お嬢様の願いを叶えるため、自分なりの悪女として振る舞った結果
【セレス】
「いいことを思いついたわ」
愉しそうなティアナお嬢様の声に、セレスは嫌な予感を覚えた。ティアナお嬢様のいいことは大抵セレスにとって悪いことなのだ。
「お姉様、学園では悪女として振る舞ってちょうだい」
「……悪女?」
何を言われるのだろうと構えていたが、思いがけない言葉に理解が追い付かない。
「ティアナの言うことに逆らうつもりなの?」
「いいえ、そんなつもりはございません、奥様。お嬢様のお考えをすぐに理解できない愚かな私をどうかお許しください」
今ではすっかり慣れたもので、流れるように土下座をしながらセレスが謝罪をすると、嘲りの交じった笑い声が頭上から聞こえてきた。
「お姉様にはそういう姿がお似合いだけど、学園でもそんな卑屈な態度でいられたら我が家の評判に関わるわ。そうしたら私が学園に通う時に困るじゃない?」
リーン伯爵家の評判を気にするのならばなおのこと、悪女として振る舞うようにと命じられるのは意味が分からない。
「お父様を誑かした悪女の産んだ子を立派に育てあげようとしたけど、悪女の娘はやっぱり悪女で、我儘に振る舞って可愛い妹を虐げているの。学園では両親の目が届かないことをいいことに好き放題振る舞って周囲に迷惑を掛けるのよ。状況を知った優しい妹が諫めても聞く耳を持たず、そんな純粋で健気な姿に惹かれた令息たちは妹を守りいつしか愛が芽生えるの」
後半は夢を見るようなうっとりした声に変わっており、きっとどこかの恋愛小説を読んで影響を受けてしまったに違いない。
まだデビュタントを迎えておらず、婚約者がいないティアナにとって、恋愛小説は憧れの世界なのだ。
セレスが読んだことのある恋愛小説にも、悪女と呼ばれる登場人物がいた。主人公である少女に嫌がらせをしたり、男性を誑かしたり、意中の相手が惹かれる少女を嫉妬のあまり危害を加えようとするのだ。
(確かに不遇な環境に身を置く少女や意地悪な姉妹に虐げられる、いわば悲劇のヒロインは複数の男性に愛される系のお話が多いですが……)
それは作り話だからであって、現実はそう甘くないと思うのだ。そんな考えに気を取られていたせいで、頬に鋭い痛みが走り思わず悲鳴が漏れた。
「耳障りな声だこと。さっさと返事をなさい」
冷ややかな眼差しで見下ろす奥様は、扇子をとんとんと手の平に打ち付けている。苛立っているサインだ。
「申し訳ございません。お嬢様の仰る通りにいたします」
じんじんとした痛みを感じつつ、セレスはそう答えるしかなかった。
「困りました。どうしたら他人を傷つけずに悪女になれるのでしょうか……?」
仕事が終わり自室として与えられた物置小屋に戻ったセレスは、簡素なベッドの上で呟いた。
『一番大切で、一番難しいことなの。生きていれば誰かを傷つけてしまうことはあるけれど、それでもそうしないように気を付けることはできるわ』
優しくて穏やかな母らしい言葉だったが、そう語ることにどれだけの罪悪感を背負っていたのだろう。
望まない形で妊娠した母を、先代のリーン伯爵夫妻は保護してくれた。
息子の不始末に対する親の責任、そして生まれてくる子が男児であったら後継問題にも関わってくるからだ。
一番大きな理由としては、まもなく結婚する一人息子が訴えられるという不名誉を避けるためだったとしても、他に頼るあてもなく一人で出産しなければならなかった母にとっては、有難かったらしい。どんな経緯であっても自分の元にやってきた命を守りたいという想いのほうが強かったのだ。
そうして生まれた子は女児で、後は母娘二人で暮らしていければそれで良かったのだが、そう上手くは行かなかった。
まず伯爵夫妻であるが、平民との子であっても、初孫は可愛かったらしい。
特にリーン伯爵夫人は、息子の妻であるナイラと相性が悪く、赤ん坊であるセレスに癒しを感じ、恐縮する母を専任侍女として傍に置くことにした。
明るく華やかなナイラよりも控えめで穏やかな母のほうが好ましかったらしい。それでも嫁ではなく使用人であるため一定の線引きはされていたが、セレスとの時間が取れるよう計らってくれたし、セレスにも使用人の娘とは思えないほど質の良い衣類や玩具を用意してくれた。
結婚してしばらく経ってからその事実を知ったナイラは当然のことながら、激怒した。だが既に結婚しており、義両親がそれを受け入れている状態で、夫も昔のことだと取り合ってくれない。
溜まり溜まった鬱憤は、先代の伯爵夫妻が流行り病で亡くなったことで爆発することになるのだが、その一か月後に看病していた母までも同じ病にかかり亡くなると、必然的に矛先はその娘であるセレスに向けられることになったのだ。
(だけど結婚したばかりの奥様も相当ショックだったのでしょうし、そんな奥様の娘であるお嬢様も私のことを嫌っていても仕方がないことです。もちろん子供ができる行為を強要されたお母様も生まれてきた私も悪くないので、父である伯爵がすべての元凶なのですけど)
理不尽だと思うこともあるが、リーン伯爵の被害者だと思えば奥様を恨む気持ちはない。ティアナお嬢様にしてもセレスと母の悪口を聞かされて育ったので、仕方がないと思っている。書類上では姉妹だが、母が亡くなる前から使用人見習いとして働いているため家族という感覚もほぼない。
「お嬢様の希望を叶えつつ、他人を傷つけない方法を考えないといけませんね」
その日からセレスは必死に頭を絞ることになった。
(きっともうこれしかないと思ったのに、まさか閉まっているなんて……)
明後日から通う学園の前でセレスは打ちひしがれていた。何とか時間を捻出して抜け出してきたというのに、固く閉じられた門の向こうに人の気配はなく休園日のようだ。
在校生――それも男子生徒に会えなければセレスの目的は果たせない。
(運よく話を聞いてくれる方がいたとしても、お願いを引き受けてくださるかどうかが最難関だったはずなのに、こんなところで躓くなんて……詰みました)
「そこの女、こんなところで何をしている?」
門を掴んだまま項垂れていたセレスが不機嫌そうな声に顔を上げると、目の前に学園の制服を着た男子生徒が立っているではないか。
「あっ、あ、あの!」
諦めかけていた矢先の幸運に思わずにじり寄ると、警戒心を露わにした男子生徒が一歩下がった。これは良くない兆候だ。
「怪しい者ではございません!ただちょっとお話を聞いていただきたいだけで。あ、逃げないでくださいね。怖くないですから、ね」
近づいた分だけ遠ざかる、じりじりとした攻防戦は快活な笑い声によって中断された。
「あははっ、なに面白いことしてるの、シルヴァン」
「不審者対応です。お下がりください、殿下」
「ひいっ!申し訳ございません!」
恐ろしい敬称が聞こえて、セレスは地べたに張り付くように土下座した。脛をしたたかにぶつけて、青あざ確定の痛みが走ったが、それどころではない。王族など使用人風情が顔を合わせて良い相手ではないのだ。
(空気、いえ置物になりきりましょう!)
なるべく視界に入らないよう小さく身体を丸めてみたものの、降ってきたのは更なる笑い声だった。
「くっふふふ、急に土下座したかと思えば、縮こまって。亀の物真似でもしてるの?ふっ、ははは、君、変な子だね」
「……殿下」
笑い声を咎めるように苦々しい声が交じる。かくしてセレスはシルヴァン・アインバーグ侯爵令息と第三王子マーカスに出会ったのだった。
【ティアナ】
浮気相手の子供なのに、自分より上にいるお姉様の存在がずっと疎ましかった。ただの生まれた順番だとしても、平民が自分より先にリーン伯爵の娘として記されていることにティアナは理不尽さを感じていた。
(お姉様がいなければ完璧な家族だったのに……)
それもこれも祖父が出生届を出してしまったせいだ。そんな祖父母と両親は折り合いが悪く、当てつけのように使用人の母子を可愛がったというのだから、酷い話だ。
祖父母が亡くなってからもお父様がお姉様に見向きもせず、お母様は積年の恨みを晴らすかのようにお姉様に辛く当たるようになったが、自業自得だろう。
デビュタントもしていないお姉様はこのまま使用人として一生を終えるのだと思っていたのに、学園に通わせることになったと聞いた時、ティアナはお父様に文句を言った。
ティアナには甘いはずのお父様は、この時ばかりは不機嫌そうに義務だと告げて話を終わらせた。
それを言うならデビュタントも義務だが、体調不良だとでも言って欠席したのかもしれない。流石に学園のように長期間通う必要があるものは誤魔化せなかったということか。
(でも、きっとそれだけじゃないわ)
あわよくばどこかの家に縁付かせようとしているのではないだろうか。ずっと表に出ない長女の存在を誰かに指摘されたのかもしれない。このまま使用人として置いておくよりも他家との繋ぎや若い後妻を望む男に売る方が利益になるとでも考えているのだろう。
だったらその前にお姉様を有効活用しなければ、そう思って考えたのがお姉様を悪女に仕立てることだった。
「私だけを愛して甘やかしてくれる素敵な王子様に会うためには、きっかけが必要だもの」
鏡の前に立つと、ぱっちりと大きな瞳と華奢な身体には柔らかで女性らしい膨らみも備えた可愛らしい少女が映っている。目を潤ませれば思わず手を差し伸べたくなる可憐な少女といえるだろう。
一方のお姉様は切れ長の瞳で女性にしては背が高く痩せぎすで、女性としての魅力など皆無だ。
「ふふ、お姉様に誑かされる令息なんているのかしら?どうやって悪女になるのか楽しみね」
どんな仕事を押し付けても文句を言わず、懸命に取り組む様子は健気さをアピールしているようで苛々させられる。
だが今回はいつもと違う。
「出来ないって泣きついてきても、許してあげないんだから」
優越感と嗜虐心にティアナは口の端を上げたのだった。
お姉様が学園に通い始めて3ヶ月ほど経った頃、ティアナはお茶会を開いた。
『いろいろな方にお声かけしていますが、なかなか相手にしてもらえません』
そう上手くいくとは思っていないが、お姉様の話だけでは当てにならないからだ。
普段はリーン伯爵家より家格の劣る子爵家や男爵家の令嬢に声を掛けるが、今回はお姉様と同級生、または既に学園に通っている兄姉がいる令嬢を招いた。
そのため伯爵令嬢や侯爵令嬢も来ることになっている。
(気を遣わないといけないのは面倒だけど、可哀想な妹を印象づけるにはちょうど良いかもしれないわね)
そうして訪れたお茶会の日、いつもより控えめなドレスを着たティアナは招待客を出迎えた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。皆さまとお話できることを楽しみにしておりましたの」
はにかむような笑みを浮かべると、ほとんどの令嬢が好意的な表情を向けた。そんな中で一人の令嬢だけがつんと澄ました表情を浮かべている。
(何よ、侯爵令嬢だからって気取っちゃって。不満があるなら来なければいいのに)
そもそも招待したのは彼女の妹だが、前日に体調不良のため姉が代わりに訪問するとの連絡があった。高位貴族だが年下のため招待したのにとむっとしたものの、お姉様と同い年なので直接普段の様子を知る令嬢から話が聞けるなら悪くないと考えたのだ。
「こう言っては何だけど、貴女のお姉様の振る舞いは淑女としてあるまじきものだわ。あれはリーン伯爵家の方針なのかしら?」
当たり障りのない会話からしばらくして、ティアナに観察するような眼差しを向けていた侯爵令嬢が切り出してきた。こちらから水を向けるよりも自然な展開に、ティアナは内心ほくそ笑む。
「お姉様は、その……自由な方で。両親も苦言を呈しているのですが一向に聞く耳を持たず……。まさか学園でもそのように振る舞っているなんて……申し訳ございません!」
口元を覆い、ショックを受けたように瞳を伏せたティアナに他の令嬢たちから声が上がる。
「まあ、ティアナ様のせいではございませんわ。そういえば以前随分と変わった令嬢がいると姉がこぼしておりました。もしかしたら、ティアナ様のお姉様のことだったのかも……」
「実は私の兄も婚約者との時間を邪魔する悪女がいると……。いえ、その方がティアナ様のお姉様だと決まったわけではありませんが。ティアナ様はお淑やかなご令嬢ですものね」
(あらあら、お姉様ったら。案外上手くやっているのね)
気を良くしたティアナは眉を下げたまま、控えめな笑みを浮かべた。
「皆さま、お気遣い痛み入りますわ。お姉様がご迷惑をお掛けしているのに、そんな風におっしゃっていただけるなんて……」
「……貴女はお姉様とは違うようね。これ以上学園の秩序を乱すわけにはいかないから、安心したわ」
そんな侯爵令嬢の言葉に、ティアナは学園に通う日を心待ちにするのだった。
そして9か月後、ティアナは期待に胸を膨らませて、学園内を歩いていた。ずっと会いたかった憧れの人が同じ学園内にいるのだ。流石に上級生のクラスまで訪ねるわけにはいかないが、どこかですれ違うチャンスはゼロではない。
(早くお会いしたいわ……)
思い出すのはデビュタントで見た麗しい二人の男性――柔らかく甘やかな笑みで周囲を魅了する第三王子のマーカス殿下、そして凛々しく冴えわたった美貌の持ち主である侯爵令息であるシルヴァン。
同い年であればと何度も思ったが、一年であれ同じ学園に通えるのだし、男性は若い女性を好む。二人ともまだ婚約者がいないものの、ただの伯爵令嬢であれば高位令嬢に阻まれ近づくことすらままならないだろう。
(でも、私にはお姉様がいるもの)
お姉様も順調に悪女として有名になっている。それを知ったのは昨日――入学式の受付で、上級生の男性が、ティアナがリーン伯爵家の娘だとして一瞬ぎょっとした表情をしたからだ。
「あの……もしかして、お姉様がご迷惑をお掛けしているのでしょうか?」
すかさず不安そうな表情でおずおずと訊ねてみると、上級生はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「いや、その……彼女は有名だからね。妹さんのほうは、何というか令嬢らしい令嬢だと思ってね。失礼、他意はないのだが」
誤魔化すような態度に、謝罪をしつつもティアナは笑いを堪えるのに苦労した。お姉様の評判が悪ければ悪いほど、ティアナの好感度は高くなるに違いない。
あまり愉快なことではないが、学園内でお姉様に罵倒させたり、暴力を振るわせるのも良いかもしれない。意地悪で横暴な姉に虐げられる妹に周囲は同情してくれるだろうし、健気に耐える姿は庇護欲をそそるだろう。
(マーカス殿下やシルヴァン様が颯爽と現れて助け出してくれる……なんて素敵なの!)
そんな空想にうっとりしていると、興奮したような令息たちの声が耳に入った。
「またあの悪女がやらかしたらしいぞ!だれか、先輩を呼んでこい」
「今度は誰が犠牲になったんだ?」
「見に行けば分かるだろう。場合によっちゃ助けてやらないと」
(まあ、何て良いタイミングなのかしら!)
何やらしでかしたらしいお姉様を利用すべく、ティアナは駆けだした令息たちの後を追ったのだった。
「いい加減にしてください!手助けしてくださっただけですのに……どうしてそんな酷いことが言えるのですか!」
「っ、本当のことを言って何が悪いんだよ!」
人だかりの中心から男女の言い争う声が聞こえる。さり気なく人の隙間を縫うように前へ進むと、向き合った制服姿の令息二人と一方の令息の背後に庇われるようにした令嬢の姿があった。
(あら、悪女とはお姉様のことではなかったの?)
「落ち着いて、お姫様。僕のために怒ってくれるのは嬉しいけれど、君は笑った顔のほうが素敵だよ?それに――」
そんな甘いセリフを吐きながら、灰色の髪の令息が令嬢の耳元で何事かを囁いたかと思うと、一瞬で令嬢の顔が真っ赤に染まる。
「おい、そいつに何を――!人の婚約者に色目を使うんじゃねえ!」
「こちらのお姫様が可愛い顔をしているのは僕のせいじゃないんだけどね。それよりも少し声量を落としてくれないかい?君の婚約者も他のお姫様たちも、男性に大きな声を出されると萎縮してしまうんだ」
相手よりも小柄なのに凛とした声と堂々とした態度に、ティアナは物語に書かれた騎士を思い出した。言動はやや軽薄だが、紳士的な振る舞いと気遣いは好感が持てる。
周囲の視線に気づきはっとした様子を見せたレッドブラウンの髪の男性は、それでも引き下がる様子はなく、相手を睨みつけた。
「ねえお姫様、もしもの時は僕がいくらでも慰めてあげるよ。少しだけ勇気を出してみない?」
そんな囁くような声に、はっとしたように肩を揺らすと令嬢は覚悟を決めたような面持ちで婚約者のほうへ一歩踏み出した。
「グレッグ様……こちらを受け取っていただけないでしょうか?」
小さな紙袋を差し出されて、グレッグと呼ばれた男性は怪訝な表情を浮かべた。
「甘いものは、お嫌いだとおっしゃっていたので……」
「あ……ああ」
未だに理解が追い付いていない様子だが、グレッグは紙袋に手を伸ばす。
「その……お口に合わなければ、捨てていただいて結構ですから」
「え……これはもしかして、ミーシャが作ったのか?」
白魚のような指先に包帯が巻き付いていることに視線が向き、ミーシャは恥ずかしそうに顔を赤らめる。貴族令嬢が料理をすることは稀だ。
だが婚約者に手作りのものを渡すのは相手への好意を示すことになり、刺繡入りのハンカチや編み物などを贈るのが一般的だ。
「ええ、もし気に入ってくださったなら、お茶会にご招待してもよろしいですか?」
「俺との茶会より、そいつや友人たちといたほうが楽しそうだったじゃないか?」
少し拗ねたような口調で、ティアナは状況を察した。婚約者の女性が他の相手を想っていると嫉妬していたのだろう。
「そんなこと――!緊張してしまっていただけですわ。友人と好きな人は違い――っ、いえ婚約者、婚約者ですわ」
真っ赤になった頬を両手で押さえ、俯く女性にティアナは内心鼻白んだ。
(素直に言えば可愛げがあるのに……)
だからこそ自分のような可憐な令嬢が引き立つのだが。
「甘いものでも何でも構わない。ミーシャとの時間を過ごせるなら」
同じく顔を赤くしたグレッグがそう告げると、周囲から小さな歓声が沸き上がる。お祝いムードの中で、にこにことした表情を浮かべたまま騎士のような男性がそっと下がろうとしていた。
(これやチャンスかもしれないわ)
本命はマーカス殿下とシルヴァン侯爵令息だが、騎士役の男性にちやほやされるのも悪くない。
声を掛けようとした時、背後から厳しい声が上がった。
【マーカス】
第三王子ともなれば、期待されない存在だ。幼い頃から王太子として育てられ、責任感が強く優秀な長兄、その兄を支えるべく武芸を修め次期騎士団長として部下からの信頼も厚い次兄、少し年の離れた三男であるマーカスは兄二人に比べれば自由に育てられた。
姫であれば他国との関係強化のため嫁入りなど価値があるが、婿入りの場合はあまり旨味もない。国内では余計な権力を与えかねないので慎重に婿入り先を選ぶ必要があるし、成人して臣籍降下して領地に引きこもるのが一番迷惑をかけないだろう。
とはいえ家族の仲は良好で、長兄とは7歳、次兄とは5歳離れているせいか可愛がってもらっており、いつまで経っても幼い末っ子として扱われている。
甘やかされているばかりの立場に不満はなく、ぬるま湯の環境の中でマーカスは勉強や武芸よりも芸術にのめり込んだ。
絵画や骨董などの美術品から演劇や音楽に至るまで、五感で美しさを感じさせる芸術はマーカスの人生を彩り豊かにするものだった。
貴族の嫡男であれば放蕩息子と叱り飛ばされそうな趣味だが、下手に嫉妬や野心を抱かれるよりよほど良いと鷹揚に受け止められている。母である王妃と趣味も似ていて、二人で語り合うこともしばしばだ。
そんな母の妹が嫁いだ公爵家の次男であるシルヴァンは、歩く芸術品のような端整な顔立ちで初めて会ったときは天使かと思った。そんなシルヴァンにマーカスが懐くのは当然で、本人は嫌そうだったが、親戚であり家格差も妥当だということで友人として付き合うようになった。
少なくともマーカスの認識ではそうだったのだが、シルヴァンは生まれつき生真面目な性格だったらしく、友人のはずがいつの間にか周囲からお目付け役として認知されるようになっていた。生まれた日付が先とはいえ同い年なのにまるで兄のような――いや市井で聞いたオカン属性という言葉がぴったりな男なのだ。
いつの間にか、マーカスが手に負えない時はシルヴァンを呼ぶのが使用人や護衛たちの間の共通認識になっていると知った時には、流石に驚いた。
「マーカス殿下」
呼ぶ声のトーンで小言を言われるのだと分かり、にっこりと笑いかけてみるが、眉間の皺が深くなるだけだった。
「悪い子じゃなさそうだったよ?これから同じ学園に通う生徒の誼であれぐらい便宜を図っても良いのではないかな」
貴族の令嬢とは思えないほど苦労していることは簡単に分かった。痩せすぎだし、髪もボロボロで指先も荒れていたのだ。そんな可哀想な少女の願いにほんの少し手を貸しても許されるだろう。
「王族が気軽に便宜を図るものではありません。そんなことでは他の生徒に示しがつかなくなります」
「だから代わってくれたんだよね。ありがとう、シルヴァン」
実際に彼女が望むものを用意したのはシルヴァンで、マーカスは学園長に規則を確認しただけだ。尤も肯定の返事がもらえるよう誘導した際にはシルヴァンは渋面を浮かべていたが。
「彼女は……マーカス殿下のご友人になるには、少々難しいでしょう」
自分にも他人にも厳しいシルヴァンだが、根本的には優しい性格なのだ。予めマーカスが落胆しないように予防線を張ろうとする。
(あの子にも勘違いするなと言いながら世話を焼いていたし)
身なりが整っていないのは不敬だと侍女に風呂に入れるように命じ手入れをさせていたし、普段よりも多い軽食や茶菓子を振る舞っていた。恐縮した彼女が固辞すると、出したものを口にしないのは無作法だと押し付けていたのは、体調を気遣ってのことだ。
(関わり合いになりそうなのはシルヴァンのほうだと思うけどなあ……)
頑固で融通も利かず、女性にも冷淡だと評される従兄だが、不本意とはいえ一度手を貸した彼女のことを放っておかないだろう。彼女自身も王族や公爵家の恩恵にあやかろうとすり寄ってくる様子もなく、目的の物を手に入れた後はそれ以上何かを望むことはなかった。
真面目で厳しいからこそ、理不尽なことを嫌うし努力を続ける者を評価する。
明日からの学園生活を思い、マーカスは静かに笑みを浮かべたのだった。
結果的に言えば、セレス・リーン伯爵令嬢は退屈な日々を吹き飛ばしてしまうほど面白い子だった。
彼女が入学して1年、周囲もようやく彼女に慣れつつあったが、それでも一部の令嬢令息からは反発の声が途切れない。
しかし彼女が別の形の悪女を目指していたら、こんなものでは済まなかったと思うのだ。学生という身分であっても一定の礼節は必要だし、家名に泥を塗らないよう律しなければならない。それでも親の目が届かない環境は、どうしても自分に甘くなりがちだ。
「失礼いたします、シルヴァン先輩!」
「……すぐに行く」
「じゃあ僕も付いていこうかな。新入生が驚いているかもしれないからね」
露骨に顔を顰めたシルヴァンだが、マーカスがいたほうが場を収めやすくなるのも事実であるため、拒否する声は上がらなかった。
(シルヴァンも言葉が足りないところがあるからね。彼女は気にしないだろうけどさ)
そうしてマーカスはシルヴァンに続いて教室を後にしたのだった。
「セス・リーン!この騒ぎは何だ?」
シルヴァンの鋭い詰問口調を受けても、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「シルヴァン先輩、こんにちは。ほんのちょっぴりお節介を焼いただけですよ。可愛いお姫様のためにね」
ぱちりとウインクをする様に周囲の令嬢からは歓声が、令息たちからはブーイングが上がる。まっすぐな瞳に爽やかな笑み、癖のないアッシュグレーの髪は項に掛かる辺りで切り揃えられていて整った顔立ちがはっきりしている。何より彼女の心からの賛辞と誠実な態度に憧れる令嬢が後を絶たない。そんな婚約者の態度に焦りを覚え、悪女だと非難する令息も。
思春期特有の照れや矜持のせいで、婚約者と良好な関係を築けないことを認めるよりも誹謗中傷で彼女貶めることを選んだせいで、更に婚約者の心が離れてしまうという悪循環に陥っている。
「そもそもは、お前のその態度が原因だろう」
「可愛いお姫様たちには幸せになってほしいですからね」
溜息を吐くシルヴァンに、にこにこと答えるセス・リーンことセレス・リーン伯爵令嬢。男の格好で学園に通いたいと言われた時には疑問しか覚えなかったが、理由を聞いた時にはさらに分からなかった。なるべく他人を傷つけない悪女になりたいのなら、男装する必要があるのかと。
(とりあえず害はなさそうから許可したけど)
最初は珍妙な生き物を見るかのように遠巻きにされていたが、気にすることなく紳士的な態度で振る舞い、一人の女生徒を助けたことをきっかけに彼女への評価は徐々に変化していった。
名前と見た目の差異を減らすため、セスと男性名で呼ばれることを好み、それがまた令息たちの反発を煽ることになっても、本人はどこ吹く風だ。
シルヴァンが怒るのも心配する気持ちと令息たちからの敵愾心を削ぐことが半々といったところだろう。
「シルヴァン先輩、俺たちのことで巻き込んですみません。セス・リーン……悪女だなんて言って悪かったな」
決まり悪そうに頭を下げる令息に、マーカスは後で名前を調べさせようと思った。自分の非を認め謝罪できる貴族令息は案外少ない。矜持は持つべきだが、自尊心の高さは成長の妨げになる。有用な人材はいつだって貴重なのだ。
そういう意味でもセレス嬢はマーカスにとって愉快で貴重な存在だった。
「気にしないで。僕が悪女なのは本当だからね。また困ったことがあったらいつでもおいで、お姫様」
いつだって自分を受け入れてくれる頼れる存在に傾倒しないわけがない。嬉しそうな令嬢と複雑そうな令息を眺めつつ、ある令嬢に目が留まった。
プラチナブロンドの令嬢は一見可憐な見た目だが、憎悪の灯った視線をセレス嬢に向けている。
「シルヴァン様、姉がご迷惑をお掛けして申し訳ございません!」
散開の雰囲気に人が引き始めたタイミングで、目に涙を浮かべてその令嬢がシルヴァンの元に駆け寄っていく。
どうやら彼女がセレス嬢の妹、ティアナ・リーン嬢らしい。調査の結果、義母と妹に使用人扱いされていると判明したが、他家のことに口出しするのは王族といえども越権行為だ。
セレス嬢も自分の境遇をマーカスやシルヴァンに訴えることもなく、彼女は率先して悪女と呼ばれることを望み、セス・リーンとして溌剌と学園生活を送っていた。
だが妹の姿を見た彼女の瞳には諦観が宿り、いつもの飄々とした笑みがぎこちない。
「……セス・リーン、話がある」
冷ややかな一瞥をくれた後、シルヴァンはティアナ嬢を無視してセレス嬢に声を掛けた。名乗りもせず、不躾に名前を呼ぶ態度に苦言を呈するより、セレス嬢の様子を見てそちらを優先することにしたのだろう。
もちろんシルヴァンだってセレス嬢の実家での扱いを知っているし、何も出来ないことに苛立ちを覚えているようなのだ。
(僕には何も言わないけどね……)
迷うように瞳を彷徨わせるセレス嬢の行く手を阻むように、ティアナ嬢が割り込んだ。
「お姉様のことでこれ以上シルヴァン様を煩わせるわけにはいきませんわ。お姉様、どうかそのような恥ずかしい振る舞いは、もうお止めください」
「……うん、そうだね」
うっすらと口元に浮かんだ笑みには悪意があり、マーカスはそろそろ介入すべきかと思案したのだが――。
「セス様!まさか、男装をお辞めになるのですか?!」
「そんな、私たちの癒しが……!セス様のおかげで学園に通う楽しみができたというのに」
「シルヴァン先輩とセス様の尊いやり取りが失われてしまいますの……!?」
その場にいた令嬢たちの悲嘆と絶望の声が上がるほうが早かった。同時にそれを諫める令嬢たちの声も上がる。
「いいえ、たとえセス様が元のお姿に戻られるとしても、セス様はセス様だわ。これからもセス様は私たちの推しよ」
「おっしゃる通りですわ。服装が変わるだけで判断してはいけませんわね。心の目で見るのです」
そんな周囲の様子にセレス嬢は呆然とした表情を浮かべている。
「やり方に思うところがないわけじゃないが、お前に救われた令嬢もたくさんいる。だから堂々としていればいい」
淡々と、だがセス・リーンを肯定する言葉に、セレス嬢の瞳から涙がこぼれた。
【セレス】
今日が最後の日になると覚悟はしていた。一年間セス・リーンとして過ごした時間はあっという間だった。
お嬢様の希望を叶えつつ、母の願いどおりに他人を傷つけずに悪女になる。悩んだ末に、男性を誑かすのは駄目なら女性はどうだろうと考えたのが始まりだった。
令嬢を誑かしても男性とは違い、お互いの名誉は護られる。婚約者同士の時間を奪ってしまうのは心苦しいが、その分令嬢には心を尽くして接することにした。
かつて一度だけ観た舞台で、執事役と騎士役の男性の振る舞いを参考にしながら。
最初は相手にされなかったが、そのうち少し変わっているが悪い人じゃなさそうだという空気に変わり、令嬢たちと交流を持てるようになった。
そんな中で婚約者との関係が上手くいかないという悩みをよく聞くようになり、その関係改善の手伝いをしようと思ったのは罪滅ぼしからくる行動だった。
もちろん受け入れられずに不快感を示されたり、何か企んでいると深読みされることもあったが、成功して仲睦まじい姿を見ると優しい気持ちになれた。
思えば先代の伯爵夫妻が亡くなってから、誰かに感謝されることなどなかったから。
苦言を呈しながらも面倒見の良いシルヴァン侯爵令息は、いつの間にか先輩呼びを許され、マーカス殿下が時々お腹を抱えながら笑っている様子を目撃したり、愛らしい令嬢たちと食事をしたり、随分贅沢な時間を過ごしたと思う。
「楽しかったですね……」
感傷に浸りながら、セレスは学園では最後までセス・リーンとして振る舞おうと決めた。
(それなのに……泣いてしまうなんて……)
お嬢様が止めろといったなら、もう終わりのはずだった。だけどセス・リーンを惜しむ声が上がり、更にはセレス自身を認めてくれるような発言に胸がいっぱいになったところに、シルヴァン先輩がいつもより優しい声で肯定してくれたから、感情が溢れてしまったのだ。
「……お姉様、そんな風に他人の気を引くのは良くないわ。今日はもう帰りましょう」
ぐいっと掴まれた手に抗うこともなく、セレスは歩き出した。令嬢たちの、シルヴァンの言葉を聞いてもう十分だと思えたのだ。
「お父様、お母様、聞いてくださいませ!」
屋敷に着くなり切々と訴えるティアナの言葉に、伯爵と奥様の表情が大きく歪む。そのままの格好で戻ってきたので、最初は何事かと眉を顰めていたが、今はそこに怒りがくっきりと浮かんでいる。
「養ってやったのに、この恩知らずが!」
衝撃に備えてぐっと奥歯を噛みしめた時、大きくドアが開いた。
「何を――」
「大変です!第三王子殿下がいらっしゃいました!」
真っ青な顔をした執事の声に、屋敷内は混乱に陥った。
「やあ、突然の訪問で済まないね」
にこにこしたマーカス殿下の正面に伯爵、奥様、ティアナとセレスが並んでいる。本来であれば同席できる立場ではないが、第三王子の要望とあっては断れない。
「セレス嬢の制服のことだけど、もしかしてリーン伯爵は知らなかったんじゃないかと思ってね」
「お、お見苦しい姿を晒しましたこと、心よりお詫び申し上げます」
「いや、僕が許可したんだよ。演劇を学びたいという話だったから、僕も興味があってね」
微妙に事実と異なる話に、セレスはどうしたものかと頭を抱えた。どんな理由があろうともリーン伯爵家の名に泥を塗ったことには変わらない。そもそもマーカス殿下とは時折顔を合わせることはあっても、決して親しい間柄ではない。それなのにどうしてここまでやってきたのかが分からないのだ。
「は、さようでございますか。いえ、ティアナから教えられて私どもも驚いていたところでございまして。セレスが演劇を……」
「僕は芸術に関することなら何でも好きだからね。セレス嬢は素晴らしい才能の持ち主だ。母も興味を示している」
ぎょっと目をむいたのは伯爵だけでなく、セレスもだった。
「お、王妃殿下まで……。いえ、その光栄ですな」
「リーン伯爵には伝えておこうと思ってね。さて、そろそろ失礼するよ。セレス嬢は馬車を貸してあげるから、一度学園に戻るといい。忘れ物をしたままだろう?」
何のことだろうと聞ける雰囲気ではなく、伯爵に追い出されるように部屋から出された。マーカス殿下の馬車とは別の馬車に乗り込んだところ、シルヴァン先輩が座っていて動きを止めるが、小声で早く乗るよう催促されて、座席に腰を下ろした。
「話があると言ったのに、勝手に帰る奴がいるか」
「あ……申し訳ございません」
お嬢様の命令を優先させてしまったが、侯爵令息の言葉を無視する結果になってしまった。
「セス・リーン、マーカス殿下はお前の悪女という配役を気に入っている。リーン伯爵に告げた以上、学園に通う間セス・リーンでいることは可能だろう」
「……!」
王妃殿下が興味を示しているという言葉が衝撃過ぎて、それ以外のことが頭から吹き飛んでいたが、シルヴァン先輩の言う通りだった。マーカス殿下が興味を示し、お褒めの言葉をいただいたのに、それを取りやめればマーカス殿下の意向に背くことになる。
「私は、まだ僕のままでいられるんですね……」
「それでも限定的なものだ。お前は学園を卒業後、どうするつもりだ?」
卒業後の進路まで心配してくれるなんて、シルヴァン先輩は善人過ぎる。新品の制服を譲ってくれただけでなく、その後も何かと気を遣ってもらっていたのに。
「できれば何処かに就職したいですね。使用人の仕事は一通りできますし、市井で働きながら役者を目指してみるのも、ありかもしれません」
かつて抱いた夢を明るい口調で並べてみたが、シルヴァン先輩の眉間の皺は深くなるばかり。
(もしかして、気づいているのでしょうか?)
伯爵夫妻に認められていないとはいえ、書類上セレスはリーン伯爵家の長女だ。何かしらの政略に使うつもりで学園に通わせたのだと思っている。だが男装する令嬢など外聞は悪く、将来的には売り飛ばされるのだろうなとセレスは予測していた。
ただ追い出されるだけでは何の利益もなく、奥様達も不満に思うだろう。
「………困ったときは言え。助けてやる」
「十分助けていただいています。いつもありがとうございます、シルヴァン先輩」
諦めていたはずの、セス・リーンとしての学園生活が延長されたのだ。これ以上望むのは罰が当たるだろう。
翌日、いつもよりにやにやとした笑みを浮かべたマーカス殿下に忘れ物の話を聞かれて、馬車での会話を答えたところ、何故か驚いたように目を丸くした後、爆笑された。
「シルヴァンって意外とヘタレ~。しかも君も無自覚だし、長期戦になりそうだね」
どういうことだろうと頭を捻っていると、そわそわとこちらを窺うお姫様ににこっと微笑むと小さな歓声が上がり、低いブーイングが上がる。
(またシルヴァン先輩に叱られるかな……)
自然に口の端が上がっていくことに気づかないまま、今日もセス・リーンは可愛いお姫様たちの元へ向かうのだった。
連載版もありかなと考えています。ご希望の場合はぜひお知らせいただければ幸いです。




