なんでもない夕暮れの。
ある日、俺は天使を見た。これはシミリでもメタファーでもない。いや、確かに、俺の目に映る彼女の容姿は、天使と比喩しても差支えがないほどに可愛らしくもあり、なおかつ、天使と形容するには幾分か大人びた風貌をしている。
肩まで伸びた艶やかな黒髪。優しくなだらかな曲線を描いて垂れている大きな目。世の男性の庇護欲を掻き立てるような小さめの体軀。
要するに羞月閉花で、実は幻影か何かであって、存在していないのではと錯覚してしまうほどに、彼女は美しく儚かった。
斜陽差し込む仄暗い教室でぽつりと佇む彼女の姿は、幻想的な絵画じみていて、美術館に展示すれば人々が立ち止まってしまうほどに引き込まれる魔力があった。
そんな経験は生まれてこの方、初めてのことだった。
しかしそんな美しい彼女にはいつか疑問点がある。
彼女はここで何をしているのだろうか。土曜日の高校の教室。誰もいない教室に用なんてあるのだろうか。
彼女を見たところ、何をするでもなく机の上に膝を抱えてちょこんと座り、ぼんやりと空を眺めている。一体全体何のためにここにいるのか。
そして服装。いくら休日で授業がないとはいえ、真っ白なノースリーブワンピースを着ての登校はいささか問題がある。さらに彼女は靴を履いていなかった。靴下もだ。乳白色をした素足が艶めかしく伸びているところを拝むことができる。
最後に、彼女の背中からは一対二翼の混じりけのない純白の大きな翼が生えている。腕よりも長く大きな翼だ。
そう、その類い稀な容姿と大きな翼。俺が先程、彼女のことを天使と呼称したのはこれらが理由だ。
今日俺は初めて天使というものに出会ったのだった。
だがしかし、冷静になって考えてみれば、この現代に天使が存在するわけがない。
俺は無神論者であり、天国や地獄、輪廻転生などを信じていない。なら、人は死んだらどこへ行くのか……。死ぬまでは明らかにならないし、死人に訊くこともできないので考えるだけ無駄だ。
そんなことよりも、俺は初め、彼女のその学校にそぐわない姿をコスプレと疑ってみた。が、今日はハロウィンでもなければ文化祭の日でもない。クリスマスでも正月でもバレンタインですらない。
今日は六月一日。一年の内で祝日や連休イベントが存在しなければ、特段何かあるわけでもない月。年の折り返し地点だというのに、何の労いもなくあまつさえ梅雨に入り、じめじめむしむしとする憂鬱な三十日間だ。
そんな何でもない、何にもない月に、一体彼女は何故そのような格好をしているのか。
そうか……演劇部か。演劇部の衣装なのか。
着替えもせずにこんなところまで何しに来たのか?
俺はただ、金曜にした忘れ物を、土曜日の部活帰りのついでに取りにきただけなのだが、興味本位で彼女に話しかけてみることにした。
「あの……」
彼女は、扉の前に立っていた俺に気付き、おもむろに体ごと向き直る。目が合うと彼女の容姿にいっそう引き込まれてしまう。
我を忘れてしまいそうな感覚を追い払い、まずは名前を訊くことにした。
「君は……誰、でしょうか?」
声を出してから、年上か下かの判断を下せていないことに気がついて中途半端な言葉遣いになってしまった。それでも気分を損ねた風な態度を彼女からは感じ取れなかった。
「あなたこそ、だれ?」
彼女は聞き返してきた。とても綺麗な声だった。もしかしたら本当に天使なのかもしれないと、心が揺らいでしまった。
気を取り直し、確かに自分から名乗るべきだったか。しかし、彼女は警戒心がなさそうに見える。俺を怪しんでの問いではなく、純粋な好奇心によるものだったのかもしれない。
隠す必要もないので俺は簡単に自己紹介をする。
「俺はここのクラス、三年H組の生徒だ。ちょっと忘れ物を取りに寄ったんだが……君は、どうしてこんなところでコスプレを? 同じクラスメイトじゃないよな?」
「こすぷれ……?」
彼女は頭上にはてなを浮かべた。
「コスプレはコスプレだ。コスチュームプレイの略称だ」
なんだかコスチュームプレイと聞くといかがわしい行為を想像してしまうが、れっきとした正式名称だ。
「今の君のような恰好。天使の姿を模して、何をやっているか気になったから」
「模してって……私、本物なんだけどな……」
顔ごと逸らしてぽそりと呟く彼女。
なるほど……徹底して役にのめり込むタイプなのか。俺だって中学生の頃は、右目に宿っていた膨大な闇の力を封印するべく眼帯をしていたし、左腕に宿っていた火炎龍の力が暴走しないために包帯を巻いていた。彼女も過去の俺と似通っている部分があるのだろう。
すると彼女は人差し指を上げて微笑みながら言った。
「何をしていたか、という質問にはこう答えようか。私は散歩をしていた」
「休日に学校を散歩とは……随分変わった趣味をお持ちで」
天使のコスプレをしながら、という点も含めて変わっている。
「というか、君は演劇部なのか?」
「えんげきぶ……とは何かな?」
声が出なかった。見た目十五歳は超えているであろう少女は演劇部を知らなかったのだ。というか、演劇部を知らないとは一体どういう生活をしてきたらそうなるのか甚だ疑問である。
「えっと……それじゃあ……そもそも君はこの学校の生徒なのか?」
「いや、違うね」
「だとしたらここで散歩をするのは良くないな。学校関係者以外、立ち入り禁止だから誰かに見つかったら面倒なことになるぞ」
「ふぅん……面倒。それは嫌だね」
「だろ? じゃあ、早く敷地外に出た方がいいな。今なら人が少ないから抜け出しやすいぞ」
助言を与え、学校からの脱出を促してみた。
彼女と話してみて、おそらく、やんちゃな箱入り娘が抜け出してここに迷い込んでしまったと勝手に推測を立ててみた。
だが待て学校に迷い込んで教室まで入ってくるということは、俺の学校はセキュリティシステムが相当甘いことを意味する。それに誰も彼女を引き留めなかった、もしくは誰にも会わなかったことにもなる。
二年以上もここに在籍しているが、大丈夫なのか?
俺が思考している最中、彼女は言った。
「でも、私はまだここにいることにするよ」
そして、
「スリルを楽しみたいからね」
煽情的な微笑みを浮かべる。
「スリル……そんなの感じなくていいよ。とりあえず安全第一でここから脱出してくれ」
「スリルを感じなくていいって、なんで?」
首を傾げて彼女は問うた。
「なんでって……それは、リスクを被ってほしくないからだ。君が俺以外の誰かに見つかったら、最悪の場合、不審者及び不法侵入者として警察が呼ばれる」
流石にネガティブシンキングが過ぎたか? ただ、万が一の場合がある。彼女には悪意がなさそうだから、悪人扱いを受けてほしくない。
「なるほどリスクが怖いか……。でも、それが楽しいんじゃん」
楽しいとはつまり、彼女はマゾヒストなのだろうか。生憎、俺にはそういった趣味は無いので彼女のことを理解できそうになかった。
「ドキドキするようなシチュエーションがないと退屈だよ。今日だって、暇だったから下界に降りて来たんだよ」
「そんな簡単に天国と現世は往来できるのか?」
彼女が天国に住んでいるのかは定かではないが。
「いやそんなことよりも、本当に早めに抜け出したほうがいい。もう夕日が落ちかけているし、君のために言っているんだ」
どうにかして彼女を説得しようと試みるも俺の思い通りにはならないどころか、彼女は小さく溜息を吐いて呆れ顔をおもてに表した。
「あなたの人生ってつまらなそうだね」
遽然として少し癪に障る言い方をされてしまった。
心なしか彼女の目が弱い者を憐れむような、慈しむような温かいものへと変わった。
しかし、なんだか俺の生き方を否定された感覚があり、その温かさが逆に突き刺さる。なので俺は黙っていられなかった。
「つまらないんじゃない、フラットなんだ。プラスの要素がなければマイナスの要素もない。そんな平穏、穏やかで、ゆったりとした生活が結局は一番なんだよ」
「……? それがつまらないんじゃ……? 起伏がない人生なんて退屈で退屈で仕方ないじゃん」
俺は眉を顰めて、思わず強く反論してしまう。
「だから、その起伏が煩わしいだろ。例えプラスの出来事が起きても、やがてゼロになってしまえば差はマイナスになる。そんなことになってしまうくらいなら初めから何もなければいい」
何もしなければ、何も起こらない。何も起こらなければ、何も変わらない。変化が一様に良い方向へシフトするとは限らない。
リスクが少しでもあるのなら行わないのが吉だ。変化がないということは、マイナスもないということなのだ。
「ふぅん……じゃあ……どうして私に話しかけてきたの?」
「え?」
意図が汲み取れない質問に、思わず声が漏れてしまう。それでも俺は偽りなく答える。
「それは……君のことが気になったからだ」
言うと彼女はニヤリと口角を上げた。
「ほら、結局あなたは新しいことを欲している。刺激が欲しくて好奇心に身を任せたんだ」
勝ち誇ったかのように見下ろしながら解説し始める彼女なのだが、俺は理解ができずに首をかしげてしまった。
「どういうことだ?」
「フラットがいいなら、私に話しかけないよね」
挑発的な笑みを浮かべたまま俺を見据えると、乳白色の艶やかな脚をブラブラと振った。
「あなたは自分では気づいていないだけで、刺激を求めているんだよ。本当に平坦な人生を送りたいのなら、ロボットにでもなって工場で働いたらいいよ」
俺は何も言葉にできず立ち尽くしてしまう。反駁ができないということは、納得を意味するのだろうか……。
「いい退屈しのぎになったよ。ありがとね」
机の上に立ち上がった彼女は大きく伸びをする。心なしか後ろの翼も彼女と呼応するようにピクリと動いた気がした。
「あっ」
急に彼女が廊下の方を指さした。反射的にそちらへ顔を向けてしまう。しかし数秒目を凝らして何かを探したものの、誰も、何もなかった。
「なんだよとつぜ……」
振り返ると、もうそこに彼女はいなかった。音もなく跡形もなく、まるで最初からいなかったように姿が消えていた。
だが俺は足を動かさずに、彼女がいたであろう机をしばらく見続けた。
女性は少し不思議があった方が魅力的というものだ。いや、本当のところは非現実を目の当たりにして動けなくなっているのだろう。
彼女は本当に天使だったのか、今となっては知る術はないが、彼女との一瞬の会話は確かに記憶に残っている。
また会えたらと、胸の内に秘めて、窓の向こう側の眩しい夕日を眺める。