深さ二・五メートル
学校のプールには、もう使われていないはずなのに、水が残っている場所があります。
覗きこむと、底の深さが思ったより“深く”見えること、ありませんか?
今回の舞台は、誰も使わなくなった学校のプール。
その水の中に、今“いる”のはどちら側でしょうか。
うちの学校のプールは、9年前から使われていない。
事故があったとか、誰かが沈んだとか、いろんな噂が飛び交ったが、正式な記録は残っていない。
けれど、今も水だけはなぜか絶やされずに満ちていて、フェンスの隙間から中を覗くことができた。
部活帰りの夕方、僕はふと思い立ってプールの裏手から中に入った。
鉄製の扉はわずかに開いていた。鍵はかかっていなかった。
蝉の声の奥で、水が静かに呼吸していた。
風もないのに、水面がわずかにゆれていた。
監視台の上に登り、眺めてみた。
濁ってはいない。むしろ底まで透き通っていた。
そして、気づいてしまった。
――誰かが、プールの底で立っていた。
真ん中あたり。深さ2.5メートルの地点。
制服を着たまま、髪を揺らし、こちらをじっと見上げていた。
水面に泡も立たず、動きもしない。
なのに、確かに“生きている”と感じた。
僕は声も出せず、監視台から転がるように降りた。
次の日、誰にも話せないまま時間だけが過ぎた。
だが、それから奇妙なことが続いた。
水道をひねると、プールと同じ塩素の匂いがした。
シャワーの音が、時おり“水の中の呼吸音”に聞こえた。
夜、夢にあのプールが出てくる。
今度は自分が底に立っていて、上を誰かが覗いている。
その誰かの顔が、ぼんやりと……自分に似ていた。
もう、プールには行っていない。
でも放課後、たまに耳元で水音がする。
「……深いね」
そんな声が、まるで水の底から聞こえてくるようだ。
だから僕は、ふと思ってしまう。
――今、あの底に立っているのは、本当に“あっち側”なのだろうか。
覗きこんだつもりが、見上げられていた。
静かな水の底には、沈んだままの記憶と、代わりを待つ誰かがいます。
どうか今夜、水の音が聞こえてきたら――
それが「呼吸音」ではないことを祈ってください。