悪役令嬢は湖の底へ
春の陽光が差し込む中庭で、第一王太子エルヴェスは穏やかに笑っていた。
その視線の先にいるのは…男爵令嬢ルリ。
風に揺れる栗色の髪を押さえながら、彼女は困ったように笑う。
その姿を見つめるエルヴェスの瞳には、セレスティアがどれだけ望んでも向けられなかった熱を宿していた。
遠くからそれを見つめながら、セレスティアは静かに扇を閉じる。
扇に指を這わせ、瞼を振るわせた。
…ただ、それだけ。
「そう」
こんな時が来てしまう事を…予想していなかったわけではない。
むしろ、いつかこうなると理解していた。
けれど…。
セレスティアの手から扇が音もなく離れた。
エルヴェスは昔から優しかった。
誰にでも平等で、身分を笠に着る貴族を嫌っていて…。
だからこそ、公爵家の権力を使って婚約者になった私の事を、彼が愛してくれることはないと…理解していた。
わかっていた。
理解していた。
予想していた。
それでもよかった。
隣にいられるだけで。
彼の未来に自分の名が刻まれるだけで。
…そう思っていたはずなのに。
これは違う。
全然、全く、違う。
わかっていなかった。
理解できていなかった。
予想していなかった。
全然良くない。
こんなのあんまりだ。
心に傷が刻まれ、血が滴る。
…本当に欲しいものは、権力では得られない。
「ふ…ふふ。」
笑みが漏れる。
指の間からこぼれ落ちてゆく砂のように。
「セレスティア様?」
背後から侍女が不安げに声を掛けてきた。
「平気よ」
セレスティアは振り返り、微笑んだ。
培ってきた、完璧な淑女の笑みだった。
けれど胸の奥では愛と言う濁りが溢れ、蓋の間から今も尚こぼれ落ち続けている。
セレスティアの抑えていた感情が、マグマの様に煮え滾って暴れている。
ルリ。
平民上がりの男爵令嬢。
誰にでも愛される明るさを持ち、人の懐に入るのが上手い娘。
他人の物を横から無遠慮に、許可も取らず、触るのは、親子代々と言うことかしらね。
セレスティアのヒールが扇を踏みつける。
ドレスで隠れて見えないのを良いことに、何度も何度も床へと擦り付ける。
弱者は強者に媚びるのがなんとまあお上手なこと。
…本能、かしらね。
それしか持ち得ない、一点特化ですもの。
仕方のない事かしらね。
ヒールの裏に感じた小さな裂傷音。
それは、踏み躙られたセレスティアの心の様で。
…エルヴェスが、自ら近づいた女。
それが許せない。
セレスティアには酷く耐え難い。
セレスティアは幼い頃、初めてエルヴェスに会った日のことを…今でも覚えている。
まだ十にも満たない少年だったエルヴェスは、転んで膝を擦りむいた私にハンカチを差し出してくれた。
『泣くな。血くらいすぐ止まる』
目線は私から外れていた。
口はへの字に曲がり、眉間には皺が寄っていた。
…ぶっきらぼうなくせに、何故だか優しかった声音。
綺麗な銀髪は夜空を彩る星々。
その青い瞳は澄んだ湖。
エルヴィスのその星の煌めきに目を奪われ、その湖に私だけを写し込みたくて、私は…だから、努力した。
王妃教育も、政治も、礼儀作法も、全て。
エルヴィスの隣に立つために。
なのに…。
手が届かないはずの星々に手を触れる女。
湖の水を独り占めする女。
「星は落ちるし、水は枯れるのね」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「君が…やったのか」
数日後、人気のない廊下でエルヴェスがセレスティアに一言。
その言葉にセレスティアは静かに窓の外へ視線を向けた。
空を飛ぶ鳥を目で追いながら一言。
「証拠でも?」
「…っ」
エルヴェスは唇を噛んでいるのだろう。
見なくてもわかる、全ての癖を。
その目に宿るのは嫌悪かしらね?昔からずっと私へと向けられていたもの。
一つしかない物なら湖の底にでも沈めてしまえば良かったのよ。
星なんて幾千万も輝いてるんだから。
「殿下、そんな顔をしないでくださいませ」
「私を見もしない癖に何を言う」
「わかりますもの。
殿下がどの様な表情をなされているかなど」
エルヴェスの目が見開かれる。
「今ここで私の両目から光が失われたとしても、殿下のことであれば正確に当てることができますわ」
自傷気味にセレスティアはくすりと笑う。
「言葉にしないからと言って、伝わらないわけではなくってよ」
「何を…」
エルヴェスが言葉を失う。
「責任を取ってくださいませ」
あなたを絡めとりたい。
あなたを沈み込ませたい。
だから…
私はエルヴェスへと視線を移し、木漏れ日の様な笑顔を向けた。
奇しくもそれは、セレスティアが嫌いな男爵令嬢と同じような笑顔で。
媚びる様で、晴れやかな笑顔で…。
それと同時にカリリ…と静かな廊下にセレスティアの歯軋りの音が響く。
「セレス…?」
エルヴェスはその瞳を大きく開いた。
「湖の底へ…ゆきたいのですわ」
セレスティアの口の端から一つ、また一つとルビーがこぼれ落ちる。
それがやがて両手で持ちきれない程の量になった頃。
やっとエルヴェスは気付いた。
あの頃見た風に揺れるルビーも、夜空を照らす月も…
もう見ることができないのだと。
『やり直しできなくて良い、来世で会えなくても良い、ただ、貴方の底に居続けることが出来るのならば』
朝起きたら子供に「まま歯ぎしりすごい」って言われたんです。




