音の軌跡
車輪がごとごとと回る。
ブレーキの壊れた自転車を押して歩く。
「今日はついてなかったね。」と君が言う。
空気が抜けているのでリムがピシピシいっている。
君が「いいね、たまにはこういうのも。」って言っている。
僕は無言で歩いている。
けして彼女の顔を見ないように、その、まるで満面の笑みを浮かべているような顔を、観ないように。
事の発端は僕が生まれた時にすでに始まっていた。
彼女は僕より一年先に生まれていた。
23年間、彼女のことを知らずに生きてきたわけだけれども、彼女は僕のことをよく知っている。
僕は大して有名じゃない音楽家で、ただ単にずっと楽器を持ち、そして人より少しだけ楽器がうまいだけだ。
しかし彼女は僕のこの腕が好きだ。
いつからだかはあてにならないが、彼女は僕の腕を好いている。
独占欲が強いの。
そう言い残し、彼女は僕の前から唐突に姿を消し、翌日からはまるで影のように付きまとう存在となっていた。彼女の記憶はとても便利な物で、いつでも改竄が可能だ。だから困った時は彼女を困らせて、改ざんする。しかし彼女の記憶は彼女によってゆがめられてしまうので、どちらにしろ記憶が他者の都合に合うはずがない。すぐにミンチになるのがオチだ。
自転車を破壊した犯人は彼女であろう。
彼女は僕の腕を好いている。
彼女は、僕が腕を提供する意思があるというドナーカードを持っている。
僕が事故にあえば、彼女は僕の腕を手に入れるわけである。
彼女は僕の腕を好いている。
右腕を前にだすと影がついてくる。
しかし彼女の記憶を交錯させた場合、右腕に影はない。
彼女は右腕の影を持っていってしまったのだ。
影のないものはつまり、実体がないものである。
無い物をあると言ってもしょうがないし、あるモノがなければないことになってしまう。
つまり今この瞬間に右腕は存在していないこととなる。
気がつくと僕は両腕で自分自身を抱き込んでいた。
手の感触があるので現実だろう。
しかし、左腕の手首までが見えない。
ちょうどそこだけきっぱりと浮いているようだ。
手首より先は宙に浮いているが、細かいことはよくわからない。断面図が気持ち悪い。
楽しみを放り込む壺が欲しいものだと言ったが、前言撤回。
彼女は僕の腕を持っている。赤い血液はしるし。
僕の腕は彼女の掌の腕で踊っている。
僕ははじめてこの薄汚い下僕であり友から吸い取ったエネルギー循環で自滅。
現実はつらい。