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音楽部、というものに平原太一は所属している。
活動内容は読んで字の如く「音を楽しむ」ことであり、より公式には「広く良い音楽に接することによって精神を涵養し、以て人間としての成長に役立てる」というのが設立の主旨だ。
ここでポイントとなるのは、「音楽に接する」という記述である。「演奏する」ではなく、「学ぶ」でも「創作する」でもない。あくまで、「接する」。
また「広く良い」という修飾句にもあわせて注意する必要がある。それは西洋の古典音楽や日本伝統の雅楽といった狭いジャンルには限定されないということだ。「良い」ものである限り全てが対象となる。
そして何を「良い」と感じるかは各人の心の問題であり、良心の自由は憲法によって保障されている権利である。
かくして、西棟三階にある広々とした音楽室、に付設された窮屈な音楽準備室において、太一が取り組んでいる部活動の内容とは、一万円でお釣りのくる機器で誰の持ち物とも知れないCDを聴く、というものだった。
より正確には、CDをかける、または音楽を流すというべきかもしれない。
自在に爪弾かれるギターと共に歌われる滋味溢れる濁声は、週刊コミック誌をめくる太一の意識にはほとんど届いていなかったのだから。
「ふわぁ」
欠伸が洩れる。
火曜は活動日のはずだが、部室には太一以外誰の姿もない。
──まったく、みんなたるんでる。
など太一は思わない。
元々特に音楽が好きというわけでもない。
自発的からはほど遠く、強引に勧誘されるまま入部しただけなのに未だ辞めずにいるのは、この適当極まりない活動実態が案外気に入っているからだった。
お湯を入れてから四分半が過ぎたカップ麺みたいな、でろんとした雰囲気。それこそが音楽部の最大にして唯一の価値だった。少なくとも太一にとっては。
「遅えな、あいつ」
雑誌を閉じて不満げに呟く。CDの演奏もちょうど止まった。
面倒だな。帰るか。
目的もなくだらだらと過ごすのは好きでも、誰かを待つことで時間を無駄にするのは気に入らない。
やっていることは大して変わらないのに、シチュエーションが変わると気分も違ってくるのは不思議なものだ。
しかし太一はそんな哲学だか心理学だかの命題に心を煩わせたりはしなかった。
プレイヤーの電源を切り、座っていた椅子を折り畳んで部室の隅に寄せる。空の楽器ケースの上に置いてあったバッグを取り上げ、あとは出入口脇のスイッチを消していざ撤収、というところで。
「ごめん、太一、待った……?」
向こう側から扉が開いた。
「待った。じゃな」
スイッチに伸ばしかけた手を引っ込め、口を半開きにした直子の脇を太一は通り過ぎる。
「ちょっ、待ったー!何で待っててって言ったのに帰っちゃうのー?」
直子がワイシャツの背中にすがりつく。
「お前が来ねーからだよ。いつまでもいたってしょうがないだろ」
「だって今来たのに」
「だから来るまで待ってただろ」
「うっ確かに」
「ってことで」
「……あ。もーやだ、待ってってばー」
一瞬納得しかけた隙を衝いて離脱しようとしたのだが、さすがに途中で気付いた直子が腰に抱きついてくる。
力ずくで振り解くことを太一は二秒ほど考えた。
「放せ。動きづらい」
「やだ。そしたらター坊帰っちゃうもん」
「帰らねえから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
前に回された手をぺしぺしと叩く。束縛が緩むと、太一は身体の向きを変え、直子を子供のようにかかえて部室に戻った。
* * *
「──ごめんね太一。お掃除が長びいちゃったの」
これで「なんで勝手に帰ろうとするのよっ!?」などと怒って詰め寄って来るようなら即行で切り捨てるのだが、根っこのところで素直な奴なのは太一にはよく分っている。
今プレイヤーにかかっているのは、直子が選んだにしては珍しいクラシックものだ。穏やかで牧歌的なメロディは太一にも聴き覚えがあった。
「もういいって。それよりなんか用事あんだろ」
「あっ、うん。えっとね、今度の日曜なんだけどさ、太一、その、ヒマ……かな?」
直子がおずおずと切り出してくる。しかしそれは太一には予想の範囲内だ。
「まあ今んとこは」
「じゃあさっ」
太一のおざなりな返答とは対照的に、直子の声は跳ね上がる。
「一緒にコンサート行こうよ!チケット買ったの!太一誕生日でしょ、そのプレゼントだよ。ね、せっかくこういう部にいるんだしさ、たまにはクラシックとかも聴いてみようよ。こういう機会でもないとなかなか行かないもん」
そういうわけか。オーケストラの音を鳴らすにはいかにも出力不足のスピーカーを太一は乾いた目で眺めやる。
確かに、クラシックのコンサートなど自主的に行こうとは思わない。嫌いだからとかいう以前に興味がない。
「別に行きたくねえな」
だから正直に答えた。
「えっ」
しかしそれは直子には全く心外なことだったらしく。
「……どうして?あたしとじゃいや?誕生日、一緒にいたくない?」
「ああ。だいたい」
クラシックとか途中で飽きそうだし、というメインの理由を口にする間もなく。
「そうなんだ……。そうだよね、別にあたし達ただ幼馴染みってだけだもんね。子供の頃みたいに二人で遊んだりなんかしないよね。馬鹿みたいだね、あたし」
直子は一直線に沈んでいく。
そういうわけじゃない、とフォローの一つも入れるのが優しさというものなのだろうが、残念ながら太一の半分は冷たさでできている。少なくとも他人からはよくそう言われる。
自分ではただ淡白なだけだと思っているのだが、評判を改めるために意に沿わない行動を取るつもりもなかった。
「ちゃっす」
タイミングがいいのか悪いのか。二酸化炭素みたいに重たくなった場に、やけに気軽い声が割って入った。
「あやっ、太一くんじゃないの。珍しい、ずいぶん久し振りだね」
「先輩……」
美少女、というより美人と形容した方がしっくりくる髪の長い女生徒は、音楽部前部長の早瀬七美だった。太一をこの部に引き込んだ当人である。
「おおっと、人見ちゃんも一緒か。なによなに、二人で逢引でもしてたの?もしお邪魔だったら消えるけど。あ、でも部室であんまりエスカレートされても困るし、やっぱりいた方がいっか」
「そんなんじゃないです。それにあたしもう帰りますから。七美先輩はゆっくりしてってください。失礼します」
「え?」
直子は白壁みたいな平坦な口調で言うとそそくさと出て行った。後に微妙な空気が残される。
「えーっと、私、本当に邪魔しちゃったのかな」
「問題ないです。だいたいここは部活やるとこだし」
「それはそうだけど、でも君が言っても説得力ないっていうか。逆に何かありました、って自白してるみたいなものだよ」
七美は当り前のように太一の隣に椅子を並べた。艶やかな黒髪が甘く香って刹那胸を詰まらせ、太一は扇風機みたいに反対側に首を振った。
「そんなあからさまに避けなくったっていいじゃない。トラブルならおねーさんが相談に乗ったげるよ?こう見えてもけっこー恋愛経験豊富なんだから」
切れ長の目を細めてにやりと笑う。黙って澄ましている分には古風な佳人という感じなのに、まるで不敵な盗賊みたいな印象に変わる。
「いらないです。ってか何しに来たんですか?先輩はもう引退でしょう」
「息抜きだよ。運動部じゃないんだから参加したって体が疲れるわけじゃなし。……ワルターか。定番だね。太一くんもこういうの聴くようになったんだ」
「それは直子が。俺はそんな名前初めて聞きました。曲の方はなんとなく知ってるような気もするんですけど」
「超有名曲だよ。ベートーベンの交響曲第六番、通称『田園』」
ベートーベン?今ワルターとかって言わなかったか。あ、ワルター・ベートーベンって名前なんだっけ。いやなんか違う気がする。
疑問に思ったがわざわざ尋ねるようなことはしなかった。無知が恥ずかしいとかそういうことでは全くなくて、純粋にどうでもいいからだ。
「俺も帰りますよ。先輩は存分に鋭気を養ってってください」
「ちょい待ち」
七美は太一の手首を握った。
「まさかとは思うけど、気付いてないわけじゃないよね?人見ちゃんのこと」
七美が顔を寄せてくる。息がかかるぐらいの近距離に、太一は思わずつばを飲む。
「先輩。……キスしてもいい?」
「たわけ」
* * *
「ん……。そろそろ帰ろっか」
七美はめくっていた古い洋楽雑誌を閉じると演奏途中のプレイヤーの電源をおもむろにぶった切った。
「先輩、停止ボタンって知ってる?」
「どうせ切るんだから同じことじゃない。いいからつまんないこと言ってないでさっさと帰ろうよ。おねーさんは受験で忙しいんだから」
「なら初めからこんなとこ来なきゃいいでしょ」
「太一くん、君ね、私が大切な青春を過ごした場所をこんなとこ呼ばわりはわりと許し難いものがあるんだけど」
「そいつは失礼しました」
揃って部室を出た二人は二階の連絡通路を渡って東棟までやって来た。七美の使う昇降口はすぐ近くだったが、下級生の太一は校舎の端まで歩かねばならない。
「俺はこっちですから」
行く先を目顔で示す。ここで別れる、そういう意味で言ったのだが。
「早くね。私より先に、とまでは言わないけど、一分以上遅れたらペナルティを課す」
「はい?なんの話ですか」
「昇降口出たとこで待ってるからダッシュで来いってこと。分っててとぼけるのは可愛くないわよ?」
「いや、さっぱり分りませんから。サヨナラ先輩」
「一分だからねー?」
背後からの声に太一はあえて歩調を緩めてみる。
しかし七美がそんな迂遠な拒否の意を汲むわけがなかった。それ以前にこちらの様子など確かめもしなかったことだろう。
果たしてその予想は当っていた。
「おそいっっ。何分かかってんのさ」
先に帰っていることを期待しつつ、それでも一応三年の昇降口まで出向くと、腕を組んで仁王立ちした七美がご立腹だった。
「約束のペナルティね、ピーボのケーキセットだから。今から行こう」
「冗談。なんで一方的に決められた約束のせいで千五百円も取られなきゃいけないんですか」
「だってあそこおいしいじゃない、ケーキもコーヒーもさ。あ、紅茶でもいいな」
「理由になってねー」
「男がつべこべ言わないの。私とキスしたいんでしょ?」
「いや、今はそんなに」
「ほら」
「あ」
「前払い。受け取った以上キャンセルは無しだからね」
「押し売りかよ」
太一は頬をなでた。
「ぶーたれても口にはしないから。あきらめな。ほら、ちゃきちゃき動く。こんなとこ誰かに見られたら誤解されちゃうじゃない」
などとのたまいながら七美は腕を絡めてくる。
「ま、いいですけど」
出費は確かに不本意だが、映画でも観たと思えばいい。きっとその程度には楽しめる。そしておそらくはそれ以上に。
あっさりと割り切った太一だが、その時一年用昇降口の陰に潜んでいた直子が、一部始終を目撃していたことになどもちろんかけらも気付いていない。




