あぁ、またいつもの奴か
目が覚めると、ボクは真っ白な世界にいた。目にはいるもの、全てが白い。天井、壁、カーテン、そしてボクが横たわるベッド。
その、無垢な白は、とても美しい。
そして、しばらく白を見つめていると、大分意識が覚醒してきた。鼻から入るわずかな刺激臭が、消毒液からくるものだということも分かってきた。
そんな中、ボクはある重大なことに気づいた。
こんなに重大なことにも気づかずにさっきまですやすやと眠っていたボクは、まるで、すぐ近くに警察がいるのに、それに気づいていなくて、捕まってしまった泥棒のよう。
言葉にして表すなら、馬鹿、間抜け、おたんこなす。
なんと……学生にとっての一大イベント、「入学式」たるものを、ボクは保健室で過ごしてしまったのだ!!
あぁぁぁぁああっ、なんということだ。
きっと、ボクの名は学園中に広がって、「入学式に出ない不躾な女」と噂されるのだろう。それに、髪色やあの大男との戦いも混ざって、嫌な人間と嘯かれるのだろうか。
嫌だ。それは、確実に避けたい。……といっても、それを打開できる策も、今のところ思い至らなかった。
それならば、逆に病人らしく保健室で寝ている方がまだ可愛らしいのでは? 元々、可愛いんだからこうやって寝ておけば、「眠り姫」とかいわれて、良い噂が広がったりして……。
そんなことを考えて、ベッドにもう一度横たわった。
今更だが、この保健室のベッドは意外と寝心地がいいものだ。今まで保健室のことは、話しか聞いたことがなかったが、そんな所に、入学当日からお世話になるとは。
横たわってから、目をつぶる。
そして、暫しの静寂。
また、うとうとして眠くなってきた……その時だった。
ガラッとカーテンが大きな音を立てて開いた。
「おい、お前はなに当日から倒れてんだ、アホ」
いきなり、ボクに罵声を浴びせてくる人間が、ボクとなにか関係を人間であることは容易にわかることだ。
そして、そいつがボクと一番大切な関係であるということも、すぐに分かった。
その声は、ボクがよく知っている男の声であったから。
「うるさいな。仕方ないだろう、倒れてしまったのだから。お前こそ、なにをやっているんだ、こんな所で」
ボクは、目を開けて小さく首を上に傾けた。そこに映るのは……もちろん、“傍観者”だった。
タバコの形をしたチョコレートを咥えて、偉そうにボクを見下げている。しかも、口にはからかうような微笑を浮かべて。
「俺? そうだなー、保険医。それより、どう、この白衣。かっこいいだろ?」
“傍観者”は、さらっと話題を変えて、くるりとボクの前で回転してみせた。
……確かに、元よりこいつはイケメンという部類に属している。それも、メガネの似合うクール派だ。だから、白衣が似合うのは言うまでもない。
鼻筋の整った顔立ちはもちろん、細めの黒目や縁なしのメガネはなんとなく大人の色気を漂わせている。これで、普通の女ならばすぐに「キャー、イケメンっ!」なんて騒ぐのだろう。まぁ、イケメンではある。
でも、ボクはこんな野郎には、そんな考えは持たない。
だって、この男はムカつく奴なのだから。どれだけかっこよかろうが、ムカつく奴はただの野郎である。
「そうだな、別にそんなのはどうでもいいんだが……」
「なんだよ、冷たいな。『かっこいいぞ、“傍観者”』とかないのか?」
「ない。断じて、ナイな」
「え、面白くないな。ちょっとドキッとするシーンとか俺にくれないんだ?」
「お前にそんなものを与えるほど、ボクは優しくない」
実は、“傍観者”は先程から表情は全く変えていない。セリフだけ聞けば、かなり感情豊かな奴に見えるだろうが、こいつの表情は変わらない。ただ、口に固定された微笑を浮かべ、チョコレートを咥えたまま、器用に喋っていた。
なぜなら、彼は“研究対象”以外には興味がないのだから。
ボクは、彼の研究対象であるが為に、喋っているが、彼は研究対象以外の人間には見向きもしない。ましてや、『ちょっとドキッとするシーン』なんて、全く彼は欲してなんかいないのだ。ただ、話してみるだけ。研究対象の態度をみる為に。
「そ。まぁ、どーでもいいや。それで、今なんでお前がここにいるか分かる?」
“傍観者”は、だるそうにベッドの端に座り込むと、あの固定された表情をこちらに向けて聞いた。
「あぁ。いつものアレだろう? 自分の名前を思い出そうとすると、気絶する、アレ」
「うん、それだ。ずっといっているだろ、思い出すな、と」
『ずっといっているだろ』。そういった瞬間、“傍観者”の表情が険しくなる。チョコレートを全て噛み砕いて飲み込んでから、口元の笑みを消したその表情は、険しいという形容詞以外には、例えようがない。
「仕方ないだろう。知りたくなるんだから」
「お前が知る必要はない事なんだよ」
「なぜ、ボクは知ってはいけないんだ?」
「言っただろう、必要がないからだよ。必要がないものを研究対象に教える義務なんてない」
「……」
彼の言葉を聞いて沈黙してしまうボク。
どれだけ可愛くて、完璧で、正義であるボクでも、彼には逆らえなかった。どうやっても、勝てなかった。
そして、今回のボクの沈黙は、ボクの惨敗を意味していた。
「お前が、俺に刃向かえるわけがないだろうが」
トドメの言葉を刺される。
もう、これ以上の口論は、時間の無駄になるだけだ。
ボクは、それがわかっているから、さっと“傍観者”から目をそらした。負けを認めるのは嫌だが、仕方が無い。
「あ、そーだ。忘れてたけど、お前の名前は高川 葵だから。高川さん、って呼ばれたら答えるんだよ? それから、これが偽名ってばらすなよ」
“傍観者”が、どうでも良さそうにそう言った。
偽名って……。まぁ、確かにこれは偽名だな。
たった今から、ボク、“狂った子供”の名前は「高川 葵」になるらしい。勿論、これは本当の名前じゃない。だって、頭が痛くならないから。
「あぁ、分かった」
短く答えると、ボクはベッドから下りた。ベッドが軋む音がする。
そんな事は気にせずに、“傍観者”に背を向けた。ドアの方へ歩いていく。
後ろから、
「頑張れよ、葵ちゃん」
とからかいを含んだ声が聞こえたが、ボクは無視して保健室を出た。
そして、廊下に出た。もう四月半ばだというのに、人気のない廊下は少し肌寒い。
静かな廊下を歩いていく。コツコツ、とボクの足音だけが廊下に響く。
そして、しばらく歩いていくと、無事教室に到着する……はずだった。
その時、最悪の事態は訪れてしまった。ボクが、それを嫌がると言うことを知っているくせに。
「ボク、何組だっけ?」
あまりの自分の馬鹿さに頭を抱えてしまいそうになる。なんで、そんな重要なことを知らないんだろうか。このままでは、全ての教室を巡るしか、この事態から脱出する手段はないらしかった。
他の手段をどうにか見つけようとしたが、どうにも考えつかない。
仕方が無い。
ボクは、全ての教室を巡ることにした。
といっても、クラスは全部で4組までた。探して行けば、すぐに見つかるはず。
そう思いながら、1組から見ていく。知らない人間が沢山いる。担任と考えられる教師は、眼鏡をかけていて細柄の男性だった。
「あのー、すいません」
そう声をかけた瞬間、全ての生徒がこちらを見た。ボクは、すばやく人を確認する。知っている人は一人もいなかった。……いや、居た。
あの、不良のような面をした男だった。ガラの悪いその男は、足を机に乗せて、ダルそうに窓の方を見つめていた。こちらを見ようともしない。
こんな生徒がいるのに怒らないなんて。この学校は大丈夫なのか?
或いは、もう怒られて、あの男が不貞腐れているのか?
まぁ、そんなことはどうでもいいな。
「ボ……私、高川 葵って言うんですけど、どこのクラスですかね?」
できるだけ、敬語で話しかける。なぜなら、ボクは、この男よりも位は高いはずなのに、「先生には敬語で話してくださいね」と時雨に言われていたからだ。それも、昨日と今日の二回。どれだけ信用がないんだろう、ボクには。
それにしても、危なかった。一瞬ボクって言いかけてしまった。一人称がボクだなんて、初対面には悪い印象を与えかねない。
少し冷やっとした。ぎゅ、と左手の拳を握りしめた。
「高川クンか。 君は確か4組だっと思うが……なんで、こんなところにいるのかな?」
教師は、名簿を確認してから、そう答えた。そして、ボクに無礼にも質問を投げかけた。
眼鏡越しに、鋭い眼光がボクを貫く。それは、明らかにボクを疑っている眼である。
ま、全く怖くないけどね。こんな人間の視線なんて、痛くも痒くもない。まだ、銃弾が掠った方が痛いくらいだ。
ボクは、「なんだ? ボクに偉そうにするのは貴様には100年早いぞ?」と、男のこめかみに拳銃を突きつけたくなる衝動を、どうにか理性で押さえ込んで、愛想笑いを作る。
なにかあれば愛想笑い、ということも、笑顔のポーカーフェースである時雨が教えてくれたことだ。
「あ、いえ、入学式前に倒れてしまって、先程まで保健室で寝ておりました」
できるだけ、消え入りそうな小さな声で言い、気弱な女子を演出する。
そして、最後に上目遣い。よし、これで完璧だ。
なんで、ボクがそれを確信できたかというと、教師の眼光が揺らいだからである。きっと、頭の中でなにかを妄想しているのだろう。あぁー、鳥肌が立った。
この変態教師っ! と、叫びたいところだが、まぁボクが可愛いのはもう決まり切ったことだから、この教師がボクに邪な感情を持つのは仕方が無い。“傍観者”も、
「お前はロリで、可愛いぞ」
とか言ってたし。
まぁ、殆ど棒読みだったけどな。
それに、人によって女の好みは違うらしい。『きょにゅう』ってのが好きな奴は、ボクには向かないらしい。意味は、「お前が傷つくからな」といって、“傍観者”は教えてくれなかった。ちなみに、これは余談なのだが、時雨にも聞いて見たところ、俄かに赤面して逃げて行ってしまった。
まぁ、そんな昔の話はおいておいて。
あの教師にボクへ何らかの感情を持たせることは、ボクが仕向けたことなのだから、そうなってもらわねば困っていたのだけど、どうやら上手くいってくれた。
ボクは、心の中で我ながら意地の悪い笑みを浮かべる。それに対比して、顔に浮かべるのは、相変わらず愛想笑い。
「そうか。早く、4組に行くといいぞ」
教師は、そういうとまた前を向いて授業を再開しようとした。きっと、この教師は『誠の教師』を優先したのだろう。それは、良い事だ。邪なモノに囚われない事も、人間としての試練の一つだからな。
よし、ここまで順調だ。あとは、教室まで……歩いていくだけだ。
「センセー、この子、さっき廊下で喧嘩してた人だぜ?」
そう思って、踵を返した時だった。
さっきまで口を開かなかった不良男が、そう言った。ガタン、と机が派手な音を立てて、男は足を机からおろした。
彼は、とても面倒臭そうに、一連の動作を進めた。後頭部をがしがしと掻きながら、相変わらず窓の方を眺めている。頬杖をついて。
いつの間に、ボクの方を見ていたのだろうか、と思ったが、よく考えれば、窓から見えたのかもしれない。とりあえず、そう解釈することにしておいた。
それにしても、今の彼の発言は、かなり大変だ。
折角、『ロリ系気弱インドア女子(自称)』になりきっていたのに、喧嘩とか諸々がバレれば、それはガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう。
ああぁー。と叫びたくなるのを抑えて、廊下をさっさと立ち去った。
立ち去る時に、ちらっともう一度男の方をみると、その男はニヤッと笑いながら、ボクの方を見ていた。いかにも、この悪い空気を楽しんでいるように見えた。
ついでに名札も見ようかと思ったのだが、この男、名札は出していなかったから、みる事ができなかった。
そして、大慌てで4組に向かった。
4組は、廊下の一番端だったが、走ればそんなに遠い事もない。本当は渡り廊下は走ってはいけないけど、今は特別だ。
教室の前に立つ。そこは、ドアが閉められていた。きっと、中は暖房がつけられているのだろう。
でも、閉められたドアを開けるのは、かなり勇気がいる行動だ。
とりあえず、中の確認。窓から中を見渡してみる。
この教室はなんでこんなに静かなのだろう、と思っていたのだが、どうやら問題を解いているらしい。
ちらっと見てみたが、その問題もあまり悩むほどのものではなかった。三分で解けるレベルものだ。
しかし、彼らにはかなり難しいのか、頭を抱える者までいた。
そして、前もみてみる。
実は、身長が低かったために窓に届かずに、背伸びしていたのから、そろそろ足も限界がきていた。
しかし、担任の顔だけは確認しねば。もし、ヤバそうな教師ならば、そんなに安安と教室に入る事ができなくなる。
強面のゴツゴツした四角い顔の男の教師を想像しながら、教師の顔を確認。そして、ボクは驚いた。
――なぜなら、このクラスの教師は、ボクが知っている人だったのだから。
「玲子……か?」
【第四話 END】