藍い手(あおい て)
覗いてはいけない。
けれど、見てしまうのが人間で――触れられてしまうのが、夏の夜です。
今宵の物語は、井戸の底に伸びてくる、藍い手の記憶。
忘れたはずの“感触”が、あなたにも残っているかもしれません。
祖母の家には、使われなくなった古い井戸がある。
木の蓋がかぶせられ、苔むした石垣に囲まれた、もう誰も寄りつかない場所。
その井戸には、ある言い伝えがあった。
――真夏の夜、水面を覗くと“藍い手”が現れる。
――その手に触れられたら、二度と日光の下に出られなくなる。
僕がその井戸を見たのは、小学生の夏だった。
親の里帰りで訪れた祖母の家は、昼でも薄暗く、虫の鳴き声がやたらと響いていた。
ある晩、眠れずに縁側に出ると、庭先がふわりと青白く光っていた。
なぜか導かれるように、草をかき分けて井戸の前まで行った。
風が止まり、虫の音が途切れた。
井戸の木蓋が、開いていた。
中を覗いたとき――水面が、青く光っていた。
その中に、“手”が浮かんでいた。
水の底から、まるで空に向かって伸びてくるように。
細く、長く、肌が異様に白く――いや、“藍色”だった。
「誰……?」
声が出た。
その瞬間、手が伸びた。
僕は後ろに転げ落ち、夢中で家の中へ駆け戻った。
その日から、右手の甲に薄い痣ができた。
水を触ると冷たさより先に、なぜか“痛み”を感じるようになった。
翌年、祖母が亡くなり、家は取り壊された。
けれど、大人になった今も、右手の痣は消えないままだ。
そして、先日――古い写真整理をしていた母が、ふとつぶやいた。
「あなたが昔、熱を出してうなされた夜……手首、なにかで掴まれてたみたいに赤くなってたのよ」
あの井戸はもう、この世にない。
けれど、今もたまに夢に見る。
水面の中から、誰かが手を差しのべてくる。
その手が、藍く染まっているのは――僕の右手と、同じ色だ。
手のひらは、触れたものを覚えています。
痛みも、温度も、そして“誰かの手”も。
それがどこから伸びてきたのか、もう確かめることはできません。
けれど、今日も水の底には――手を伸ばして待っている者が、いるのです。