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「まあ、ね」
「煮え切らんな。さっきも言ったが、甘やかしすぎだぞ」
正直なことを言えば、本当に意識を失っていられては困る。そこはぼくと琴美の間で、少し怒りの論点がずれているところだろう。
今日の郁也の行動について、確かにぼくは憤りを覚えているし、罵声のひとつも浴びせてやりたいと思っている。ただそれは、彼女が抱いている想いとは、少し違うはずだ。
しばらく郁也の話をしていると、マスターが料理を運んできてくれた。野球のグラブみたいなごつい手が、透明のボウルのような器に盛り付けられた冷製パスタを置いていく。たっぷりと盛られたレタスやカイワレ、塩ゆでしたアスパラのサラダの上に、彩りのトマトと生ハムが添えられている。柑橘系のドレッシングと生ハムの塩分が程よく絡むように計算して茹でられた麺を、一度下から掬い出して混ぜ合わせて食べる、マスター自慢の夏メニューだ。なんで知っているかと言えば、ぼくはこの冷製パスタのファンで、去年の夏もずっとこのパスタを食べていた。
「湊くんがこれ、好きだからね。よかったかな?」
四十代独身のマスターは、なぜ独身なのかちょっと疑問に思うような笑顔を見せる。実際、なんで独身なのだろう。この人ほど人のいい大人を、ぼくは見たことがないのに。
そんなマスターに、琴美は、やはりどこか男らしい仕草で、しかしやはりどこか女性であることをしっかりと感じさせる笑顔で答えた。ぼくはそんな二人のやり取りをぼんやり見ながら、ありがとう、と感謝を述べるだけに止めた。
食後にジェラートあるから。コーヒーも飲んでいいよ。マスターはそう言い残して、テーブルを離れた。
「確かに、これは間違いない。真夏ならなおさらだ」
冷製パスタに視線を落としたままつぶやき、マスターが背を向けると同時に、琴美はテーブル脇に、やはりマスターが置いて行った小さなかごの中からスプーンとフォークを取って、ぼくに差し出した。自分用の食器も一式取り、すぐにでも食べようという構えだ。
ぼくは無言でそれを受け取る。
「なんだ、食べないのか?」
ぼくが食器を受け取って、開いた右手にフォークを握り、冷製パスタを混ぜ始めた琴美は、少し経ってから顔を上げた。ぼくがパスタを混ぜていないことにようやく気がついたようだ。
お怒りは、ごもっともだ。
でも、ぼくと琴美の、郁也に対する怒りの論点は違う。
琴美は、相も変わらず自分の都合で振り回してくる郁也のドタキャンに、怒りを覚えているだけだ。その点は、確かにぼくも同じだ。でもぼくは、さらにその先、というか、郁也のドタキャンの結果、というか、とにかくもう少し外れた部分で、郁也の行動に憤りを感じている。
「どうした? 暑さにやられたか?」
「琴美さ」
ぼくは、お人よしだ。それは自分自身、よくわかっている。だから郁也の恋愛のために奔走してやったりできる。
でもそれはあくまでも、基本的に、である。
今回の郁也の交際に、熱心に手を貸したのには、それなりのメリットがぼくにもあったからだ。その点で言えば、ぼくは遠まわしに自分自身のために動いたことになる。単なるお人よしよりは、遥かにエゴイスティックだろう。
「なんだ、改まって」
ぼくの声がある一定以上緊張し、改まっているのを、琴美はちゃんと感じてくれている。
ぼくはこのタイミングを、作ってもらいたかったのだ。
ぼくは郁也の相談を受けた時、ある交換条件を提示した。それは自分でも思いがけないことだったので、なんでそれを口に出してしまったのか、いまでも不思議でならない。
本当は、ずっと迷っていた。どうすべきかを。郁也の唐突な秘密の暴露が、その迷いの振り子を、一時、完璧に、ある一方に振り切ってしまったのだ。
ずっと一緒にいる琴美のことを、ぼくが女性として意識し始めたのは、いつだったか。去年の四月に出会って、まだ一年半も経たないのに、始まりの瞬間というものは、まったく思い出すことができない。
それでも、ぼくは気がつくと、村川琴美をぼんやりと見つめるようになっていた。毎日、すぐそばにいる彼女の、妙に男らしい発言も、仕草も、それとはまったく相反する女性的な部分も、ぼくはひとつも見逃すまいと、見つめるようになっていた。
しかし、それを打ち明けるかどうかを、ぼくはずっと迷っていた。それにはいろんな理由がある。あまり女性と付き合った経験が多くはないことから来る、自分自身に対する自信のなさもそうだろう。琴美の、時に少々強すぎる性格のせいもあるかもしれない。