泡の痕
愛する人に愛されるために声と引換で足を得た人魚姫。
けれど自分の声は誰にも届くことなく泡となって消える。
そんな悲しい話を、自業自得の話をよく母に読んでもらった。
認めてもらいたくて足を貰うなんて馬鹿馬鹿しい。
姫だか末娘だか知らないけどさ。
ただのワガママで自分が死ぬ羽目になるなんてありえないでしょ。
愛してるからって愛されるわけじゃない。
見返りは求めちゃいけない。
誰も自分を見てなどいない。
そう思って世の中生きなきゃ駄目だ。
でも、海は特段素晴らしいと思う。
海はいい。
黙っていても勝手に寄せて返す波。
毎日死んでいく魚の匂い。
随分汚され青と灰色の混ざった大きな水の塊。なんて言ったってこの世の水の9割はこの海水。
水と3.5%の塩とその他諸々の金属で出来ている。
人がいようといまいとお構い無しに毎日飽きずに満ちたり引いたり。
そんな人に対して酷く無関心な海が好きだ。だから、小さい頃はその海が舞台になる悲しい話が好きだったのかもしれない。
そんな事をぼーっと海辺に座って考えている。
冬の海は冷たい。
水がそこにあるだけでヒンヤリとした風が運ばれてくる。
学校はサボった。
よくあるだろう。
通勤中のサラリーマンがいつもと逆の電車に乗って海まで行ってしまう…とか。
べつに学校が嫌なわけでは無い。
めんどい。だるい。うざったい。
それでも箱の中の“友達”は嫌いじゃないし、勉強だって楽しい時はまぁ楽しい。
それでもたまに思う。
俺はきっと独りで、他の皆には誰かいるのに、俺は誰にも認めてもらえない。
誰かに言って欲しくなる。
『お前は独りなんかじゃないよ』とか
『お前のおかげで』『お前がいてくれたから』とかとか。
甘えたことを。自分でもそう思う。
もう高校生だぜ。そんな事は言っていられない。モラルやら常識やらが俺達を縛る。
中学生過ぎたらオトナ。
ブレザーとスラックスはコドモとオトナの境目を曖昧にさせる。
物思い、という程でもないがここに来てそろそろ何時間だろうか。寒くなってきた。
ブレザーの中に着たパーカーをぐっと前に持ってくる。それでも寒さは凌げない。退散するか。大して何も入っていないバッグを持って立ち上がり伸びをする。
コンビニでなにか暖かいものでも買おう。閑散とした海沿いの街をふらついて、また海をすこし眺めてから帰ろう。
頭の中で計画を立てていると、声をかけられた。
声の出処は真後ろ、アスファルトの道路に繋がる階段に立っていた男だった。
その男の他にここに留まっている人はいない。
たまに通る車と自転車の主婦、ゆっくり歩き去っていく老人。
海の遠い先に小舟。
ここと言えると範囲には俺と背広の男しかいない。
「きみ、学生だろう?どうしてこんな時間にこんな所にいるんだい?学校は?」
なんだ、ただのお節介のおっさんか。
たまにいるんだ。俺がこうして学校をサボって海に来ていると話しかけてくるヤツ。学校はどうしたとか、学生だろうとか一々関わってこようとするヤツ。
サボっていようが何していようが、お前がそれを知ってどうするんだよ。
ただ、自分が“不良な少年に声をかける正義ある人間”という事を満たしたくて声を掛けてるんだろ。
だから、いつもの様に返すだけだ。
今日はちょっと気分が悪くて、悪いことだとはわかっているけど学校をサボってしまったんだ。誰にも言わないで欲しいな。
これで満足だろ?お前の“正義感”は満たされるだろ?だからとっとと引いてくれ。邪魔なんだよ。そう思っていた。
「そっかぁ…じゃあ、時間はあるんだろう?僕とお茶でもしない?」
そうそう、そうやって大抵のヤツは引いて…は?何ってんのコイツ。何困ったように笑ってんの?お茶だ?行くわけないじゃん馬鹿なの?
「近くによく行く喫茶店があるんだ。ハーブティーが美味しくてね。コーヒーもあるんだけど僕コーヒーあんまり好きじゃないから…」
待って待ってなんで行くことになってるの?行かないよ?てかお前誰だよ。
「あ、紅茶なんかじゃなくてジュースの方がいいかな…そしたら違うところもいいかな…」
「さっきから何?俺一言も行くなんて言ってないよね?てか、あんた誰」
「やっと喋ってくれた!僕は…中村…うーんどうしようかな…圭介。そう僕は中村圭介、です!」
「なにそれ、偽名じゃん。ますます怪しいし。お茶とかなんとか言ってたけどそこまで俺無能じゃないから。じゃあね。お じ さ ん 」
そう言って中村圭介(偽)の横をすり抜け駅に向かう。
変なやつに絡まれて海どころじゃない。
もう、なんて言うか興が醒めた。まだ下校時間には早いけど、どうせ家に親はいない。
「あ、待ってよ。行っちゃうの?つれないなぁ」
その声が聞こえた時には肘を引っ張られ、後ろによろけ肩を掴まれていた。
「ね?来てくれるでしょ?」
怖い。優しい顔して威圧的な言葉を放ったこの人の本性が全く見えない。
向かい合って座ったのはさっき行きつけとか言っていた海からそう離れていない喫茶店。窓際からは海が見える。
奢りだと言うから、一番高いものを選んだらホットココアが出てきた。
まぁ…いいか、寒かったし。
向かいにはハーブティー。
ココアを飲んでいる俺をニコニコ見ている男と目が合った。
「美味しい?ココアでいいならいくらでも。軽食もあるよ」
大人(財布)の余裕を見せつけられた。むかつく。
「別に。腹減ってないし。てか何なの?何が目的?きもい」
「何が目的って…うーん特にないんだけど。偉そうな事言ったけど僕も今日会社サボってるんだよねー」
「は?ほんと意味わかんない。」
人の金で飲むココアは美味しい。
奢られてるんだった。まぁご機嫌取りくらいはしてやろう。おじさんからおにーさんにランクアップだ。
「なんだっけおにーさんの名前。」
「あ、おにーさんになった。僕は中村圭介だよ。君の名前は?」
「姫川…」
「下の名前は?」
「…玉希」
「ふぅん姫川玉希くんか。かわいいね」
「きもい。」
ココアもぬるくなってきた。そろそろ引き時だな。後はどうやってこのおにーさんを撒くかだ。
「あの、えっと中村?さん俺そろそろ帰りたいんだけど」
「えー?でもまだ学校終わる時間じゃないよね?」
腕時計を見てそういった。なんでそんなこと知ってるんだ。時計は2時をさしている。微妙な時間だけど確かにまだ学校は終わらない。どうしたものか…もうこの変人に付きまとわれたくない。
「あ、いやでも、えっと、家遠いんで」
「遠いのにわざわざここまで来るんだ?もうちょっと居ても平気でしょ。何なら車出してあげようか?僕の家すぐだし」
何言ってんだこいつ!!
「いやほんとなんなの?俺なんかした?」
「うーん…なんというか、言いにくいなぁ…家来てくれたらはなそう、かな?」
「俺にリスクありすぎでしょ。じゃあ海行こうよ海。人いないし。屋外だし」
「いやぁだから屋外っていうのがネックなんだけど…」
「知るか」
「つれないなぁ」
そうして海まで来た。
海に続く階段に少し距離を置いて座った。毎月と言っていいくらい海には来てる。砂浜にも慣れている。逃げる準備はOK。これでも一応運動神経はいいほうだから余程のことが無ければ逃げ切れる…!
「で、なんなの。サラリーマンが会社サボって高校生にナンパした理由」
「あっそっか、ナンパになるんだ」
気づいてなかったのかよ。そう思わずにはいられない。けど黙って話を聞き続ける俺超偉い。
「いやぁ、お恥ずかしい話、昨夜恋人に逃げられまして。玉希くんがその恋人に似てたから、つい。」
「恋人?俺に似てるって、俺そんなに女っぽくなくない?」
そんなに背が低いわけでも、細いわけでもない。一応陸上部なんだけど。鍛えてるんだけど。ビーチフラッグとか超得意だからな。
「えーっと、その、恋人っていうのが…丁度君みたいな、男子高校生…みたいな?」
「はぁ!?ゲイなの?てかエンコーじゃんエンコー!わかる?犯罪だよ犯罪!!」
「いやそんな犯罪って連呼しないで…というかそういうやましいことしてないから…」
「ちょっ近づかないでくれる?犯罪者とかマジ勘弁して」
「いやだから…もおお…だから言いたくなかったんだよぉお…」
「言いたくないとか、犯罪だしね」
「そうやって言うだろうから言いたくなかったんだよ!」
初めて声を荒らげたのにビックリした。
「てか…逃げられたって、一緒に住んでたわけ?」
「いや、まぁ…うん…」
「ガチじゃん」
「ガチで愛してたんだけどなあ!」
「こわ…逃げられたってなに」
「…朝起きてきたら朝食と一緒に手紙があって、『家に帰ります今までありがとう』って…」
「ほんとに逃げられてんじゃん。そもそもよく一緒に住めたよね」
「住んでたっていうか、彼が家と僕の家を行き来してたみたいな感じなんだけど…ってもおお!これ以上聞かないでよ!」
コロコロ声色を変えてしょげたり怒ったり懐かしんだりと忙しそうだった。
凄いね、そんなに好きな人がいたんだ。
「で?俺はその恋人の代わりになんの?ナンパしてあわよくばとか思ったの?」
「違うよ…確かに似てるけど僕もそこまで節操なしじゃないし…でもほんとによく似てるんだ。海にひとりでいる所とか…言葉の返し方とか…」
「やっぱり代わりじゃん」
「違うって…玉希くんは玉希くんだろう…彼は彼なんだよ…」
「あっそ、俺帰っていい?」
「あー…うん…ごめんね…」
「なんか気味わりぃから先言っとくけど海に入って自殺とかしないでよ。俺ここすごい好きだから。迷惑」
「お心遣いどうも…そう簡単に死にゃしないよ…」
変なヤツ。でもまぁ2度と出会うこともないし、人生に1回くらいあってもいい体験だと思う。そう思い込むことにした。
ココア美味しかったな…次海に行く時はあの喫茶店にも行こう。
また来てしまった。分かっていながら。
今日は天気がいいから少しだけヨットをやっている人がいる。良くやるよねー。このクソ寒い中わざわざ海に入るなんて。
遠い水平線を見る。
海と空の境目。確実に色が違うその線を太陽は昇って下りてを繰返す。そういう意味では空も人に対して無関心だよね。好きだよそういうところ。干渉してこないところ。
うちの親も俺には干渉してこない。仕事人間だから。母親も父親も保護者としては立派だけど、世間でいう親としては落第点だろうな。
でも、親は親でちゃんと気遣ってくれているらしく、誕生日とかクリスマスとかそういうイベントにはできるだけ休みを取ってくれている。あれで優しいんだ。
だから、過干渉には慣れない。
「ねぇねぇ玉希くんよく来るね。僕に会いに来てくれてるのかな?嬉しいなあ!傷心の僕を慰めてくれてるんだろう?僕にはわかるようんうん。ココア奢っちゃおうかな!」
中村(偽)と出会ってから何度か海にきていると、必ずコイツがいる。
最初なんかは本当に忘れていた。
「僕だよぉ!忘れちゃったの?中村圭司…圭太…えっと、なんだっけ…」
という馬鹿っぷりを発揮させられ、やっと思い出した。
俺が一言ココアといえば喜んで喫茶店まで連れて黙っていても目の前に出てくる。
「彼、みつかんないの?」
「うーん、見つかんないっていうか探してないし」
いつもの如く困ったように笑っている中村(偽)が言うには「彼が自分の意思で出ていったようだし、僕にはどうしようもないよ。彼の家がどこにあるか知らないしね」だそうだ。だから、からかってやろうと思った。
「じゃあさ、俺が代わりになってあげようか」
いつもニコニコして細くなっていた目が見開かれて、こっちを見た。
手に持ったいつもと同じハーブティーが波を立てる。
「なっ!?は!?えっちょっ、なにを、」
「じょーだんに決まってんじゃん。本気にした?」
「はぁぁあ…大人をからかうもんじゃないよ…」
「ココア追加してくれたら圭介さんって呼んであげる」
「僕は別に玉希君にそういうのは求めてないよ。ココアなら普通に頼めばいいし」
「なにそれ、フラれて俺に声かけたくせに」
「それを言われると痛いなぁ…でも君は代わりにはしないしなれないよ。君は君だから」
二杯目のココアが出てきた。コイツ俺がココア好きだと思い込んでる。いや、好きだけど。こんな甘いもん何杯も飲んでらんねーよ。ココアが一番高いからココア飲んでるだけだし。
「じゃあ友達になろうよそれならいいでしょ?」
「なんだが随分積極的な高校生だなぁ…怪しい」
怪しいと言われても特に何か企んでいたわけでもなく、ただ“社会人の友達”という奴に特別感を見出していただけだった。
そうそう居ないじゃん。自分よりも結構年上の友達がいるなんて。
どうにかこうにか言いくるめて、と言うかあっちが折れてくれて、連絡先をゲットした。ゲットしたけどこれいつどう使うんだ…流石にちょっと考えなしだったな…一応登録だけはしておくかと思って、見た連絡先が書かれたペーパーナプキンには電話番号、アドレス、名前は中村と書かれていた。
これ、中村はもしかして本名なのか…?
俺達が会うのは必ず日曜日。
中村の会社はホワイトのようで大抵の日曜は休みらしく、まぁ2週間に1回くらいは俺も海に行くのがお決まりになってきた。別段、約束もしていない。
ゲットした連絡先は使われないままだ。
海に行けば中村がいたり、俺が先に海にいたりとまちまちで、俺が行かない日も中村が来ない日もあった。
合えば他愛もない話をした。
話題がない時は喫茶店に行ってココアとハーブティーが並ぶ。
帰る時間もまちまち。その時その時で全て違った。
そんなゆるい時間が好きだった。
金曜日。今日が終われば後は土曜日だらけて日曜には中村と謎のゆるゆるタイムだ。そう思っていた。気が緩んだんだろう。
それの始まりのきっかけはきっと些細なことだ。もう家に帰ってしまえば忘れてしまうような。
でもそれは彼らに酷く響いたみたいで。
こんな事はどこにでもあるありふれてた事だ。ショックは少ない。
でもどうだろう。“一番の友達”っていう奴らに散々な陰口を叩かれて、机の中に雑巾を詰めている所を目撃したら。
はっ金曜日にやるなんてよく考えたな。なんで俺なんだよ。なんかした?ああでも少なからず心当たりはあるかも。やっぱり皆には皆がいて俺は独りだったんだな。お前ら結構浅はかだよな。俺が黙ってお前らの洗礼に耐えると思うのか?反抗でも何でもしてやるよ。“箱”の中の“友達”は慈善活動だ。ストレスが溜まったから発散してるんだろ。
ソレを見て気づかれないように学校を出て走って帰った。電車の速度が嫌に遅く感じた。もっと速く走れ。家に駆け込んでも何の音もしない。箱は学校だけじゃない。この家も、誰か人がいなきゃただの四角い箱だ。
冷たいだけの空気が流れている。
自分の部屋だけが本当のテリトリーのように感じる。
俺はこんなにメンタル弱かったのか。
思い知らされる。
見返りは求めちゃいけない。
誰も自分を見てなどいない。
そう思って世の中生きなきゃ駄目だ。
でも、見返りが欲しい。
好きな友達には自分のことを好きになって欲しい。優しくしたら優しくされたい。俺たちはガキだ。だからそんな簡単な事に気づかない。自己中心的で利己的で都合のいい時だけ“友達”だ。親だってそうだ。一生懸命やってくれるけどさ、違うだろ。俺が求めてるのは“多めの小遣い”じゃなくて家だ。
見返りが欲しい。欲しい言葉がある。
俺は、その、見返りをくれるオトナを1人、知っている。
あの紙切れを探した。アドレスは登録したけど番号は登録してない。必死になってスマホを叩く。
一番目。
コールが長い。駄目だつながらない。
二度目。
また駄目だ。そうか…オトナはまだオシゴトの時間か
ダメ押しに三度目。
コールが虚しい。もう切ろう。馬鹿だな。出るわけないだろ。
「もしもし?どちら様ですか…?」
「ははっ…馬鹿だ…なぁ…」
「えっと…」
「仕事してんじゃないのかよ…」
「あっ玉希くん?!どうしたの?何かあったのかい?」
「…別に、悪戯してやろうと思って掛けただけだし」
「そっかぁ、明後日の約束をしてくれるのかと思ったけど僕の勘違いだったのかぁ…」
「明後日の約束……いいよ、しようよ約束。いつもの場所に11時位に、昼は中村さんが奢ってよ。いつもの喫茶店で。じゃあね」
「あっちょ、いいけどっ」
昼奢ってくれるんだ。いいけどの続きは何だったんだろう。耐えきれなくて切った。
馬鹿なオトナ。
馬鹿なコドモ。
それでも俺を拒絶しないのはきっと俺が彼に似ているから。
土曜日は何もすることがなかった。昼もなく夜もなく眠った。ただ明日見返りをくれる人に会うのが嬉しかった。
寝すぎたな…思っていたよりも随分早くに目が覚めてしまった。仕方ないから、さっさと支度をして海に行った。
朝の電車に人は少なくて、ゆっくり海に向かっていく電車に揺られる。
やっぱり随分早かった。
約束の11時にはまだ2時間くらいある。
できるだけ海の近くに座る。朝の寒さがまだ残っていてるせいで潮風は冷たくて、お気に入りのパーカーのフードを深くかぶっても薄ら寒い。
海の水の揺れる音は心地いい。
体育座りにも飽きて、誰もいないのをいいことに砂が服に入り込むのも気にせず仰向けに大の字になった。
空は抜け落ちたように高くて青い。
同じリズムで、違う大きさの音を出す波の音は“箱”の中のざわめきと違って鬱陶しくない。
目を閉じれば昇り始めた太陽の陽と煩くない波の音と背中の少し冷たい砂の柔かさだけだった。
少し、ウトウトしていた。
冬の太陽はあっという間に高く昇って日差しが鋭くて眩しい。
でも、まだ1時間も経ってないだろう。
後ろから砂を踏む音が聞こえる。
しまった。誰かに見られたな。流石に恥ずかしいぞ。
ふと目を開ければ、上から俺を不思議そうにのぞき込む中村の顔。
「早いねぇ玉希くん。もしかして僕に会えるのが楽しみで寝られなかったとか?」
「……あんたに会えるのが楽しみで早く起きた」
「わぁお積極的ぃ」
黙って手を向ければ分かってくれる。
ぐっと持ち上げてくれて立てた。
いつも座る階段に行けば、海は少し遠ざかる。
「で、どうしたの?何があったの?電話してくるなんて」
「別に、何もないって言ったじゃん」
「じゃあなんであんなに声が震えてたのかな」
「震えてないし。電波悪いんじゃないの」
「僕の前くらい強がらなくていいのに」
僕の前くらい強がらなくていい
なんだよそれ。まるで、トモダチ以上の関係みたいじゃないかよ。それは、だから、消えた彼と、そうだったんだろ。
俺の中でその見も知らぬ彼と自分が重なる。
コイツが見返りをくれるのは、俺が彼と同じだからだ。
それでもいいと思える。
「なんか、俺いじめられるらしいよ」
「らしいって?いじめられたんじゃなくて?」
「そう、金曜の放課後俺の机に雑巾仕込んでんの見た」
声に出してみればあいつらのやった事がどれだけ幼稚なことか理解できた。
けれどその幼稚さは精神的に抉られる。
「そっかー。で、玉希くんは傷付き僕に電話してきたと。うーん僕も玉希くんには慰められたしなぁ。僕はどうすればいいのかな?」
はっ、それを俺から言わせるんだ。
「見返りが、欲しい。優しくしたら優しくされたい。それでも見返りが無くてもやってあげようと思える人が、見返りを求めなくても返してくれる人が欲しい」
「俺を代わりにしてよ」
くるしい。自分が代替だと分かっていながらそう言うのは。それでも、代わりになれれば、きっと欲しいものが手に入る。
「君が、そう言うなら、僕は構わない。けれど君は代わりにはなれないよ」
笑いが漏れる。
ふっ、はは、ははは、俺は代わりにもなれないか。どうしようもねーな。海はおおきくて人に無関心。だから、人がそこで何をしようと死んでしまおうとお構い無し。
「玉希くんは玉希くんだろう?だから、彼のことは忘れるし君に選んでもらって光栄だよ」
取ってつけたような台詞。かっこよくもなんとも無い綺麗事だ。でもその綺麗事はやけに綺麗にみえる。
「じゃあさ、名前、教えてよ中村圭介さん」
「それ」
「それって中村圭介?」
「そう」
「だ、だって、あんな、考えながら名乗ってたのに!?」
「いやね?本名を名乗るのも気が引けたんだけど、玉希くんみてたら本名でもいいかなって思って」
「…………圭介さん」
「何かな玉希くん」
「別に」
「人って好きなものを認識した瞬間が一番可愛いよね」
カアっと体温が上がる。なんでそういう事言うかなこの人は!
けれど、海のおとよりこの人の声を聞いていたい。
「さぁ寒くなってきたし、お昼食べようか。玉希くん」
「うん…」
途端にこの人に奢らせるのに戸惑いを感じ始めた。
人の気も知らないで、じゃんじゃん食べてよなんて。
「飲み物は?ココア?」
「…ハーブティー」
「ココアじゃなくていいの?」
「…圭介さんと同じのが飲みたい」
「ふぅん。ちなみに今この上ない幸せを感じています」
「そーゆーのは言わなくていい!」
初めてココア以外を頼んだ。
ハーブティーの味はよくわからない。
けれど少し俺には匂いが強い。
砂糖を一つ。
ゆっくり溶けたその砂糖を見て、
ああ、泡は溶けたんだと思った。
俺は王子を横取りした隣の国の姫だったんだ。
けれど、声とヒレを奪った魔女よりも王子の方がよっぽど悪魔みたいだった。
優しい顔で言葉と声で、欲しい物は全てくれるのに、肝心の言葉はくれない。
何が欲しいのかわかっているみたいで。
するりと交わしていく。
俺のこと好きなのかと問えば頷くだけで、好きとは言わない。
酷く優しい海に住む悪魔。
でもそれが泡の残した痕なんだろう。
消えた後、泡の後、泡の痕には。
ままならない愛が残った。