ガラス
「その呼ばれ方、あんまり好きじゃないんでな」
不意に巻き起こった風が、何の造作もなく男を幹に突き飛ばした。
「っ」
男の喉から落ちた呻きに、私ははっと駆け出そうとして、喉元に突き付けられた鈍い光に息を飲んだ。
「気まぐれな猫。俺を縛るのはそれだけで充分だね」
まるで空気という紙を上から真っ二つに裂いたように、唐突に現れた細身の青年は私に突き付けたその長い爪をひらひらと振って、徐に男に近づく。
「懲りないよなぁ、ネズミ」
「お前に云われたくないね」
青年の長い足が、男をまるで昆虫標本のように木の幹に縫い止めて、反射的に飛び出そうとした私を、小さな手が引き止めた。
「危ないっスよ。案外考えなしなんスね」
「あなた、」
その特徴的な喋り方と姿が一致する前に、かきあげた前髪から覗く深い瞳に意識を取られる。
「針が騒ぐから来てみたら、案の定っス」
私の左手ごと時計モドキを引き寄せて、お隣りさんは肩を竦めた。
「騒ぐ?」
「表面の硝子が割れそうなくらい騒いでるのに、気づかなかったんスか?」
視線を落として、私は思わず時計モドキを取り落としそうになったが、お隣りさんの手がそれを阻んだ。
三本目の針が、文字盤に黒々と270度分の何かを描いて、二本の針は狂ったコンパスのようにぐるぐるぐねぐねと止まる様子がなかった。