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白線の外側

掲載日:2026/06/30

勝つためなら、名前くらい借りればいい。


 神代怜司は、そう考えるようになってから、負けることへの恐怖をほとんど感じなくなっていた。


 恐怖の代わりに残ったのは、計算だった。どの受付で視線を伏せるか。どの質問には短く答えるか。どの場所なら、他人の記憶に余計な輪郭を残さずに通り過ぎられるか。彼はそうしたことだけは、人よりよくできた。


 十月初旬、潮見市総合アクアティックセンターで開かれる「潮見オープン・スイムチャレンジ」は、競技者にとっては奇妙な大会だった。全国規模の公式戦ほど格式ばってはいないが、企業協賛が厚く、各種目の優勝者には高額の賞金が出る。


 二百メートル自由形・女子オープン部門の優勝賞金は五百万円。


 怜司が今すぐ必要としている額に、ほとんど等しかった。


 彼は二十七歳だった。かつて短距離自由形で地方大会に出たことがある。水の中でだけは、自分の体が正確に動いた。だが、二十一歳のときに肩を痛め、復帰に失敗した。以後はスポーツ用品店の倉庫で働き、夜には借金の返済表を眺める生活が続いた。


 競技そのものを嫌いになったわけではない。むしろ逆だった。きちんと努力した人間が、わずかな差で選ばれ、わずかな差で落ちる世界を、怜司は愛していた。


 だからこそ、そこへ入り込めない自分が許せなかった。


 大会の一週間前、彼は古いロッカーの奥にしまっていた競技歴の記録を読み返した。そこには、二十歳の自分が確かにいた。タイムも、順位も、写真も残っている。だが、どれも現在の自分を助けてはくれなかった。


 最後に彼が見たのは、潮見大会の募集要項だった。


 女子オープン部門。年齢は二十歳以上。登録番号と本人確認書類を提出すること。


 怜司は、そこから先のことを、あえて言葉にしなかった。


     *


 準備に使った部屋は、駅前の短時間レンタルスペースだった。


 壁一面の鏡の前に、スポーツバッグ、化粧品、淡い茶色のウィッグ、体形を整えるための衣類、替えのタオルが並んでいる。


 鏡のなかにいるのは、怜司ではなかった。


 白瀬澪。二十三歳。地方の水泳クラブに所属していたが、事情があって表舞台から離れていた選手。


 そういう設定だった。


 本人のいない人物を作るのは、思ったより簡単だった。名前、年齢、出身、得意種目。必要な情報を並べれば、記憶の薄い相手なら納得する。


 難しいのは、細部だった。


 声の高さを少しだけ変える。言葉を急がない。肩をすぼめるのではなく、姿勢をまっすぐ保つ。競技会場で過度に目立つ服は避ける。


 怜司は、誰かの歩き方を真似ようとはしなかった。真似れば、かえって不自然になる。彼が目指したのは、誰の記憶にも残らない選手だった。


 外見を整える衣類は、すべて服の下に収めた。胸まわりの線を作るために折り畳んだタオルを何枚か入れ、腰回りには薄い補正具を巻いた。


 露出のためではない。


 写真や受付の視線をやり過ごすためだけの、卑小な工作だった。


 鏡の前で、怜司は一度だけ笑った。


「優勝したら、返せる」


 その声は、白瀬澪の声だった。


 怜司がこの計画を、最初から「変装」と呼んでいたわけではない。


 はじめは、ただ大会の募集要項を見て、画面を閉じただけだった。次の日も見た。三日目には、優勝賞金の金額を紙に書き、返済残高の横に置いた。


 数字を並べると、非現実的だったことが少しだけ現実に見える。


 かつて競技仲間のひとりが、舞台の仕事をしていた。卒業後に偶然会ったとき、その人は髪型も服装も以前とはまったく違っていた。けれど、怜司はすぐに本人だとわかった。


 歩き方と、笑うときに片方の肩が上がる癖が変わっていなかったからだ。


「顔なんて、照明で変わるよ」


 その人は言った。


「でも、動きは消えない。だから役をやる人は、歩き方から変えるんだ」


 その言葉を、怜司はなぜか覚えていた。


 今回、彼が参考にしたのは、その程度の記憶だった。鏡の前に立ち、声を整え、服の下に補正用の衣類を重ねる。


 手順としては単純に見えた。


 だが、鏡に映る姿が変わるほど、彼は現実から遠ざかっていった。


 最初にウィッグをかぶった夜、怜司は泣きそうになった。


 似合っていたからではない。


 鏡の中の人物が、自分の人生とは無関係な人間に見えたからだった。


 白瀬澪という名を口にすると、借金も、肩の痛みも、失敗した就職活動も、全部が一歩遠くなる。


 彼が欲しかったのは女性の姿そのものではなく、「神代怜司ではない誰か」になれる時間だったのかもしれない。


 だが、そこにも嘘があった。


 外見を変えても、行ったことの責任は変わらない。誰かの名前を借りず、誰かの部門を奪わず、正しく自分を表せばよかった。


 怜司はその可能性を考えなかった。


 考えれば、今回の行為が単なる逃避であると認めることになるからだ。


     *


 大会当日の朝、アクアティックセンターには、消毒液と塩素のにおいが混じっていた。


 観客席の照明はまだ半分しかついておらず、ガラス窓の向こうの空は鈍い灰色だった。


 受付で名を告げると、係員は端末を見て、短くうなずいた。


「白瀬澪さんですね。二百自由形、第三組です。更衣室は奥になります」


「ありがとうございます」


 怜司は微笑んだ。手が冷たかったが、声は揺れなかった。


 ロビーの奥で、ひときわ背の高い女性がストレッチをしていた。黒髪を短くまとめ、濃紺のジャージを着ている。


 派手さはないのに、周囲の空気を少しだけ変えていた。


 彼女が腕を回すたび、近くの選手たちが自然に道を空ける。


 立花真緒。


 怜司は名前を知っていた。前の年のこの大会で二位。現在二十六歳。実業団には所属せず、地域のリハビリ施設で働きながら競技を続けている。


 水泳雑誌に載った短い記事も読んだ。


 派手な経歴はないが、レース終盤の伸びに定評がある。賞金目当ての大会を嫌うタイプではない。ただ、賞金のために泳ぎ方を変えるタイプでもない。


 真緒は、怜司のほうを見た。


「白瀬さん?」


 心臓が跳ねた。だが、怜司は立ち止まらなかった。


「はい。立花さんですよね。前から見てました」


「ありがとう。あなた、久しぶりに出る人?」


「そんな感じです」


 真緒の目は、責めるような目ではなかった。むしろ相手を覚えようとする、競技者らしい視線だった。


 その視線が、怜司には不快だった。


「肩、硬いね」


 唐突に、真緒が言った。


「え?」


「緊張してる?」


「少しだけ」


「最初の五十で焦らないほうがいいよ。このプール、前半だけ水が軽く感じるから」


 助言だった。


 敵に塩を送るような、余計な助言。


 怜司は笑って礼を言ったが、背中を向けた瞬間、顔の筋肉を固めた。


 この女は、勝者の側にいる人間だ。余裕がある。だから他人に親切にできる。


 そう決めつけなければ、真緒の言葉が胸に残ってしまうからだった。


     *


 更衣室へ向かう通路で、怜司はもうひとりの選手に声をかけられた。


「白瀬さん、ですよね?」


 声の主は、明るい金茶色の髪を後ろで束ねた女性だった。首から参加証を下げ、緊張を隠せない様子でゴーグルを持っている。


「森下葵です。初めてですよね、この大会」


「はい。葵さんは?」


「私は三回目。でも予選落ちばっかり」


 葵は笑ったが、その笑いには無理があった。


「今年で最後にしようと思ってるんです。父の店を手伝うことになって、練習時間が取れなくなるから」


 怜司は、どう返せばいいかわからなかった。


「だから、せめて準決勝には行きたいんです。タイムは全然届かないかもしれないけど」


 葵は、言いながら自分を恥じるように視線を落とした。


 怜司はその横顔を見て、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。


 自分がこの大会に出ることで、誰かひとりが順位をひとつ落とす。


 それは抽象的な話ではない。


 葵のように、限られた時間を削って出てくる人間がいる。


 それでも、怜司は言った。


「頑張ってください」


「白瀬さんも」


 葵はそう言って、先に更衣室へ入っていった。


 彼女の背中を見送ったあと、怜司は自分の言葉を反芻した。


 頑張ってください。


 自分は、何を頑張ったのだろう。


 泳ぐことか。


 嘘を守ることか。


 その問いに答えないまま、怜司は反対側の個室へ入った。


     *


 予選の第三組は、会場の空気が変わるレースになった。


 スタート台に立つと、怜司は余計なことを考えなくなった。


 水だけを見た。


 白いタイル。青いライン。飛び込み台のざらつき。競技者だった頃の感覚が、身体の奥から浮き上がってくる。


 号砲。


 飛び込んだ直後、耳の奥で世界が閉じる。


 水中では、歓声も、名前も、借金も聞こえない。


 あるのは自分の泡だけだった。


 最初の五十は三番手。意図どおりだった。隣の選手が出るのを見送り、キックの数を抑える。


 百のターンで二番手へ上がる。


 水面に出るたび、天井の照明が白く割れて見える。


 百五十を過ぎると、腕が急に重くなった。肩の古傷が、昔の痛みを思い出したように鈍く鳴る。


 それでも、怜司は前へ出た。


 残り二十五で先頭の選手の足が見えた。


 見えた瞬間、勝てると思った。


 勝てるという感覚は、彼にとって薬に近い。すべての不安を一瞬だけ沈めてくれる。


 最後のターンを蹴る。


 白い壁が近づく。


 怜司は手を伸ばした。


 タッチした瞬間、身体が止まった。


 そして水面に浮かび、電光掲示板を見た。


 白瀬澪の名の横に、一位の光が点いた。


 それは、何年ぶりかに得た「勝者」の表示だった。


 プールサイドへ上がると、係員がタオルを差し出した。


 怜司はそれを受け取ろうとして、少し離れた場所の真緒と目が合った。


 真緒は拍手をしていた。


 それが、怜司には腹立たしかった。


     *


 予選の全組が終わると、電光掲示板に準決勝進出者の一覧が出た。


 一位、白瀬澪。


 二位、立花真緒。


 三位以下に、見覚えのない名前が続く。


 森下葵の名は、十八位だった。準決勝進出は十六人まで。わずか二人差だった。


 怜司は表示を見たあと、すぐ目をそらした。


 葵は笑っていた。泣くよりはいいとでも言うように、チームメイトらしい女性に肩をたたかれている。


「あと少しだったね」


「まあ、ベストは出たから」


 葵の声が聞こえた。


 それは本当に立派なことだった。


 自分の記録を更新して、なお次へ進めない。


 競技にはそういう残酷さがある。


 だが、怜司がそこへ余計な一人として入り込んだことで、その残酷さは別の性質に変わってしまう。


 もし自分がいなければ、葵は十七位だったかもしれない。あるいは十六位だったかもしれない。


 正確にはわからない。


 だが、怜司の存在が順位を押し下げたことだけは確かだった。


 彼は、その事実を水の中に沈めることができなかった。


     *


 取材の順番を待つ間、怜司は通路の自動販売機の前に立っていた。


 喉は渇いているのに、飲み物を選べなかった。


 背後から、真緒が来た。


「葵ちゃん、惜しかったね」


 怜司は返事をしなかった。


「去年、あの子は予選で二十一位だった。今日は十八位。ちゃんと伸びてる」


「知り合いなんですか」


「市民プールでたまに会う。仕事が忙しいのに、早朝だけ泳いでる」


 真緒は硬貨を入れ、無糖の紅茶を一本買った。


「競技って、上の人だけのものじゃないからね」


「……何が言いたいんですか」


「別に」


 真緒は、蓋を開ける手を止めた。


「ただ、速い人が勝つのは当然だけど、速いことだけで全部が決まるわけじゃないと思う」


 怜司は、彼女の横顔を見た。


「綺麗ごとですね」


「そうかも」


「真緒さんは、賞金を取れば生活が楽になるんじゃないんですか」


「なるよ」


 真緒は即答した。


「だから勝ちたい。でも、誰かの道をずるく狭くしてまで取ったら、あとで水に入れなくなる」


 怜司は笑いそうになった。


 水に入れなくなる。


 そんな感覚的な言い方で、何が変わるのかと思った。


 しかし、彼女の言葉は残った。


 自分はもう、水に入れなくなっているのではないか。


     *


 昼休み、会場の一角では協賛企業による撮影が行われた。


 準決勝進出者が順に背景パネルの前へ立ち、番号札を持つ。


 怜司は、写真を撮られることを嫌った。


 静止画は、動画より細部を残す。


 カメラマンが言った。


「白瀬さん、もう少し顔をこちらへ。はい、笑って」


 怜司は笑った。


 フラッシュが光る。


 その直後、首筋を汗が流れた。ウィッグの縁がかすかに浮く感覚がある。


 彼は反射的に髪を押さえた。


 真緒が少し離れたところから見ていた。


 目が合った。


 真緒は何も言わなかった。


 ただ、その瞬間から、彼女の視線が変わったことを、怜司は知った。


     *


 真緒が怜司の泳ぎを思い出したのは、予選の最後の十五メートルだった。


 右腕が外へ流れ、すぐに内側へ戻る。


 真緒は、三年前の県選手権を思い出した。


 彼女は当時、大学を卒業したばかりで、まだ実業団の入団試験に落ち続けていた。観客席で男子二百自由形を見ていたとき、ひとりだけ後半に粘る選手がいた。


 名前は神代怜司。


 最後に負けたが、壁まで腕を伸ばす姿を、なぜか覚えていた。


 あの選手は、怪我で競技をやめたと聞いた。


 だから、白瀬澪が神代怜司だという確信はなかった。


 ただ、偶然にしては重なりすぎていた。


 真緒は、すぐに告発することを選ばなかった。


 間違っていたらどうする。


 相手の事情を知らずに、外見だけで決めつけたらどうする。


 競技の公平さを守るという言葉は、ときに人を雑に扱う口実にもなる。


 彼女は大会スタッフの東雲由佳に、名前を出さずに尋ねた。


「登録の確認って、どの程度するんですか」


 東雲は手元の端末を見ながら答えた。


「通常は問題なく終わる。でも、今回は一部の登録情報が直前に変わってる人がいる。大会後に確認する予定」


「決勝前じゃなくて?」


「確認事項だけでは止められない。客観的な根拠が必要だから」


 真緒はうなずいた。


 根拠がないうちは、ただの疑いだ。


 疑いの段階で相手を追い詰めれば、自分もまた公平さを失う。


 だから真緒はレースに集中した。


 準決勝で白瀬澪と並んだとき、彼女は相手の正体を暴こうとはしなかった。


 ただ、自分のレーンを泳いだ。


 勝つために、自分の身体の使い方を信じた。


     *


 準決勝の前、真緒はひとりでプールサイドに立っていた。スタート台の横で、足首をゆっくり回している。


 怜司は通り過ぎるつもりだったが、真緒が声をかけた。


「白瀬さん。さっきの予選、二十五の入り、かなり抑えてたよね」


「見てたんですか」


「見てるよ。相手の泳ぎは」


 真緒は水面を見たまま続けた。


「昔、同じように泳ぐ人がいた。地方の大会で何度か見たことがある」


 怜司の足が止まった。


「そうですか」


「呼吸の前に、右手がほんの少し外へ流れる。速い人ほど直せない癖。個性だから」


 怜司は何も言えなかった。


 真緒はようやくこちらを見た。


「変なこと言ってたらごめん。でも、あなたの泳ぎ、初めて見る感じがしない」


「水泳やってる人なら、似ることもあります」


「そうかもね」


 真緒は引かなかった。だが、追及もしなかった。


「準決勝、いいレースにしよう」


 その言葉に、怜司は頷くしかなかった。


     *


 準決勝は、予選とは別の種類の苦しさだった。


 泳力が近い者だけが集まると、誰かの小さな乱れが、すぐに順位になる。


 真緒は最初の五十で無理に前へ出なかった。怜司の右隣、四レーンを泳ぎながら、一定のリズムを守っている。


 水を掻く音が、ほとんど変わらない。


 怜司は先行した。


 彼には、それしかないと思った。終盤で真緒と並べば、相手の泳ぎを意識してしまう。


 だから前半から出る。


 腕を回し、息継ぎを減らし、疲れる前に差をつける。


 百のターンで、半身ほど前に出た。


 だが百二十五を過ぎた頃、真緒の気配が近づいた。


 真緒は焦っていない。


 焦っていないことが、怜司にはわかった。


 彼女は自分のリズムを崩さず、こちらが崩れるのを待っている。


 いや、待っているのではない。


 自分の泳ぎを最後まで遂行しているだけなのだ。


 残り五十。


 怜司の右腕が一度、外へ流れた。


 真緒の言ったとおりの癖だった。


 そのわずかなぶれを、彼女は見逃さなかった。


 次の一掻きで、真緒の肩が視界の端へ出る。二人は並んだ。観客席がざわめく。


 怜司は歯を食いしばった。


 勝て、と頭の中で叫んだ。


 だが、叫びは腕を速くしない。


 水は、焦りを推進力に変えてくれない。


 最後の十五メートルで、真緒が半身前に出た。


 タッチ。


 掲示板には、真緒の一位が表示された。


 怜司は壁をつかんだまま、しばらく顔を上げられなかった。


 真緒は隣のレーンで息を整えたあと、こちらを見た。


 勝者の表情ではなかった。


 レースの相手に向ける、真剣な目だった。


「いいレースだった」


 怜司は答えなかった。


 いいレースだった、という言葉を受け取る資格が自分にあるのか、わからなかった。


     *


 控室に戻ると、バッグのファスナーが少し開いていた。


 中には、替えのウィッグ、化粧直しの道具、体形を整える衣類、使わなかったタオルが入っている。


 怜司は一瞬、息を止めた。


 誰かが触ったのか。


 自分が閉め忘れたのか。


 その区別がつかないことが、いちばん怖かった。


 隣に座ったのは、葵だった。繰り上げで準決勝に出ることになったらしい。頬が紅潮していて、興奮と不安が混じっている。


「急に出ることになって、頭が真っ白です」


「そうですか」


「白瀬さん、予選一位ですよね。すごいなあ」


 怜司は、視線を上げられなかった。


「私、たぶん最下位だと思う。でも、せっかくなら楽しんできます」


 その言葉を聞いたとき、怜司は自分の中の何かが小さく崩れる音を聞いた気がした。


 楽しんできます。


 自分は大会を、楽しむためではなく、奪うために使っていた。


 それでも、彼は何も言わなかった。


     *


 準決勝の後、怜司はロッカーへ戻る途中、洗面台の前で足を止めた。


 鏡のなかの自分は、白瀬澪の顔をしている。


 けれど、頬の化粧は汗で薄くなり、口元には疲労が出ていた。


 彼は蛇口をひねった。


 冷たい水で手を濡らし、顔に触れようとして、やめた。


 水をかければ、今まで積み上げたものが落ちる。


 そう思った瞬間、自分がいかに脆いものを守っているのか、理解してしまった。


 後ろの扉が開く音がした。


 真緒ではなかった。


 東雲だった。


「白瀬さん、決勝後の確認について、少しだけ」


 怜司は鏡越しに彼女を見た。


「今ですか」


「今じゃなくてもいい。でも、あなたの登録情報に関して、確認できない点がある」


「何がですか」


「詳細は本部で話します」


 東雲は淡々としていた。責める口調ではない。


 その事務的な声が、かえって恐ろしかった。


 怜司は、逃げるように洗面所を出た。


     *


 廊下の先で、真緒が東雲と短く話しているのが見えた。


 怜司が近づくと、二人は会話を止めた。


 それだけで十分だった。


 真緒が何かを言った。東雲が確認している。自分は包囲されている。


 そう決めた怜司は、急に冷静になった。


 冷静さは、彼の最悪の癖だった。


 追い詰められるほど、相手の善意を利用する方法を考えてしまう。


 彼は真緒に近づいた。


「少し、話せますか」


 真緒は警戒した顔をした。


「ここで?」


「人のいないところで」


「必要ない」


「あなたが何か勘違いしているなら、説明したい」


 真緒は数秒迷った。


 怜司はその迷いを見逃さなかった。


「五分だけでいい」


 真緒は、東雲を見た。東雲は小さく首を振った。


「大会本部で話して」


 だが、怜司はすでに踵を返していた。


 彼は機材置き場の方向へ歩き出した。


 真緒がついてくるとは限らない。


 けれど、彼女が競技者として正しいことをしようとするなら、放っておけないはずだと思った。


 その読みは当たった。


 扉が閉まる音がしたとき、怜司は自分の勝ち筋を探していた。


 真緒を脅すつもりではなかった。


 ただ、彼女が確信を持てないうちに、自分の言葉で揺らがせたかった。


 その発想が、すでに敗北の始まりだった。


     *


 決勝まで四十分。


 怜司は観客席の裏にある機材置き場へ向かった。そこなら、誰にも見られずに荷物を整理できると思った。


 扉を閉めると、ようやく呼吸が戻った。


 鏡はない。


 棚と台車と、予備のビート板が並んでいるだけの狭い部屋だった。


 怜司はバッグを開け、乱れたウィッグの内側を確かめた。


 固定用のピンが少し浮いている。


 汗でずれているのかもしれない。


 そのとき、扉が開いた。


「ここ、選手用の場所じゃないよ」


 真緒だった。


 怜司はとっさにバッグを閉じた。


「迷っただけです」


「嘘が下手だね」


 真緒の声は低かった。プールサイドで聞くものとは違う、仕事の顔の声だった。


「何のことですか」


「さっき、あなたのバッグが開いてた。私は触ってない。でも、通りかかったスタッフが落とし物だと思って閉めようとしてた。中を見たかは知らない」


 怜司は黙った。


「それと、あなたの泳ぎを思い出した。三年前の県選手権。男子二百自由形。神代怜司って選手がいた」


 名前を言われた瞬間、部屋の空気が薄くなった。


「人違いです」


「じゃあ、顔を上げて言って」


 怜司は上げなかった。


 真緒は一歩だけ近づいた。


「私は、あなたの格好を笑いたいんじゃない」


 その言葉が、怜司を苛立たせた。


「なら、放っておいてください」


「放っておけない。これは競技だから」


「競技者ぶらないでくださいよ」


 声が荒くなった。


「あなたは正しい側にいるから、何でも言える。私は、泳げるのに、出られる場所がなかった」


「出られない理由があったなら、別の方法を探すべきだった」


「別の方法?」


 怜司は笑った。自分でも、乾いた音だと思った。


「そんなもの、どこにあるんですか」


 真緒は答えなかった。


 沈黙の中で、遠くからアナウンスが聞こえた。


 決勝進出者は十五分前に招集所へ集合してください、という声だった。


 怜司は真緒の脇を抜けようとした。


「どいてください」


 真緒は進路をふさいだ。


「東雲さんに話す」


「やめてください」


「あなたが自分で話すなら、私からは言わない」


「信用できません」


「信用されることをした?」


 その一言で、怜司の中の何かが切れた。


 彼は真緒の肩を押しのけようとした。


 真緒は身を引いたが、怜司の手がバッグの持ち手に絡み、二人の間で荷物が揺れた。


 ウィッグを留めていたピンが外れ、淡い茶色の髪が肩から滑り落ちる。


 真緒は反射的に、その落ちたウィッグをつかんだ。


 怜司の頭がむき出しになった。


 彼はすぐに両手で頭を覆った。


 そこにあったのは、短く刈り込んだ黒髪だった。


 化粧も汗で崩れ、目元の線は薄く伸びていた。


 怜司は扉へ向かった。


 真緒を避けて、肩から抜けようとする。


 真緒は彼の腕ではなく、上着の袖をつかんだ。


「行かせない」


「離せ」


「本部で話して」


「今さら何を話すんだよ」


 怜司は振りほどこうとした。


 狭い部屋の棚に肘が当たり、置かれていた救護用のタオルが床へ落ちる。


 真緒が体勢を崩さず踏みとどまったとき、怜司の頭から残っていたウィッグが大きくずれた。


 彼は両手でそれを押さえた。


 真緒は、逃げるために頭を低くした怜司の手首を一度だけ押し下げた。


 力任せではなかった。


 だが、怜司が振り払おうとした拍子に、濡れたタオルが頬をこすった。


 化粧の一部が、はっきりと落ちた。


 鏡がなくてもわかる。


 白瀬澪の顔が、そこで途切れた。


「やめろ」


 怜司の声は低かった。


「やめるなら、本部へ行く」


「脅してるのか」


「違う。あなたが逃げようとしてるから、止めてる」


 真緒は、外れたウィッグを手に取った。


 髪の内側には、固定用の細い留め具が見えた。


 彼女はそれを壊さず、棚の上へ置いた。


 怜司の上着の内側では、留め具の外れた補正具がずれ、折り畳んだタオルがさらに落ちた。


 胸元の輪郭を作るために入れていた数枚のタオルだった。


 服は乱れただけで、肌が見えることはなかった。


 怜司はそれを隠そうとしてしゃがみ込んだ。


 真緒は先に手を伸ばし、散らばったタオルと薄い補正具をまとめて回収した。


 そして、怜司から離れた棚の上に置く。


「返して」


「今は返さない」


「俺のものだ」


「あなたが決勝へ行くために使うものだから、返さない」


 真緒の声は震えていた。


 怒っているのではなく、怖がっているようにも見えた。


「私は、あなたを殴りたいわけじゃない。笑いたいわけでもない。ただ、これ以上、あなたが自分で取り返しのつかないことをするのを見たくない」


 怜司は床に片膝をついたまま、動けなかった。


 自分が守っていたのは、外見ではなかった。


 勝つためなら何でもできるという、自分についての幻想だった。


 それが、ウィッグと濡れた化粧と、床に散ったタオルのように、目の前で形を失っていた。


 真緒は、逃げ道をふさぐように立った。


「問題は、あなたがどういう格好をしているかじゃない」


 彼女は言った。


「誰かの参加資格を奪って、嘘の名前で賞金を取ろうとしたこと。それが間違っている」


 その言葉は、怜司の胸にまっすぐ入った。


 彼は、女装していることを責められると身構えていた。


 笑われることも、汚いものを見る目を向けられることも覚悟していた。


 だが真緒は、そこを責めなかった。


 だからこそ、逃げられなかった。


     *


 扉が再び開き、東雲が入ってきた。


「どうしました?」


 真緒は答えなかった。怜司を見た。


 今度は、怜司が先に口を開いた。


「……出場できません」


 声は、白瀬澪のものではなかった。


 低く、かすれていた。


 東雲の視線が、床のタオルと、棚の上のウィッグに移る。


 次に、怜司の顔へ戻る。


「事情を説明してもらえますか」


 怜司は、うなずいた。


 その後のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。


 大会本部の小さな会議室。


 記録用のタブレット。


 担当者が何度も確認する質問。


 提出書類の不一致。


 登録情報の不正。


 決勝出場の取り消し。


 大会規約に基づく失格。


 怜司は、否定しなかった。


 嘘を重ねれば、まだ何かを守れる気がした。


 しかし、守るべきものが自分の中に残っていないことも、もうわかっていた。


 会議室の外では、決勝の選手紹介が始まっていた。


 白瀬澪という名前は呼ばれなかった。


     *


 決勝は、真緒が勝った。


 レースを見たのは、会議室の壁にかかった小さなモニターだった。


 音声はほとんど聞こえない。


 水しぶきと歓声だけが、遠い出来事のように映る。


 真緒は前半を三番手で折り返し、残り五十で一気に出た。


 怜司が知っている、あの終盤の伸びだった。


 だが実際に見ると、記事で読んだ印象よりずっと静かだった。


 無理に腕を振り回さず、苦しさを水の中へ沈めながら前へ進む。


 最後の五メートルで、真緒の指先が壁に触れた。


 優勝。


 電光掲示板に出た数字を見て、怜司は目を閉じた。


 負けた、と思った。


 だが、いつもの負けとは違った。


 相手が速かったから負けたのではない。


 自分が、勝つために競技の外側へ出たから負けたのだ。


 真緒は表彰台で、賞金パネルを受け取った。


 写真撮影のとき、彼女は笑っていた。


 だが、怜司が会場を離れる頃、真緒は追ってこなかった。


 追ってこないことが、彼には救いだった。


     *


 大会の翌日、主催者は公式サイトに短い発表を出した。


 「登録内容に重大な虚偽が認められたため、女子二百メートル自由形における一選手の記録および出場資格を取り消しました。大会は参加者の公平性と安全性を最優先に運営します」


 名前は出なかった。


 数日後、東雲から怜司へ、一通の事務連絡が届いた。


 森下葵を含む準決勝進出圏外の選手について、大会側は記録の扱いを見直し、虚偽登録者を除いた順位表を改めて公表するという。


 葵の順位が繰り上がったとしても、すでに終わった準決勝をやり直すことはできない。


 失われた機会がそのまま戻るわけではない。


 その事実を読んだとき、怜司は机の前で長く動けなかった。


 謝れば元に戻ると思っていたわけではない。


 だが、どこかで、失格になれば帳尻が合うとも思っていた。


 合わない。


 不正は、自分の記録を消せば終わるものではない。


 誰かが準備してきた時間、緊張しながら立ったスタート台、あと二人届かなかった順位まで、すべてに触れてしまう。


 怜司は、東雲を通じて葵へ短い謝罪文を渡したいと申し出た。


 大会側は、本人が受け取りを希望した場合に限るという条件を示した。


 返事は、しばらく来なかった。


 十日後、東雲から一通だけ転送された。


 「受け取りました。私は次も泳ぎます」


 それだけだった。


 許されたわけではない。


 むしろ、許すとも書かれていない。


 だが、その簡潔な文に、怜司は自分が奪おうとしたものの重さを見た。


 葵は次も泳ぐ。


 自分の努力を、自分の名前で続ける。


 怜司はスマートフォンを伏せ、靴を履いた。


 その日、彼は市民プールへ向かった。


     *


 春が近づく頃、怜司は大会主催者から、今後一年間の同大会への参加停止を通知された。


 通知書は薄い紙一枚だった。


 そこには、違反内容と処分期間、異議申し立ての方法が事務的に並んでいる。


 怜司は最後まで読んだあと、封筒に戻した。


 重すぎるとも、軽すぎるとも思わなかった。


 それが、自分のしたことに対する一つの結果だった。


 職場では、倉庫の担当を続けながら、週に一度だけ近所の子ども向け水泳教室の準備を手伝うようになった。


 教える資格があるわけではない。


 ビート板を並べ、コースロープを片づけ、忘れ物を確認するだけだ。


 最初は、プールサイドに立つのも嫌だった。


 子どもたちは何も知らずに泳ぎ、タイムが出れば歓声を上げ、出なければ悔しがる。


 そこにいると、自分がずいぶん遠くまで来てしまったように思えた。


 ある日、小学四年生くらいの男の子が、二十五メートルを泳ぎ切れずに途中で立った。


 コーチに「最後まで行ける」と言われても、首を振っていた。


 怜司は、余計なことを言うつもりはなかった。


 ただ、タオルを渡しながら言った。


「次は、最初の十メートルだけ頑張ればいいよ」


 男の子は不満そうな顔をした。


「二十五じゃなくて?」


「二十五は、十の次に考えればいい」


 その子は次の番で、十五メートルまで進んだ。


 最後はまた立った。


 それでも、さっきより少しだけ先だった。


 怜司は拍手をしなかった。


 大げさに褒めれば、その子が自分で進んだ事実を薄める気がした。


 ただ、頷いた。


 その日の帰り道、怜司はふと、自分がもう一度競技に関わりたいと思っていることに気づいた。


 賞金のためでも、誰かより上に立つためでもない。


 水のそばにいて、少しずつ前へ行く人間を見たいと思った。


 それが許されるには、まだ時間がかかる。


 処分が終わっても、信頼が戻るとは限らない。


 だが、時間がかかることから逃げない以外に、彼にできることはなかった。


     *


 四か月後。


 潮見市民プールの掲示板に、小さな大会の案内が貼られていた。


 「冬季市民リレーフェスティバル 成人混成オープン」


 賞金はない。


 参加費は二千円。


 チームは四人一組。


 年齢も性別も問わない。


 ただし、登録者本人が出場すること。


 初心者も経験者も歓迎、と書かれている。


 怜司は、その紙の前で立ち止まった。


 隣に、真緒がいた。


 彼女は仕事帰りらしく、紺色のコートを着ていた。怜司に気づくと、少しだけ驚いた顔をした。


「久しぶり」


「……はい」


「泳いでる?」


「たまに」


「肩は?」


「前よりは、ましです」


 短い会話のあと、真緒は掲示板を見た。


「出るの?」


「まだわかりません」


「出たらいい。ここは、ちゃんと自分の名前で出ればいい大会だから」


 怜司は紙を見た。


 そこには、何の役にも立たないほど小さな文字で、「競技を楽しむこと」と書かれていた。


「立花さんは出るんですか」


「出るよ。たぶん、子どもたちのチームと」


「また勝つんですか」


 真緒は笑った。


「勝てたらね。でも、今回はみんなで泳ぐから」


 彼女は立ち去りかけて、振り返った。


「神代さん」


 怜司は顔を上げた。


「格好を変えたいなら、変えていいと思う。髪も、服も、声も。誰かが決めることじゃない。でも、他人の場所を奪うために使わないで」


 言い方はきつくなかった。


 だが、怜司には十分だった。


「……わかっています」


 真緒はうなずき、プールの出口へ向かった。


 怜司はしばらく、その背中を見送った。


 そして掲示板の前で、参加申込書を一枚取った。


 名前を書く欄に、神代怜司と書いた。


 字は少し震えたが、消さなかった。


     *


 冬の大会当日、怜司は競技用のジャージだけを着て会場へ行った。


 鏡の前で、何かを足すことも、隠すこともしなかった。


 髪は自分のまま。


 声も、自分のまま。


 受付の係員は、申込書と顔を見比べて、笑った。


「神代さんですね。第四レーンのチームです」


「はい」


 その返事は、小さかった。


 だが、嘘ではなかった。


 市民リレーの日、怜司のチームは四組中三位だった。


 最終泳者の五十代の男性が、最後の十メートルで隣のチームに抜かれた。


 ゴール後、全員が息を切らしながら笑った。


 大学生の選手が「次は練習してきます」と言い、会社員の女性が「私はもう無理」と笑い返す。


 怜司も笑った。


 以前なら、三位という順位に腹を立てていたかもしれない。


 だが、その日の彼は、壁に触れたあと、自分のレーンを振り返った。


 水面にはもう、自分が作った泡しか残っていない。


 真緒のチームは一位だった。


 子どもたちは表彰状を掲げ、真緒は少し困ったように笑っていた。


 帰り際、怜司は真緒に近づいた。


「おめでとうございます」


「ありがとう。神代さんも、お疲れ」


「三位でした」


「見てた」


「悔しいです」


「それでいい」


 真緒はそう言った。


 悔しい。


 それは、以前のように何かを壊したいという感情ではなかった。


 次にもう少しだけ速くなりたいという、単純で正直な感情だった。


 怜司はプールの出口へ向かった。


 夕方の光が、濡れた床に細く伸びている。


 白線の外側にいた自分が、ようやく少しだけ、レーンへ戻ってきた気がした。


     *


 帰宅後、怜司は机の引き出しから、昔の記録ノートを出した。


 最後に書かれていたのは、怪我をする前の練習メニューだった。


 日付の横に、タイムと、短い感想が残っている。


 「後半で落ちた」


 「呼吸が多い」


 「次は戻す」


 どのページにも、次があった。


 潮見大会のあと、怜司はそのノートを開けなかった。


 自分にはもう書く資格がないと思っていたからだ。


 だが、その夜、空いているページに一行だけ書いた。


 「市民リレー 三位。最後まで泳いだ」


 タイムは書かなかった。


 書き終えてから、怜司はしばらくその文字を見た。


 勝者の記録ではない。


 誰かに見せるための記録でもない。


 ただ、自分が自分の名で泳いだという記録だった。


 窓の外では、夜の雨が静かに降っていた。


 次に泳ぐ日が、いつ来るのかはわからない。


 速くなれるかも、勝てるかもわからない。


 それでも、次があることだけは、今の怜司には十分だった。

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