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「人見、おはよっ」
「……ああマユちん。おはよ」
立野の元気な挨拶に直子は鬱病のゾウガメばりのローテンションで応じた。
立野はその理由を知らなかったが、見当は付いた。
「どしたの?平原くんとケンカでもした?」
握っていたシャーペンの芯が折れ、宿題の英作文に黒いノイズが混じる。直子はのろのろと消しゴムを取り上げ、ゆるゆるとノートを擦った。
ほんと、分り易い子だなぁ。
微笑ましいような気の毒なような気分で立野は思う。
「してないもん」
下を向いたまま直子がポツリと呟くがその声は小さ過ぎて届かない。
「英作ならあたし一応やってきたよ。写す?って言ってもあんまり自信無いんだけどね、あはは」
「ありがと。でも自分でやるし。あと、ターぼ……太一とケンカなんてしてないから。変な気とか遣わないで」
字面だけ取れば露骨な余計なお世話扱いで、気を悪くしてもいいところだったが、ここまでしょんぼりした様子で言われては怒れようはずもない。
「そ。でも困った事とかあったら言いなね。あたしにできることだったら協力する」
直子は縋るように顔を上げた。眼が充血しているのは単なる寝不足のせいだろうか。だが立野はあえて深くは突っ込まない。話したいなら聞く、という待ちの姿勢を取った。直子はいったん下を向いて。思い切ったように口を開いた。
「あのね、実は昨日」
しかし刃物を振り下ろされたみたいに言葉は途中で切れてしまう。やはり話したくなくなったのか、と立野は初めは思ったが。
直子の視線を追って、すぐに本当の理由に気付いた。
大抵の男子より高い位置にある細面が、怠そうに欠伸をしながら教室に入って来る。
「おはよ、平原くん」
「はよ」
立野がいつも通り挨拶すれば、同じく太一も返してくる。特に変わったところはないようだ。
しかし直子の方はかなり普通ではなかった。
「…………」
まるで見えない巨人に頭を押えつけられたみたいに、うつむいて太一を視界に入れようとしない。そのくせ様子を気にしているらしいのがありありと分る。
太一はちらりと直子を見たが、真っ直ぐに自分の席へ向かった。特に含むところは無さそうだ。
何かあったわけじゃないのかな?
事情聴取を検討するが、その間にも太一は近くの席の男子と話を始めてしまっていた。一方の直子はますます頑なになったように背中を丸める。
──アルマジロみたい。
立野は思った。
#
ショックじゃないと言ったら嘘になる。むしろ今までの人生で最大級の衝撃だった。
キスしてた。
七美先輩と、ター坊。
正確には、七美が太一の頬にキスをした、である。ドラマのラブシーンのような二人で見つめ合って抱き合って、みたいなのとは違っていた。
離れた場所から見ていた直子には二人の会話までは聞き取れなかったものの、それまでの仕草やその後の太一のリアクションからして、おそらく七美の不意打ちだったと思う。それもいつもしているという感じではなく、むしろあれが初めだった。
だから二人はまだつきあってるわけじゃない。
希望的観測かもしれない。
けれどあの二人が本当にそういう関係だったとしたらさすがに自分には分るはずだ。
とりたてて耳聡いとか勘が鋭いとか自負しているわけではなかったが、太一とのつきあい(この場合は一般的な意味だ)はこの学校の誰より長いし、同じ部の先輩後輩として七美ともそこそこ仲は良い。それに七美はそういったことをオープンにしそうな気がする。
学校であんなことするぐらいだし。
いくら人の少ない放課後とはいっても誰もいないわけではない。現に直子もいたのだ(もっとも直子が居合わせたのは偶然でも何でもなかったが)。
ター坊、先輩のこと好きなのかな。
あり得ないことではないと思う。というかそう考えると色々なことが腑に落ちる。
熱心に誘われていたバスケ部に「面倒だから」というしょうもない理由で全く関心を示さなかった太一が、どうしてバスケよりももっと興味がないはずの音楽部などというものに入部したのか。
そして。
せっかくの誕生日のコンサートの誘いを、どうしてあんなにもあっさりと断ったのか。
二人の仲が進まないのは、太一が鈍いからなのだと思っていた。小さい頃と同じような幼馴染み気分がいつまでも抜けないせいだと。
だが本当の理由が、太一が別の女の子の方を向いているせいだとしたら。
しかもその相手が同性の自分でも見惚れてしまうような年上の綺麗な人だとしたら。
あたしの気持ちに気付いてくれなくてもしょうがない、のかな。
「あ、人見ちゃん?ちょうど良かった」
「いやっ!?」
直子は思わず悲鳴を上げた。
「うわ、なによその化物でも見たみたいなリアクションは。おねーさん傷ついちゃうじゃない」
おどけて首を竦める長身の黒髪美人は、直子にとってはある意味本当に化物だったかもしれない。
「七美先輩……」
だって、まるで勝てる気がしないから。
「すいません、ちょっと考え事してて。何かご用ですか?えっと、あたしに?」
ここは一年生の教室が並んでいる廊下で、階の違う七美がはるばると来た以上、それなりの理由があるに決まっている。
しかし直子には思い当る節が……あ、あった。
「その……太一、ですね、あたし呼んで来ます!」
「へ?ちょっと人見ちゃん?」
いきなり踵を返して走り出そうとした直子を、七美は手を伸ばして文字通り引き止めた。ぬるい文化部で高校生活を過ごした受験生にしてはいい反応だ。
直子は腕を振り払って逃げ出したい衝動に駆られたが実行に移すような度胸はない。
気まずい思いを抱えつつ、七美の方に向き直る。とりあえず七美に怒っている様子がないことに少しだけほっとする。
「んー」
七美は直子の手を放して腕を組んだ。
「何か誤解があるのかもしれないけど……そのことは今はいいや。ちょっとね、頼みたい事があるの。人見ちゃん、今日昼休み時間取れる?もし良かったらでいいんだけど、手伝ってくれないかな」
CDを探している、と七美は言った。
「多分部室にあると思うんだよね。なんとか今日帰るまでに見付けたいの。お願いできる?」
七美はアーチスト名とアルバム名、ジャケットのデザインを説明した。だが直子にはどれも心当りがない。
「ちょっと覚えがないですけど……。本当にあるんですか?」
「そう改まって言われると私も自信ないんだけど。かれこれ二年ぐらい見てないし。ね、駄目かな?私の個人的な用事だから、断ってくれても全然いいんだけど」
「個人的、ですか?」
なんだか含みのある言い回しだ。
「分りました。お昼食べた後でよければ」
「ほんと?助かるわ、ありがとう。じゃまた後でね」
「はい」
直子は小さく頭を下げた。七美はひらひらと手を振ると去っていく。なんとなく忙しげだ。
どうしてよりによって自分なのか。
引き受けてはみたものの、昨日の今日で七美と二人きりで過ごすのは正直気が進まない。
それとも。
胸の奥がいがいがと疼く。
昨日の今日だから、なのだろうか。太一とのことで話をつけようと思って。
しかし直子はすぐにその考えを否定した。
今の自分は太一とつきあっているわけではない。だから七美が断りを入れる必要もない。
では直子に自慢するために?太一とキスしたことを?
そんな。まさか。
「──何ぼけっと突っ立ってるんだ。邪魔だろ」
直子はぎくりと背中をこわばらせた。昔に比べたらずいぶん低音になっているものの、自分にとって一番近しく感じられる声なのは間違いない。はずなのに、どうして。
太一は乱暴に直子を押し除けようとして手を止めた。
「なんだお前、どっか具合悪いのか?」
こんなに怖いんだろう。まるで自分を殺しにきた相手を前にしているみたいに、身体が震えて止まらない。
「保健室行くか?それか、もう早退するっていうなら送ってくけど」
いつもは見上げる場所にある(かつてはすぐ隣にあった)顔が、直子の様子を確かめようと距離を縮める。今ならほんの少し背伸びするだけでキスできる。
だけどそこはもう七美が触れた場所だ。
「なんでもないよ」
直子は太一の身体を突き放し、教室の中に一歩入ると廊下にいる太一と向かい合った。
「だいたいさ、太一は自分がさぼりたいだけでしょ。あたしをダシに使わないでよ」
「あーそう……なら勝手にすれば」
太一は踵を返した。教室の後ろ側の扉へ向かうつもりだ。
「あ、待って、違うの、ねえター坊!!」
気付けば自分でも驚くような声を上げていた。教室中が一瞬静まり返ったほどで、下手をすると隣のクラスにまで聞こえただろう。注目が集まっているのを感じて耳たぶが熱くなる。特に言う事を考えていたわけでもなかったからなおさらだった。
太一は思い切りしかめ面になって、それでもその場で足を止めた。直子のためというより、ただ周囲の目を憚っただけかもしれないが。
「えっと、あのね」
何、何を言ったらいいんだろう。ター坊に伝えないといけないこと、そもそもどうして自分がこんなふうになっているのかというと。
「そ、そうだ、七美先輩がね、昼休み部室に来てほしいんだって。手伝ってほしいことがあるからって」
「俺に?」
違う、と答えようとした。
「そうなの、太一に。良かったね、七美先輩と二人っきりだよ?嬉しいでしょ」
一息に言い放つと一目散に自分の席へ突進する。椅子取りゲームみたいな勢いで腰を落とし、机の中から教科書を引っ張り出して視線を据えた。
「人見さ、一応言っておくけど」
「な、なにかなマユちん、あたし予習しないとなの、今日当りそうだからっ」
前の席から話し掛けてきた立野に、顔も上げないまま直子は答える。声が上擦っているのが自分ではっきりと分って軽く死にたくなる。
「次、数学。古典はさっき終わった」
「…………」
──本格的に、死にたいかも。
“ゆく水に数かくよりもはかなきは思はぬ人を思ふなりけり”
千年以上も昔に詠まれた片恋のせつなさを嘆く歌を眺めながら、直子は心の中で泣いた。
#
なんなんだよ一体。
太一は結構な量の不審と、幾許かの不満とを抱えながら、音楽準備室へ向かっていた。
昼食は購買のパンを口の中に押し込んだだけで手早く済ませた。大半の生徒はまだ食べている最中なのだろう、廊下に人の姿は少ない。
まして西棟に入ってからは誰にも会うことなく、まるで別の世界にでも彷徨い込んでしまったようなちょっと不思議な気分を味わった。
しかしそれも部室の前に立つまでのことだ。
「ふーん、ふふふーふん、ふ、ふ~ん~♪」
わずかに開いた隙間から、何やら楽しげな鼻歌と、がちゃがちゃあちこちをかき回すような物音が洩れてくる。スポーツの優勝セレモニーなどで聞いたことのあるメロディーは、いささか調子が外れていた。
「ちは」
太一は気にせず中に入った。鼻歌を聞かれたぐらいで恥ずかしがるような性格でもないだろう。
振り返った七美は驚いたような顔をしていたが、それはやはりナイーブさのためではなく。
「あれ、太一くんも来てくれたんだ」
太一くんも?
「もっていうか、俺だけですけど。駄目ですか?」
むしろ駄目と言われることを期待する。それならばさっさと退散できるかもしれない。
だが七美は簡単に太一の登板を受け入れた。
「いいよ、手伝ってくれるんならもちろんオッケー。それにあんまり大勢でやってもかえって効率悪いだろうしね。ここ狭いから」
「そーですね確かに。……で、俺は何をすればいいんですか」
「え。聞いてないの」
「全然」
「呆れた」
七美はこれみよがしにため息をつく。
「すこーし、強引過ぎじゃない?もっと弁えた子だと思ってたんだけどな。過大評価だったかしら」
「…………」
なぜ直子のことで自分が怒られなければいけないのか。太一はいささか不機嫌になったが七美はさらに言い募る。
「だいたい君、人見ちゃんの気持ちちゃんと考えたことある?全部分っててこういうことするんだったらちょっと幻滅だよ。言っとくけどね、昨日のあれは深い意味なんてないんだからね。確かに私もちょっとばかし軽はずみだったかもしんないけどさ……。でもまさか君がマジんなっちゃうなんて思いもしなかったし」
「あの、先輩」
「なによ、後輩」
「先輩がなんの話してんだかさっぱり分んないんですけど。俺は直子に言われたからここに来ただけで、あいつ内容とか全然言わなかったから。それで直子の気持ちがどうとかって言われても、はあ?って思うだけです。先輩が俺に幻滅するのは別に先輩の勝手ですけどね。で、俺は結局どうしたらいいんです?何か手伝いますか。それとももう帰っていいですか」
太一としては最大限の譲歩だった。ともかくも相手の意向を尋ねたのだから。
これでなおうるさく言ってくるようならもう知ったことではない。回れ右をするだけだ。
しかし七美は怒り出したりはしなかった。不思議なものでもあるようにまじまじと太一を見返してくる。
「人見ちゃんが、君を、ここに寄越したわけ?君が無理矢理代わったんじゃなくて?」
「違いますよ。なんで俺がそんな面倒臭いことしなきゃいけないんですか」
「あはは、確かにね。そうだ君はそーゆー奴だった。ごめん、私の勘違い。そっかそっか、人見ちゃんがねー」
七美は独りうんうんと頷く。
「何を納得してんのか知らないですけど、要は直子が悪いってことでいいんですか?」
「いいや。君が悪い」
七美がびしっと指を突き付ける。
「少なくとも責任がある。君がどうにかしなさい」
「どうにかって……。どうすりゃいいんです」
太一はほとんど途方に暮れた。七美が何を言いたいのかがどうにも分らない。
しかし七美はさらに太一を混乱させることを言ってきた。
「人見ちゃんは太一くんを私とくっつけようとしている」
「…………は?」
「やめさせて。迷惑だから」
何の冗談かと思ったが、七美はいつになく真剣だ。とはいえ真剣な表情で冗談を言っているという可能性も捨て切れない──というかむしろ太一はそうであることを望んだ。
「なんであいつがそんなことすんのかまったく意味不明ですけど。……でも迷惑ですか、すいません気が付かなくて。俺やっぱり引き上げますよ。部活ももう来ないんで」
「太一くんのことは好きだよ。わりとね」
またしても唐突な台詞に、今度こそ太一の思考はフリーズする。瞬きを繰り返し、七美が言葉を続けるのを待つことしかできない。
「一目見て気に入ったし。私面食いだから。で、部に引っ張ってみて、わりと仲良くなって、もっと好きになった。微妙に失礼なとことか、かなり気が利かないとことかも」
それは遠回しに嫌いだと言われているのだろうか?太一の戸惑いはますます深まる。
「タイミングが合えばつきあってもいいかなって思うぐらい。そうじゃなきゃキスなんかしないよ。いくらほっぺたでもね。でも今は駄目なの。絶対的に。だって私、彼氏いるから」
「──へえ。そりゃ良かったですね」
「そうだね。悪くはないかな」
七美は控え目に肯定した。
「だからね、人見ちゃんのつもりがどうだろうと、私と太一くんが深い仲になることはないし、彼女のやってることは誰にとっても厄介でしかないの。理解した?」
「とりあえず。先輩の言い分は」
「よろしい。では人見ちゃんのケアは君がしっかりとやること。もしまた今日みたいな良からぬことを企んだりしたら、君に国吉のサーロインセット奢らせるから」
「絶対やですよ」
そんなことになったら一か月分の小遣いが丸々飛んでしまう。しかも自分は水の注文だけで。そしてそれでも足りない。
「あーでもそう考えると、人見ちゃんにこのまま続けてもらうっていうのもありだな。一回ごとに一食ってすればかなりおいしいじゃない」
「断固拒否しますから」
されど七美が一度決めたことを撤回させるのは大変に難しい。残りの昼休みどころか、午後の授業までさぼらされてCD探しを手伝う破目になった太一は、そのことを改めて思い知らされた。




