溜め池の約束
夏の夕暮れ、ふと昔の約束を思い出すことがあります。
子どもの頃の、あの笑顔。あの声。あの言葉。
でももし、その約束の相手が――もうこの世にいなかったとしたら。
『水怪譚』第三話、「溜め池の約束」。
忘れかけていた誰かが、今もあなたを待っているかもしれません。
幼い頃、夏になるたびに遊びに行っていた祖母の家があった。
田んぼとあぜ道に囲まれた小さな村で、近くにはいつも濁った水をたたえた溜め池があった。
そこには、毎年一緒に遊ぶ女の子がいた。
同い年で、髪の長い、よく笑う子だった。
「また、来年も会おうね」
その年の夏、私はそう言って村を離れた。
だけど、翌年からその子は姿を見せなくなった。
名前も思い出せない。ただ、溜め池の前で笑っていた顔だけが、どうしても頭に焼きついていた。
それから十年が経ち、私はふと思い立って祖母の家を訪れた。
変わらぬ田んぼ、ゆれる稲穂、草むらで鳴く虫の声。
あの頃のまま、時だけが取り残されていた。
夕暮れ、ふらりと溜め池へ足を運ぶ。
薄暗い水面が、風に揺れている。
あぜ道に腰を下ろし、何気なく目を閉じたその時だった。
――ぱしゃん。
水音がした。
反射的に顔を上げると、対岸に誰かが立っていた。
白いワンピースに、濡れたように重たく垂れた黒髪。
細い手を胸の前で組み、こちらを見ていた。
見覚えがある。あの笑顔。
「……約束、覚えてたんだね」
女の子は小さくそう言って、微笑んだ。
私は、言葉が出なかった。
十年の時を超えて、姿も変わらぬままの彼女がそこにいる。
だけど、風が吹いても髪はなびかず、足元の草も揺れなかった。
そこだけが、まるで“切り取られた”ように、静止していた。
「……今年も、来てくれてうれしい」
そう言って、彼女はゆっくりと片手を差し出した。
その手を、私は伸ばしかけた。
けれど、水面に目をやった瞬間、何かが背筋を冷やした。
――水に映っているのは、彼女ひとりではなかった。
池の奥。水底に、もう一人、私の姿が沈んでいた。
目を閉じて、手を伸ばしながら。
「ねえ、また――来年も、来てくれる?」
その声に、私は黙ってうなずいた。
夜、祖母に何気なく尋ねた。
「昔、この村で……子どもが水の事故で亡くなったこと、ある?」
祖母はしばらく黙ったあと、ぽつりと口を開いた。
「……あの池で、毎年ひとり、溺れるんだよ。約束を、守るためにな」
虫の音が、どこか遠くへ消えていった。
約束は、ときに鎖になります。
たとえ相手がこの世にいなくても――
いえ、いないからこそ、強く結ばれてしまうのかもしれません。
ひと夏の記憶の奥で、誰かがまだ、あなたを待っています。
来年も、会えると信じて。