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斉藤さんがゆく

作者: yaasan
掲載日:2026/07/09

 新宿歌舞伎町の脇道、壁にもたれかかるようにして座っている男の頬を、斉藤は二度、三度と平手で叩いた。小気味よい音が深夜でも騒がしい歌舞伎町に響き渡る。


 叩かれた男の反応はすでに鈍かった。鼻からは鮮血が流れ続けている。さっき顔を蹴ったときに鼻でも折れたのだろうと思ったが、べつに気にすることでもない。


「売人が自分でシャブ喰らってどうすんだ? しかも、金の補填もしねえで」


 斉藤の言葉に男は答えない。痛めつけすぎて、そんな気力も残っていないのか。ただ、そんな様子ではこれ以上、何も進展しそうもなかった。腹立ち紛れに最後は平手で俯いている男の頭を叩く。


「ハジメ、事務所に連れていけ。金の算段をさせるぞ」


 その言葉に弟分であるハジメが青い顔で頷く。いつまでたっても荒事には慣れないようだ。

 斉藤は再び男に視線を向けた。


「数年、タコ部屋で働くだけだからよ。なに、死にはしねえよ。たぶん……だけどな」


 そう言って笑った視界の片隅に顔を引き攣らせるハジメがいた。





 ハジメに関して言えば、最近のホストみたいなイキった格好をしているくせに、つくづくヤクザに向いていない男だと斉藤は思っていた。特に荒事専門の自分と一緒にいるのであれば、それはなおさらだった。


 ま、好きで兄弟分になったわけでもねえしな。

 斉藤は胸の内で呟いた。ハジメとは一年程度の付き合いになるが、所詮は組に言われて兄弟分になっただけなのだ。


「刺されて死んだところで、知ったこっちゃねえわな」


 うそぶくように呟いた声が、瞬く間に歌舞伎町の喧騒に溶け込んでいく。時刻は深夜の零時を過ぎているというのに、その騒がしさが止む気配はない。


 うるせえ街だ。

 慣れ親しんでいるはずなのに、なぜかその日は歌舞伎町から醸し出される音が耳障りだった。


 小腹が空いたからコンビニに……ついでに酒も買うか。べつに飲みに行きたい気分でもない。

 

 そう思って斉藤は右手にあるコンビニに視線を向けた。自動ドアの左手に小さな人影があることに気がついた。


 そこで思わず足を止めてしまった。その間も何人かが人影の脇を通り過ぎて行ったが、自分のようにそれを気に留めた者はいない。


 自動ドアが開くたびに鳴る間抜けな音が癇に触る。その苛立つ気分を解消させるようにして、斉藤は派手に舌打ちの音を立てた。


 人影は薄汚れた服を着た十歳にもなっていないような子供だった。零時をとっくに過ぎているが、歌舞伎町では子供が徘徊しているのも珍しくはない。


 子供は近づく斉藤に気がついたようで、視線を向けている。その瞳には明らかに怯えの色が浮かんでいた。


 斉藤はそんな子供の前に無言で立った。


「ガキ、こんな時間に何してんだ?」


 子供は顔を引き攣らせるだけだ。


「ガキ、答えろよ?」


 それでも答えようとしない子供に苛立ちを覚えて、斉藤は眉間に皺を寄せた。ここ十数年の間に歌舞伎町も多国籍の街となっているのだ。もしかすると日本人の子供ではないのかもしれない。


「おい、親は?」


「ま、まだ、ママは帰ってきてない」


 どうやら日本語は通じるようだ。斉藤は改めて子供を見る。薄汚れた顔や服、黒ずんでいる指先。ただ、身なりは小汚いものの、顔や露出している手足に怪我はなさそうだった。


 他人に対してそこまで考えてしまった自分に怒りを覚えて、斉藤は唇を大きく歪めた。その様子に子供がさらに不安そうな顔をする。


「てめえ、腹は減ってるのか?」


 不安そうな顔のまま、子供は固く口を結んでいる。


「おい、答えろよ? ぶっ飛ばすぞ。腹は減ってねえのか?」


「お、お腹すいた」


「だったら素直に言え」


 斉藤は吐き捨てるように言ったあと、コンビニの店内に向かったのだった。





 適当に買った菓子パンが数個入っているコンビニの袋を斉藤は子供の前に差し出した。子供が怯えた顔をしているのは変わらない。


「おら、中のパンを持っていけ」


 子供は言われた言葉の意味が、すぐにわからなかったようだ。その場で目をぱちくりさせた。


「あ? てめえ、早くしろよ? 袋にあるパンを全部持っていけって言ってんだよ!」


 その言葉に背中を押され、慌てたようにして子供は袋の中に手を伸ばした。その手はわずかに震えている。


「ビールと唐揚げ、ソーセージは俺のだからよ。取るんじゃねえぞ?」


 



 コンビニの前で菓子パンを抱えた子供に踵を返そうとした斉藤だったが、ふと動きを止めてもう一度、子供に顔を向けた。斉藤が振り返ったことに、子供は戸惑ったような顔をする。


「誰も助けてくれねえぞ。助かりたけりゃ、てめえで警察に行け。警察だって最終的には助けてくれねえがな」


 子供は無言で斉藤の顔を見ていたが、今にも泣き出しそうに顔が歪み始めた。


「あ? てめえ、甘えるなよ。言ったろう? 誰も助けやしねえ。ガキだろうがなんだろうが、てめえでなんとかするしかねえんだよ」


 子供は泣き出しそうな顔のままで黙っている。


「ガキ、返事はどうした?」


「う、うん……」


「うん、じゃねえぞ? てめえ、ぶち殺すぞ」


 顔を引き攣らせる子供に斉藤は踵を返した。





 コンビニの前にいた子供と別れて歩き出した斉藤だったが、コンビニ袋をぶら下げている腕を残る片方の手で握っていることに気がついた。握った腕には子供の頃につけられた傷がある。


 それを自覚すると、子供の頃にあった嫌な記憶が溢れてきそうになる。斉藤はその記憶に、きっちりと蓋をする。


 そういえば、ハジメにも同じような傷があったな。

 そう思うと口の中に苦い味が広がっていく。


 それらの思いを打ち消すように斉藤が肩をすくめたときだった。右手にある薄汚れたビルの脇から犬が姿を見せた。


 野良犬だ。猫ならともかく、歌舞伎町で犬を見かけるのは珍しかった。長毛種の血統が混じっているのだろう。白かったと思われる長い毛は茶色く汚れて互いに絡み合っている。


 犬は怯えたような目をしながらも、こちらを見続けていた。毛が生えていない腹部には肋骨が浮かび上がっている。愛想のつもりなのか、ゆっくりと尻尾が振られている。


 斉藤は大きく鼻を鳴らした。


「なんだよ……てめえもかよ?」


 舌打ちを一つして、持っているコンビニ袋を見下ろした。





 今日はツキがないらしい。

 ビールだけになってしまった。


 缶ビールしか入っていないコンビニ袋は、やけに軽かった。それを片手にぶら下げたまま、斉藤は昼間の熱気が未だに収まらない歌舞伎町の夜を歩いて行く。

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