いことに、その光景を想像すると胸が躍る。
服を脱ぎ終えて風呂場の引き戸を開け、正面に設置された鏡へと目を移す。そして驚愕に胸を詰まらせる。言葉を失することしかぼくにはできず、頭の片隅が熱を失っていったかと思いきや、突如として燃え上がり、思考回路を焼き尽くす。
ぼくを襲った怪奇。そこにあるべきものがないという現象が、確かにそこにはあった。
鏡、鏡面、現世を映し出すもの。現世が投影されるべきもの。そこにぼくはいなかった。雁屋玖珠樹という人間が現実の存在であるならばそこにいるべきだというのに、鏡の中に玖珠樹はいなかった。偽りの体躯は透過され、背後の光景だけが鏡面世界を占めている。
「なんで――ッ、どうして」
千鳥足で後退り、洗面台に手をつこうとして何にも触れられず倒れ込む。左手を持ち上げて目の前に翳す。赤らんだ肌はなく、白皙さえも通り過ぎ、その肌は透けていた。徐々に、けれど確実に、ぼくの体は末端から中枢へと向かって消えようとしていた。
脱いだ服を再び着ることもできず、扉を開けるという行為も挟まずに廊下へと飛び出す。誰かにぼくを確かめてもらいたかった。誰かにぼくの存在を証明して欲しかった。沸騰した心で、足下の感触を見失いながら廊下を走り、階段の前で母と出くわした。その時の心の高鳴り、募る安堵、母に失望した五分前が嘘であるかのように、母がそこにいることに溢れんばかりの喜びを抱く。
「お母さん!」
叫び、手を伸ばして駆け寄る。道に迷った稚児が、母親を見つけられたときのように。
けれど、ぼくは母に触れることも、気付かれることもなく、するりとすり抜けた。ぼくの体躯は中心から揺らめき、水流が岩を避けるように二つに分かたれ、母が通り過ぎると元に戻る。不可視と流動の体では誰にも干渉することができず、それは途方もない恐怖だった。
事件などという些細な言葉では到底言い表せない。ぼくを襲った異変、摩訶不思議な出来事はいったい誰に解決を委ねればよいのだろうか。誰かの顔が浮かんでは消えていく。まがりなりにも十六年連れ添った母は干渉できなかった。それならば、どれだけ親密な関係をしてきたところでエミも同じだろう。足りない頭を回すうちに、ふと、あの麗らかな声を思い出す。
《妾はほんの四百年ほど、神様をやっておる》
「神様なら――……」
そっと瞳をもたげる。そこには、一抹の白光に包まれた蜘蛛の糸が垂れ下がっていた。
「神様なら、ぼくを助けてくれる」
だって神様なんだから。ちっぽけな人間の厄災など、小指の先で拭ってしまえるだろう。
僅かでも希望を抱いてしまうと、立ち止まっていることができなくなった。一度だけ母を振り返り、歩き出す。この怪異が拭われた暁には、その時こそ受け入れて欲しいと願いながら。
一糸まとわぬあられもない姿で家から出る。衆目に裸体を晒しているというのに恐怖も羞恥もひっそりと息を潜めていた。それどころか、ぼくを見て悲鳴でも上げてはくれないかと、女の子の倫理に抵触してしまいそうなことを期待している。
雨風が肌を打ち、髪を暴れさせる。触れたいと願うものには触れられず、されど意識を留めないものに関しては、鬱陶しいまでに干渉は絶やされなかった。
次第に歩調は速まり、坂の中腹を過ぎる頃には体の各所が激しく揺れるほどになる。アスファルトは硬く、撓まず、素足を下ろすたびに肌が裂けてしまいそう。刺激に対する反応は次第に敏感となり、坂の下に辿り着けば、普通に歩くことでさえ痛みを伴うようになっていた。道路の真ん中で屈み込み、自分の痴態に苦笑する。高鳴る胸を宥めつかせ、顔を上げれば、海はすぐそこに開けていた。砂浜に足を降ろす。塩を含んだ砂が傷に染みるけれど気にしない。
「神様――――ッ」
波打ち際まで歩み寄り、あらんばかりに喉を震わせて呼び求める。ごうごうと地を這う轟音に混じらせて、上擦ったソプラノボイスが響き渡る。叫び、応えはなく、求め、海は冷たく、十六歳ははち切れそうだった。
ぐうっと海が唸り、膝丈を超す波がぼくに襲いかかった。足を取られて横倒しとなる。波は有無を言わせずにぼくを岸辺へと押しやり、ぴたりと勢いを殺すと、反転して連れ去ろうとする。砂地に這い蹲ろうとして体はすり抜けた。波に抗うために《触れること》を望んだから、砂浜はぼくに対して不干渉となった。
波にさらわれ、海に呑まれる。天地がひっくり返り、奔流に弄ばれ、気付けば自分がどこにいるのか喪失していた。上下左右に揺さぶられ、海面に押し上げられては深みへと引き込まれ、洗濯機に放り込まれたシャツの気分を味わううちに、ぼくの意識は肉体から剥がれ落ちた。
どれだけ翻弄されていたのか、どのように彷徨っていたのか思い出すことはできない。ぼくは目覚めると陸地にいた。嵐は凪を迎えたようで、海色は依然として重たいものの、世界はひっそりと静まり返っていた。舌で拭った口内は砂で満たされていて、濃厚な潮の香りが胃の奥から上ってくる。体には無数の擦過傷が刻まれ、透明な肌には赤い線が走っていた。
咳込み、砂を吐き出しながら体を起こす。焦点の合わない視界の中に――ぼくはそれを見つけた。苔むした木造の建物。腰の高さにも届かず、僅か一畳にも満たない社を。ひっそりと隠されるように草木の影に埋もれて、社は海に面していた。
《玖珠樹が出会ったのなら、きっと神様はいると思う。社があるかは分からないけど……》
エミの言葉が反響する。疑心暗鬼を生じながら、それでもそうであって欲しいと願う。
社に近寄る。社の前には小さな立て板があり、墨と朱墨で書かれていたのであろう文字の跡がうっすらと見て取れた。はるか昔に文字は剥がれ落ち、周囲と少しだけ風合いが違うだけの文字列に目を走らせる。そこには《大綿津見神》と記されていた。
「わだつみ――……海の神様?」
山と豊饒の神様、大山津見神と対になる存在、忘れられた神様の社が目の前にある。
そして、そこには七十年前に失われた神様の名前も残されていた。
「大綿津見神、潮凪様」
ぼくの口を通して、忘れられた神様の御名が呼び戻される。
「あぁ、喜ばしいこと。妾の名前が帰ってきた」
それを受けて、ぼくの背後に神様は現れた。安堵とともに振り返り、その姿に眉を顰める。幼少期に邂逅した麗人ではなく、二つに結ったおさげの少女、エミの姿を神様は模していた。
「潮凪様の人間としての姿がエミなの? それともエミが潮凪様だったの?」
「どちらでもないぞ、玖珠樹。妾は海の神だ。海こそが現世に於いて存在を許された場所となる。綿津見が陸に上がる、言い換えれば山津見神の神域を侵すには依代が必要となるからな。玖珠樹が親しみ、現世の人間にしては神々に通じているこの娘の体を借り受けたのよ」
「エミに憑依したということ?」
「神憑りと言ってくれ。憑依は下賤な霊のすることだ」
六年越しの再会にしては、ぼくも潮凪様も淡白なものだった。
体を揺らし、手のひらを握り締める。うかうかしていれば消えてしまうのではないかと不安になるほど、ぼくの体は限界まで透けていた。
「分かっておるぞ、玖珠樹。妾はそのために現れたのだ」
潮凪様は右手を持ち上げ、その指先から水の白糸を溢れさせた。
「不遇なこととはいえ、玖珠樹が童を思い起こしてくれたのは嬉しかったぞ。もしも妾を頼ろうとしてくれなかったなら、妾は永久に埋もれてしまっていただろうからな」
ぼくと潮凪様の間を埋め尽くすように溢れた白糸はスルスルとぼくの体に巻き付き、ワンピースへと姿を変えた。意図せずして、それはぼくにとって初めての女性服となった。
「神々の衣だ。玖珠樹の体でも触れることができるだろう?」
指を滑らせてみて、言葉の通りに触れられることを確かめる。絹よりも軽く、やわらかく、それこそ着ていることを忘れてしまうほどに存在感が希薄な衣だった。
「おいで、玖珠樹。見せたいものがある」
潮凪様は社へ歩み寄ると、扉をそっと開ける。
「そこに入るの? そんなに小さなところに?」
「社であれ祠であれ、現世にある神々の具象物は、本質とは必ずしも一致しない。現世での栄枯盛衰は信仰に左右されるが、神域に関してはその限りではない」
「つまり、どういうこと」
潮凪様、ひいてはエミの表情がふっと緩む。
「入ってみれば分かるよ」
エミの顔で、エミの声で言われたためかもしれない。潮凪様――何百年にもわたって生き続けてきた神様が、次第に幼子へと立ち返っていくような錯覚に見舞われた。
潮凪様に続いて社の中に入る。頭を突き入れ、膝を着きながら前に進めば、景色は一変した。行き当たりなどなく、苔むした板の壁など目に入らず、透き通った水の回廊が広がっている。凍っているわけでもないのに水は流れ落ちず、壁として形が保持されている。
「きれい」
それしか言えない。瞳どころか心の奥底、感覚の全てが壮麗な光景に奪われていた。
「ふふふ、そうであろう? 神域に人間を招き入れたのは実に七十年ぶりだが、いつの世も人間は喜んでくれる。玖珠樹も違わなかったことが、妾には嬉しい」
「七十年前のヒトは、潮凪様の御名を知っていた?」
「あぁ。妾が忘れられる前に、妾を知っていた最後の人間だ」
今は玖珠樹が知ってくれているから寂しくはないぞと神様は続けた。ぼくは困った風に笑い、胸が少しだけ苦しくなった。七十年間も忘れられるというのは、果たして《寂しい》なんて言葉で言い表せるほど簡単なものだろうか。女の子であることを忘れられた――忘れさせられたぼくでさえ、十六年というちっぽけな歳月でさえ、そんな言葉では足りないというのに。死を迎えた後の虚無感を生きながらにして味わうかのような、生き地獄と形容するに相応しい苦しみだったのではないかと邪推せずにはいられない。
「玖珠樹は優しいな。ありがとう、そんな顔をしないでおくれ」
頭に手のひらが乗せられる。エミの肌を通して潮凪様の温もりが沁みてくる。堪らず、ぼくは首を振った。違う。そう、違う。ぼくが心を痛めているのは神様の苦しみについてではない。神様が苦しまなくてはならなくなった原因に対してだった。母が《私》を幽閉したのと同じように、潮凪様を知っておきながら誰にも伝えることをしなかった七十年前の誰かに対して、ぼくは勝手な怒りを燃やしているだけだ。
「おいで」
頭を撫でていた手が降ろされ、潮凪様に手を引かれて回廊の奥に進んでいく。水でできた壁はぼくと潮凪様の姿を映し、映された像は別の壁に映される。多面体が複雑さに拍車をかけ、水の回廊は巨大な万華鏡となっていた。
「これから見せることは、少々――……いや、だいぶ酷なことかもしれないが、これは玖珠樹の事実なのだ。どうか受け入れて欲しい。目を逸らさずに視て欲しい」
「ぼくの事実? それは、ぼくが女の子であること?」
「それも、紛うことなく玖珠樹の事実だな」
けれど、と潮凪様は続ける。
「これは、雁屋玖珠樹という生命に抵触する事実だ」
回廊の先、一枚の扉が開けられ、ぼくは息ができなくなった。そこは円形の小部屋。透き通った光で満たされた房室。入口では十六歳の玖珠樹が立ち尽くし、中央には十歳の玖珠樹が浮かんでいた。真っ平らな胸、くびれのない胴体――股間に走った小さな割れ目を除いては、紛うことなく男の子と詐称できてしまう体が水塊によって浮かべられていた。
「それはそなたの容れ物だったもの。魂の抜け落ちた器だ」
眩暈がする。視界は落ち着かず、激しい胸の動悸を覚えて足を縺れさせる。倒れ込んだ先は潮凪様の腕の中だった。十歳の玖珠樹を見つめ、腕を持ち上げ、透けた肌を凝視する。唇はバリバリに乾いていた。舌で湿らせ、潮凪様へと瞳をもたげる。
「そなたはそろそろ思い起こせるはずだ。六年前に何があったのか、何がそなたの心身に訪れたのか。妾と玖珠樹が出会ったのは、妾の神域――海であっただろう?」
目を覚ました場所は海の上だった。潮凪様の膝に頭を預け、穏やかな潮騒に包まれながら、
《坊の場合、もう後悔なんて役に立たんのやな》
潮凪様が呟いた言葉を耳にしていた。ぼくにとって、後悔は無縁なものになったと。
「そうだ。ぼくはあの日――……終わったんだ」
望生が生まれたのは夏至を迎える少し前のことだった。母に訪れた二度目の奇跡、その結果が《弟》であったことに歓喜を抱き、ぼくは母に詰め寄った。ねぇ、これで女の子に戻ってもいいよね、みんなと同じになってもいいよね、と。拒まれるなんて、露程も思わずに。
ぼくは恨んだ。母に対して憤怒を向けた。
《ぼくは、お母さんの人形じゃない》
されど、抗いの言葉は否定され、母の道具であることを突き付けられた。《私》から逸脱して《ぼく》として生きる中で辛うじて見えていた希望が失われたとき、ぼくは盲目となった。全ては晦に呑み込まれ、未来は見えず、蹲って涙を流すことさえもできなくなった。
「妾の中に、玖珠樹は落ちてきた」
海が呼んでいる気がした。海が揺りかごのように思えたんだ。
高度何メートルだっただろう。身を躍らせた先、扁平な海月が重なり合った水面はコンクリートと同じ硬さを有していた。耐えられるはずなどなかった。小さな体、小さな心に乗せられた命は、確かにそこで燈火を途絶えさせた。後に、潮凪様に助けられるとは知らずに。
「妾の一部を玖珠樹に与えた。たとえ肉体と魂が乖離したとしても、妾の霊が容れ物となり、玖珠樹の魂をこの世に繋ぎ止めた。終わるはずだった、尽きるはずだった雁屋玖珠樹を」
しかし、と潮凪様は言葉を続け、ぼくの手を取った。
「神々の霊といえど、妾が分け与えたものはほんの上澄みに過ぎない。純粋な人間の肉体とは等価になり得ない。その結末が、玖珠樹に訪れている異変だ」
「それならぼくは、消えるしかないんですね」
図らずも声が震えていた。平然であろうと努めたはずなのに、臆病なぼくは感情を抑え切れず、そして、きっとそれが正しい反応だったのだろう。泣いていいのだ。怖れていいのだ。感情を爆発させることこそ、ぼくに求められていたのだ。母の子供、母の所有物である前にぼくは一人の人間であり、雁屋玖珠樹という独立した命であり、たとえその力がちっぽけなのだとしても俯いたままでいるべきではなかった。
結果としてぼくは自分を殺めてしまい、そのことをここで後悔しているのだから。
「なぁ、玖珠樹。妾との約束を憶えているか?」
静かに、感情の抑揚をなくして潮凪様は切り出した。
「上澄みではなく、妾の霊核そのものを受け継ぐこと。それがそなたの生き永らえる方法だ」
「それしか、ないの?」
「それだけだ」
「もしもそれを選択したなら、潮凪様はどうなるの?」
彼女に迷いというものはなかった。躊躇いという言葉は似つかわしくなかった。僅かな諮詢も挟まず、潮凪様は「消える」と断言した。それが御霊を譲るという行為の代償だと。
「よいか、玖珠樹。神々の霊核と人間の魂に違いはない。魂はひとつの肉体にひとつしかなく、二つの肉体で共有することはできない。そんなことをすれば魂は壊れてしまう」
「だからって、どうして潮凪様が終わらなきゃいけないの⁉ 勝手に終わったのはぼくなのに、お母さんと向き合うことを諦めて、身を投げて、潮凪様はそこに居合わせただけなのに、どうしてぼくの代わりに終わろうなんて思えるの。どうしてぼくなんかを生かそうと思えるの」
潮凪様の胸に縋る。手のひらいっぱいで彼女の衣を掴み、額を擦り付ける。眦は凍り付いたように痛みを放ち、喉の奥から脈打つ熱が上ってくる。とめどなく決壊する。潮凪様の衣に涙が降りかかり、浅黒いシミを広げていく。分からない。分からないとぼくは喚き、潮凪様の手によって引き剥がされた。見上げた貌は凛然と張り詰められ、ぼくを睨み付けていた。
「驕るなよ、玖珠樹」
潮凪様の瞳に射抜かれる。
「己が助けられていると思うな。己を何の利用価値もない存在だと卑下するな」
体を押される。よろめき、背中から倒れ込む。潮凪様はぼくの体に馬乗りとなって跨り、ぼくの顔の横に両手をつき、ぼくを見下ろしていた。エミの髪が流れ落ちてぼくの頬をくすぐる。エミの瞳を通して、潮凪様の意思は妖艶に輝いていた。彼女を取り巻いているものは我欲の渦、清廉とはかけ離れた思惑だ。
「妾がそなたに与えるものは救済ではない。妾は雁屋玖珠樹を利用するだけだ」
「どういう、こと」
潮凪様を見上げる。眼窩に影を落としながら、潮凪様は身を屈めた。胸と胸が触れ合い、潰れ合うまで体を密着させ、共鳴する鼓動に包まれながら言葉が紡がれる。それは引きちぎられそうな声音で、ぐしゃぐしゃで、聞くに堪えない苦しみの音だった。
「妾も消える運命にあったのだ。六十年前に忘れられ、信仰が失われ、綿津見神としての潮凪は消えるしかなかった。まさにあの時、妾は終わろうとしていて、そこに玖珠樹が現れた」
嬉しかったと、潮凪様は嗚咽を溢した。
「そなたと出会い、知られたことで妾は存続する術を見いだした。雁屋玖珠樹という現世で知られている魂に綿津見神潮凪を移すことで、妾はこの世に生き続けることができると」
頬を撫でられる。手のひらは一度離され、指先が眦の横に添えられ、すーっと頬を下り、唇へと辿り着く。撫でられ、突かれ、おかしいくらいに弄ばれる。
「だから、後生だ。妾を生かすためにも、そなたが生きるためにも妾を継いでおくれ」
ぐるぐると、とんでもなく大きな流れの中に放り込まれたような気がする。
ぼくは雁屋玖珠樹。男の子として育てられた女の子。女の子になり切れなかった女の子。
「……ぼくに、生きる価値なんてあるのかな」
「そなただからこそ生きる価値は宿る」
「こんなに弱くて、ちっぽけなのに?」
「強い人間などいない。それは繋がりを持っているだけのことだ。元来より人間は不完全で、小さく、過ちを犯す。そこから立ち上がろうとするときには繋がりが手を貸してくれる。玖珠樹はどうだ? そんなヒトは誰もいないか? 自分はひとりぼっちだと思うか?」
弾かれたように首を振る。
エミがいる。潮凪様がいる。
小さな人間が一人、小さな神様が一人、小さなぼくがそこにいる。
「…………どうすればいいの?」
「眠り姫を目覚めさせる方法など、決まっているだろう?」
両腕を伸ばし、潮凪様の首に抱き着き、引き寄せる。唇と唇が触れ合う。それはとても冷たく、とても温かい。触れ合わせたところから何かが流れ込んでくる。それはチョコレートが蕩けるようにぼくの内で広がっていき、艶やかな余韻は骨肉に沁みていく。
命の味が、広がっていく。
たっぷりと五秒間、思考がおぼろげになるまでそうして、唇を離す。ふと腕に目を向ける。透明と煌めきの肌は血潮の赤らみを取り戻し、怪異とは無縁の骨肉を取り戻していた。
「まだ足りないぞ、玖珠樹」
今度は潮凪様から唇を触れさせてきた。ぼくの吐息が潮凪様の肺を膨らませ、潮凪様の吐息がぼくの口内をくすぐる。吐息を共有する感覚、触れ合わせたやわらかさ、頭の奥でチカチカと弾ける火花、原型も残さないくらいに溶けてしまった思考――
全てが六月の泡沫、ぼくと潮凪様が出会った日を想起させた。
「よいか、玖珠樹。そなたはこれより生き神となる。現世の存在でありながら神々の領域に手をかけた者、生きながらにして信仰の対象となる者――……大綿津見神、玖珠樹だ」
潮凪様の一言一句がひどく緩やかに聞こえる。言葉を紡ぐ唇は、紅色の煌めきに覆われていた。
「そなたの肉体が現世より朽ち果てたとき、御霊は神界へと召し上げられ、真に神の座に就くこととなる。その時のために、どれほど小さくてもよい、現世に証を残しておきなさい。雁屋玖珠樹という人間が生きていた証、大綿津見神玖珠樹という神がそこにいた証を……」
「ぼくに、そんなことができるかな」
潮凪様はふっと笑った。くだらないことを訊くなとでも言うように。
「玖珠樹が玖珠樹らしく生きるなら、それで充分だ」
それが最後だった。それで終わりだった。
潮凪様はいなくなり、ぼくはエミに触れることができるようになっていた。
揺れる背中の上で、エミは目を覚ました。微睡む意識の中、自分が整えられた家の中ではなく、乱雑な山中にいることを認識したのか、彼女は呆けた声を出す。
「玖珠樹、玖珠樹」
肩を叩かれる。振り返り、微笑みを彼女に向けた。
「おはよう、エミ」
エミを背中から降ろす。彼女はこちらの姿を見て、なおさら困惑を募らせたようだった。
「これ? 可愛いでしょう?」
潮凪様からもらった白糸の衣、チュニック丈のワンピースをそっと揺らす。
「……女の子に戻ることにしたの?」
「少し、違うかな。私は初めから女の子だったから」
玖珠樹が玖珠樹らしく生きること。私が私らしく生きること。
それはきっと、こういうことなのだろう。
「そっか……よかったぁ……」
頬をほころばせ、瞳にはち切れそうなばかりの喜びを滲ませて、エミはそう言ってくれた。その姿を見て、思わずにはいられない。私の繋がりは、確かにここにあるのだと。
「一応、謝っておくね。エミの初めて、奪っちゃったかも」
エミは何が何だか分からないというように、首を傾ぐ。
「私の初めてもあげたんだから、お相子様ということでお願い」
きょとりきょとりと、真っ赤な疑問符の群れ。
「なんてね。冗談、忘れて」
私は肩を竦める。知らぬが仏、神様だって嘘を吐く。私はそういう、人間なのだ。
嘘によって生かされてきて、嘘によって歪められた私。そこから逃げることしか、終わることでしか活路を見いだせなかった愚かなぼくを、あの神様は助けてくれた。あれが打算だったなんて、理由ある善意だったなんて神様もくだらない嘘を吐く。
えぇ、けれど、せめてこの先は――自分にだけは嘘を吐かずに生きていこう。
投稿目標が守れない……。仕事が忙しいと体力回復に時間が割かれ、更新分を書き切ることができません。それにしても無茶な目標を立てたものです。
綺麗な話として終わったのではないでしょうか。私にしては珍しい部類の話になりました。嘘によって歪められた玖珠樹が自分らしく生きるまでの過程、などと言えば聞こえはいいのですが。勘のいい友人なんかにはいろいろ取り繕ったところでこのシーンが書きたかっただけだろうと見抜かれてしまいそうです。
書きたいものを書くのがベストです。書いている最中は「終わらない~うぁああおぅ」と喚いていましたが。〆切デスマッチはまだまだ続きますね。とりあえずは2週連続掲載を目指して。
読了感謝。