鏡
ふわふわとシャボンの床を歩くように、足を取られそうになるたびに、男が手を引いてくれる。
道が見えるかのように先を歩く男の背中を眺めながら、私は無意識に胸に手をあてた。
「もうすぐだよ」
「ねぇ、もう会えない?」
主語のない言葉に、男は微かに笑ったようだった。
「大丈夫だよ。僕達はすぐそばにいるから」
振り向いた男の手がするりと離れて、私があっと思う間もなくふわりと少し距離が出る。
「あ、」
呼び止めようとして、私は伸ばした手を引き寄せて思わず苦笑した。
結局私は彼の名前を知らない。
だから、違う言葉を、私は唇にのせる。
「ありがとう。皆にも伝えて」
「選んでくれて、ありがとう」
男が心から笑った顔を、私はその時初めてみた。
物語が聞こえる。
ずっと途切れることもなく。
「あら、起きた?」
振り仰げば、上の姉の笑った顔が目に入る。
「私、寝ていた?」
「えぇ。何だかすっきりした顔をしてるわ」
不思議そうな上の姉の向こうから、鏡に映したように、同じ顔をした彼女が近付いてきて、私の前で立ち止まった。
「お帰り」
「ただいま」
彼女の手をとって立ち上がると、私達は顔を見合わせて小さく笑う。
「大丈夫。私は私」
「そうね。私は私よ」
森の奥で空いた穴から声がする。
誰かには意味のない言葉、誰かには意味のある言葉。
Tell me,what your name?
This world welcome to you.
何処でもない何処かの、とある少女の物語。