しろ - 裏
呼ばれなくても、ちゃんと覚えている。
声が聞こえなくても、心は届いている。
今夜は、もうひとつの「ただいま」を届けにきた物語です。
帰れなかった誰かが、ようやく戻る夜のこと。
水の音がする。
ぴちゃ、ぴちゃ、と足音が鳴るたびに、わたしのからだが少し重くなる。
――また、帰れなかった。
ここは、あの子と歩いた小さな水路沿いの道。
夏の夕方、少し冷たい風と、田んぼのにおいと、一緒にいられた場所。
あの子は、わたしに「しろ」と名前をつけてくれた。
鈴のついた首輪も、まいにちのおやつも、お昼寝の毛布も、全部忘れずに覚えてる。
でも、わたしは帰り道がわからなくなってしまった。
あの夏、急に雨が降って、あの子とはぐれて――それから、ずっと。
ずっと、帰れなかった。
でも、不思議と悲しくはなかった。
毎年夏になると、あの子の気配がここに戻ってくるから。
わたしは、それを待っていた。
風が吹くたび、草が揺れるたび、たしかにあの子が近づいてくる。
そして今年の夏。
ようやく、あの子が一人で戻ってきた。
大きくなって、背も高くなって、でも目の色は変わってなかった。
わたしは、声を出せないけれど、足音で気づいてほしかった。
ぴちゃ、ぴちゃ、と、水たまりの中を歩いていった。
あの子は気づいた。目が合った。
ゆっくりとしゃがんで、昔と同じように名前を呼んだ。
――「しろ……?」
それだけで、もう充分だった。
わたしは、あの子の足もとで水をはじいて、一歩だけ――顔をすり寄せた。
ありがとうって言いたくて。
次の朝、あの子が玄関を開けたとき。
古びた、赤い首輪がぽつんと置かれていた。
誰が置いたのかは、誰も知らない。
でも、あの子はそっとそれを胸にしまった。
これで、ようやく帰れる。
わたしの家は、あの子の胸の中に、ちゃんと残っていたから。
小さな手で撫でてくれたこと。名前を呼んでくれたこと。
それはずっと胸の奥で、あたたかく残っていました。
忘れられなかった想いが、やっと、家に帰ってこられたのです。