沈む村
湖の底には、いまも“沈んだ村”が眠っているといいます。
けれど――ある夜だけ、その村が水面に浮かび上がるとしたら。
今宵お届けするのは、祭囃子と共に現れる幻の村の物語。
『水怪譚』第四話、「沈む村」。
歩き出すその一歩が、戻れない道かもしれません。
山奥のダム湖。その底には、かつて小さな集落があった。
立ち退きと共に沈んだ村の名前は、今では誰も覚えていない。
その夜、僕は登山の帰り道、道を間違えてダムの下流へ降りてしまった。
木々の間からわずかに湖面が覗き、風にさざ波が立っている。
汗と泥にまみれた身体を冷やすため、水際に腰を下ろした。
ヒグラシの声が遠ざかる頃、ふと視界の端に“明かり”が灯った。
気づくと、湖の中央に――村が、あった。
屋根が見える。鳥居が立っている。かすかに太鼓の音まで響いていた。
「……嘘だろ」
立ち上がると、足元の草がしっとりと濡れていた。
いつのまにか、湖面すれすれの場所に立っていた。
気づけば、道ができていた。石畳が、水面を縫うように伸びている。
誘われるように、僕は足を踏み出した。
村は、懐かしい匂いがした。
藁の香り、炭火の煙、遠くで焼き鳥を売る屋台の声。
提灯が揺れ、浴衣姿の子どもたちが走っている。
僕は祭に紛れ、気づけば神社の前にいた。
境内には人が集まり、ゆっくりと拍手が打たれた。
その時、僕の肩を誰かが叩いた。
「おかえりなさい」
振り向くと、老いた神主が立っていた。
その顔は見覚えがないのに、なぜか“帰ってきた”ような気がした。
「今年も、来てくれて嬉しいよ」
手渡された杯には、澄んだ水が注がれていた。
月がその水面を照らすと――一瞬、何かが映った。
濁った目。沈んだ顔。水の底からこちらを見上げる“誰か”。
目を閉じ、もう一度開けると――そこには何もなかった。
祭も、灯りも、村も、すべて消えていた。
月だけが高く浮かび、冷たい風が頬を撫でていった。
朝、捜索隊に発見された僕は、湖の中洲で一人倒れていたらしい。
けれど、誰もそんな場所に村などなかったという。
その年のダムは、記録的な渇水で水位が大きく下がった。
湖底に、鳥居のような石の柱が並んでいたのが見つかったという。
そこに刻まれていたのは、誰も読めない古い文字。
そして、その中央にひとつ――僕の靴だけが置かれていた。
村は、確かにそこにありました。笑い声も、光も、匂いも。
でも、朝が来たとき――すべては水の底に沈んでいました。
もしどこかで、道の先に“見覚えのない村”が現れたなら。
それは、あなたの“帰る場所”なのかもしれません。