第一ノ一話 「栃木県 駅前焼き鳥店のお通しから焼き鳥まで」
俺はまた、店の前で勇気を出せずにいた。
昔っからそうだ。
俺は、何かにつけて勇気を振り絞ることが出来ずに、ただ時間だけが虚しく過ぎ去っていくだけ。後には何も残らず何も経験しない。
今だって、ただ初めて来る居酒屋に入るだけなのに「うーん、どうしよう」「やっぱいつものとこかな?」なんて小言を呟きながら店の前をウロウロ、ウロウロ。
ようやく立ち止まった焼き鳥がウリの店先で、今度は戸を開ける勇気が無い。
何をやっているんだ俺は。
ただ、戸を開ければいいだけじゃないか。悩む必要なんて無い。俺は客なんだから何を気遣う必要があるだろう。
俺は店のおすすめメニューが書かれている看板を見る。
『焼き鳥、備長炭炭火焼!』という文字が俺の酒意欲を促進させた。
「……よし、ここだ。ここしかない。行こう」
はぁ、やだやだ。
店の前で「よしここだ、いこう」ですって。とんだお笑いぐさだ。
とにかく、俺は意思を決めたらもう砕ける覚悟だ。……最初からそんな覚悟があるのなら、戸だって開けれるだろうに。自分の面倒臭い性格が自分でイヤになる。
足を踏み出し、店の戸をカラリと弱々しく開けた。俺の覚悟は、出鼻をくじかれる。
どうやら、店の戸は二重になっているらしい。勢いが小石に躓いてズッコケた。
だが、これで少しだけ心の余裕が持てたな。
俺は今度こそ、店の戸を開ける。今度はさっきよりも少し強めにガラリ。……まだ、どこか弱い所があった。
「いらっしゃいませー」
俺の入店を目の前で待ち受けていた若い女店員がそう言って駆けよってくる。
「何名様ですか?」
「えっと、一人です」
情けなや、人差し指を一本掲げる。ピンと張りの無い一名様だ。
「あっ、じゃあカウンター席で宜しいでしょうか?」
「あぁ、はい。大丈夫です」
店員は「こちらです」と言いカウンター席の一番左端に誘導する。カウンターにはまだ客は居ないようだ。俺は言われた通りに、カウンター一番左端の席に着き、一息ついた。
カウンターの窓からJR小山駅の『山駅』が覗いている。俺はそれをぼんやりと見つめていたら、店員が背後からおしぼりを差し出してきた。
「お飲物はお決まりですか?」店員は言う。
「えっと、じゃあとりあえず生ビールで」
「はい、かしこまりました」
店員はピピっとオーダーを入力する機械を操ると、俺の背後から去っていく。
とりあえず生。大人の名言だ。まだ二十一歳のフリーターだというのに、心はサラリーマンのオッサン。
おしぼりでまずは手を拭く。今日は昼間、アルバイトの人達とバーベキューをやっていた。と言っても、仕事の一貫のようなもので、しかも俺は幹事だ。いやはや疲れた。
何日も前から準備をして、参加者の人数を把握して、場所を確保して、遅れる人を駅まで迎えに行って、駅に送り届けて。
そんな色々蓄積した今日の疲れを、おしぼりが綺麗に拭き取ってくれた。
おしぼりを使うと、店内を見回す余裕が出来る。
店内は全体的にほの暗い。オレンジ色のライトが点々と自己主張をしている。
カウンター席は六つ。うち一つ一番左端が俺の席だ。真後ろにレジと出入口がある。
小上がりの座敷席は全部で四つらしい。カウンター背後のメイン通路右側に二つの四人掛け座敷席。メイン通路を進んで突き当り、右に曲がる通路に沿うように、もう二つ座敷席が設置してあった。
カウンター目の前では男の店員が二人。カウンターの前は厨房になっていた。俺の席はちょうど焼き鳥を焼いているところらしく、煙の奥に三十代くらいの男性の顔が燻っている。
「はい、生中お待たせいたしました」
一通り店内を見回し、見る物も無くなった俺は小山駅の『山駅』で黄昏ていると、背後から生ビールが出て来た。
ジョッキと言っても、案外スリムだ。タンブラーのようなスリムさだが、取っ手が付いているからジョッキだと脳は認識する。泡と液体の比率は3:7。ビールの黄金比率だ、申し分ない。
俺はガシッと男らしくジョッキを掴むと、ノーウェイトで口に運んだ。
……泡だ。泡の飲み心地で麦の味。そうそう、一口目はこうでなくちゃ。生ビールあるあるだ。
「こちら、お通しです」
また、背後から出てくる。今度はお通しの野菜スティックだった。
ダイコン、キュウリ、キャベツ、棒付きショウガ、ミョウガ、それと味噌が一緒くたに湯呑に入った状態で出される。
まずは、ダイコンを抓む。白いスティックの先端には申し訳程度の味噌が色を付けている。
俺は味噌が付いている部分だけを齧る。シャクッと軽い音が鳴った。
ダイコンは案外硬かった。味噌も……塩味が薄い。若人の俺には足りない塩加減だった。
ダイコンに味噌をつけ、食べる。味噌をつけ、食べる。
ふむ、平坦だ。
何も変わらない味。食えども食えども一本道、レールの上を行くが如し決められた味。
まぁ、お通しで世界観が変わる様な店はそうそう無いからな。こういうので良い気もするが、さすがにビールを飲むには塩味が足りないかもしれん。
心の中で愚痴を吐きながら、俺はビールを一口飲んだ。今度は爽快感がある。液体はやはり違うな。
「さて、そろそろ注文でもするかな」
独り言を空中に放る。目の前にあるメニュー表の『くいもん』って文字にこの店の粋さが感じられた。
メニューをめくると、まずはこの店のウリである焼き鳥が目に付く。元々俺はこれが目的で店に来たようなモンだ。「とりあえず生」のように、「とりあえず焼き鳥」は確実。
問題は、焼き鳥の何にするかだ。種類が豊富で目移りするが、まずはこれだな。
――ねぎま。焼き鳥界の王者。
どこのコンビニ焼き鳥でも、必ずコイツが出張ってくる。焼き鳥という事を分かりやすくするために漫画とかでもコイツの描写率は群を抜けてナンバーワンだ。
コイツを食わない焼き鳥好きは恥だ、異端児だ。それくらい、コイツの存在は王たるものなのだ。
しかも宣伝文句が面白い「普通のねぎまだと思うなよ!」なんと強気だろう。そこまで言うなら、勝負しようじゃないか。
……が、二本はいらない。あともう一本くらい頼んでおきたいところだが。
「やっぱ、いつも通りに行こうかな」
俺が選択した二本目は『かわ』。
コイツも焼き鳥の中では代表的な存在だ。主に若年層に好かれている、焼き鳥界のチャラ男。
店によってコイツの当たり外れは、とにかく大きい。美味い物はとてつもなく美味いのだが、ヘタをするとゴムのような飲み込みにくい『かわ』に当たる事から、居酒屋初心者には向いていない諸刃の剣。
だが、俺はメニューの宣伝部分に惹かれたからこそ、『かわ』に決めたのだ。
――パリっとジューシー!
このパリっの部分。これは「ちゃんと飲みこめるようにしっかり焼いているよ!」と言っているようなもんだ。ここの店は期待できるだろう。
取り敢えず、この二品だ。俺は右手を恐る恐る挙げると「すみませーん」と様子を伺いながら言った。
「はい、ただいま」
若い女店員はパタパタと駆け寄ると、オーダー専用機械を取り出し、いつでも注文していいぞという雰囲気を醸し出す。負けていられない。俺も注文で反撃だ。
「えっと、この焼き鳥の『ねぎま』と『かわ』をください」
メニュー表を指差しながら言う。この指差しという行為は相手に威圧感を与える。
指図されたと認識させる事により、こちらの勢いを相手に上乗せするという作戦だ。しかし、別に店員は怯みもせず「はい、ご注文は以上ですか?」と訊いてくる。
俺は負けじと、
「あ、はい。以上です」
「それでは、少々お待ちください」
店員はそう言って、奥へと戻っていった。
ふむ、どうやらこの一戦は引き分けのようだ。二戦目にリトライするとしよう。
それにしても、焼き鳥二本で三七〇円とは。ねぎま一本二百円、かわ一本一七〇円。そこらにある店よりも高い。
それだけ、焼き鳥には自信があるとみた。いいだろう、受けて立とうじゃないか。
それ相応の焼き鳥が出てきたら、ビールも二杯目を頼んでやるし、焼き鳥もおかわりしてやる。
だが反面、「なんだこんなものか」という焼き鳥が出てきたら最後。店側の敗北が確定する。
ビールも頼まないし、焼き鳥も頼まない。食べ終わり次第店を出て、行きつけの店へレッツゴーだ。
この勝負、俺は負けたい。それは全て店次第。
客っていうのは、店の流れ作業のベルトコンベアに乗せられるような存在だ。そのベルトコンベアから外れる様な自分勝手な客は、最早客では無い。
俺は客でありたいから、全てを店に委ねる。だから、勝ちも負けも当然店次第。
さぁ、俺を負かしてくれ。そして、満足な顔で店から出させてくれ。
ビールを飲んだからか、いつしか俺の態度は店に入る前よりも強気へと変貌していた。
そして、そう心に祈る俺の期待は開始早々、勝負が始まる前から暗雲が掛る事になる。
……遅い。
待てども待てども、焼き鳥が来ない。
かれこれ七分以上は待っている気がする。もう野菜スティックも、一齧りしたミョウガと味噌が残るのみだ。
二本に一体どれだけ掛ると言うんだ。さっきから座敷席には焼き鳥を提供している様にも見えないし、目の前のオッサンは煙に塗れている。
きっと、その煙の出所は焼き鳥なんだろう? だったら、その焼き鳥は一体どこに消えているんだと言うんだ。
早くも、俺の焦燥感はマックスに到達していた。まだお通ししか食べていないのに。
嗚呼、ビールがもう半分だ。焼き鳥と共にビールが飲みたかったのに、半分素ビールとはこれ如何に。
グチグチと心の中で呟いていると、傍目で女店員がこちらに向かって来るのが見えた。
ようやく来たか。
そう漏らすように、俺はビールを飲んで口を潤した。
「お待たせいたしました」
おう、待ちくたびれたよ。
勿論、声には出さない。「はい、ども」と短く言って出された焼き鳥を一瞥した。
四角く黒いお皿に二本の焼き鳥。ねぎまとかわ。端っこの方にワサビがお澄まししている。
多分、塩焼き鳥だからワサビが乗っているのだろう。そういえば、メニュー表に(タレ/塩)の文字が無かった。恐らく、この店は焼き鳥だけは塩しかないのだろう。
だが、俺にとってはそれで十分。寧ろ嬉しい。
若いのにタレときたら胃もたれを起こしてしまう。心はオッサンどころか、中身もオッサンだ。外見だけ若々しいオッサン。目の前の男をオッサンなんて呼んで蔑む立場ではないかもしれない。
さて、気を取り直して俺はねぎまを引き揚げる。
ふむ、なるほど。たしかに普通のねぎまとは違うようだ。ひと目見てそれがよく分かった。
何しろ、ネギはネギでもタマネギだからだ。一瞬、ネギの白い所かなと思ったが、これはどう見てもタマネギの欠片。黒く端っこが焦げているのを見ると、タマネギとやらお茶目な存在だと察する。
まずはねぎまを一口。肉とタマネギ共にいただく。すると、暗雲が一直線の光から逃れるように散っていく。雲散霧消。
一言、美味い。
肉は丸く皮もほどよく引っ付いていてそれがパリっとしている。良い火の通り方だ。アツアツとしている。さっぱりした塩味の表面から濃厚な肉の旨みも溢れ出てきた。しかもこのタマネギ、良く火が通っているかと思いきや心なしかシャックリしている。
主張し過ぎないネギとメインだと言い張る肉のバランスは最高のバッテリーだった。監督もさぞかしビックらこくだろう。
いつの間にか、俺の手はビールに伸びていた。逆らう理由も無いから、流れに身を任せる。
肉が通った喉の道をビールが後追いする。その爽快たるやギネス登録だ。
次は『かわ』、と行きたいところだが、ワサビの存在に目を奪われる。
このワサビと一緒に食べたらどうなるのだろう。
俺はワサビと肉を文字通り『箸渡し』する。串を持ち上げ、ワサビが落ちない様に丁寧に口へと運んだ。
パクリ、ツーンとくると思いきやパクリ、ジュワー。
そしてワサビの味がささやかに。ツーンの要素など、どこにもなかった。寧ろ、濃厚だ。
そう言えば聞いた事がある。ワサビは新鮮な物ほど、辛みが薄いと。
なるほど、このワサビ。本ワサビか。しかも辛みが薄いとなると擦りたて。
「試してみるか……」
俺は箸の先端にちょいとワサビを付けると、舌に乗せる。
……おっほ、少し辛みが来た。が、それだけ。ワサビの味が舌全体に広がった。
辛みというか、清涼感というか、不思議な味。
そうか、ワサビってこんな味だったんだ。
二十一年生きてきて、ようやく初体験の味に出会えた。しかも、二十一年過ごしてきた自分の地元で。
無意識に、ビールに手が出る。飲むと美味い。ビールとワサビって、合うんだな。意外にも。
その調子で、俺は串に残った最後のタマネギ&肉をさっきよりも多めのワサビを塗りたくり、食べる。
うん、美味い! 予想通りの味だ!
最初とは違い、ほのかな辛みという要素が加わりねぎまは一挙に三次元と化した。塩と肉と時々辛み。素晴らしい三つ巴だ。
一口目は開幕ホームラン、二口目はプロ歴浅めの一軍上がりたてが初の二塁打、三口目は調子の良い四番打者がツーランホームラン。
一串の攻撃で一気に三点を入れられてしまった。自軍のスタンド席からはヤジの嵐。でも、俺は不思議とそれが心地よかった。
何せ、俺は店の勝利を願っているのだから。打たれた投手の顔も晴れ晴れしている。
ビール片手に焼き鳥とは、その風貌はオッサンそのものだ。
だが、残念なことに手元にビールがもうない。こうなったら、もう一杯だ。
「すみません、生一つ!」
すっかり酒が入って強気の俺は、女の店員に言い放った。「はい、少々お待ちください」という声が山彦の様に返ってくる。
よし、勝った。今度こそリトライの必要も無い。俺の完全勝利である。
ビールが出てくるのは早かった。ビール一杯四八〇円、出て来るの速し。
気を取り直して、次は『かわ』と行こうか。
まずはそのまま。パクリ。
……ふむ、美味い。美味いが、宣伝通りだ。
かろうじてゴムのようではない。少しパリっとしていて炭が香る。塩味も良い加減だ。
だからこそ、普通なのだ。この程度なら、少し焼き鳥に力を入れている店でも食べられそうだ。これといって加点も減点も無い。ただ美味い、それだけだった。
しかしそれはワサビの登場によって変わってくる。
俺はもう躊躇いも無くワサビと『かわ』を箸渡しする。そして、口の中に入れ込んだ。
味は、大正解だった。
オールスタンディング。濃厚でさっぱりな『かわ』にワサビの爽快感。先程のねぎまの二番煎じのようで、違う美味さが口一杯に広がった。
鶏という存在を一枚で守っている『かわ』の大変さが、味の深みとなって滲み出てくる。
そうか、苦労したんだな。俺は噛み締める度に、『かわ』の頑張りが解放されるのだと思うと、何度も噛みたいと思ってしまった。
そして、そんな感想が出てきたのはそれもこれもワサビのお陰だ。
陰の立役者、今回のMVPは早くもワサビで決まり。俺の意向は入店から一時間も経たない内に定まってしまった。