影映(かげうつし)
夕暮れの湖に、あなたは自分の顔を映したことがありますか?
空と水のあいだに浮かぶもう一人の自分。
もし、それが――“勝手に笑った”としたら。
今宵お届けするのは、水と影が交わる場所にまつわる小さな怪異譚。
その村では、夏の終わりに「水鏡祭」という奇妙な行事があった。
蝉が疲れたように鳴く夕暮れ時、村人たちは静かに湖へと向かい、一人ずつ水面を覗きこむ。
空は茜色に染まり、山の端から流れてくる涼しい風が、水面に細かなさざ波を立てていた。
言い伝えでは、「影が微笑んだ者は、幸福な来年を迎える」という。
私は、小学生の頃にこの村を出て、十数年ぶりに帰ってきた。両親の離婚で母方に引き取られた私にとって、この村はぼんやりした記憶の彼方だった。
それでも、あの祭だけは妙に印象に残っている。湖畔に並ぶ人々の顔はどこかこわばり、水面に映る“何か”と真剣に向き合っていたように見えたのだ。
村に着いたその夜、古びた縁側に腰を下ろしていると、藁草履の足音が砂利を踏んだ。
「明日、水鏡祭だよ。あんたも来なよ」
振り返ると、幼なじみの真里が立っていた。薄く汗をにじませた額と、風にそよぐ麦わら帽子。
けれど、懐かしさよりもどこか焦っているような眼差しが気になった。
そして翌日、私は湖のほとりに立っていた。
夕陽が山の稜線に沈みかけ、湖面には赤と金の揺らめきが映っていた。
どこからかヒグラシの声が響き、あたりには湿った苔と藻の匂いが立ちこめている。
村人たちは順番に湖へと進み、無言のまましゃがみこみ、水面を見つめては立ち去っていく。
やがて私の番が来た。
湖はまるで鏡のように穏やかで、私の姿がくっきりと映っている。
私は、膝をついて水面を覗きこんだ。
――その時だった。
水面の“私”が、ふっと微笑んだ。
だが、私は笑っていなかった。唇も、目元も、そのままだった。
「……え?」
胸の奥が、氷を落とされたように冷たくなる。
“影”が、勝手に笑った。
私の知らない、私がそこにいた。
「帰りなさい」
後ろから真里の声がした。
振り向くと、彼女はまっすぐ私を見つめていた。
「……来年は、来ない方がいい」
そう言って、真里は唇をぎゅっと噛んだ。
夕陽の光の中で、その瞳が濡れているように見えた。
数日後、私は東京に戻った。
けれど――それからというもの、鏡を見るたびに妙な違和感があった。
洗面所の鏡に映る自分の目が、ほんの少し他人のように感じられる。
ある朝、歯を磨いていると、鏡の“私”の動きが一瞬だけ遅れた。
その一瞬で、心の奥がざらりと剥がれ落ちた気がした。
――あの湖で、“何か”と入れ替わったのだ。
何と? 誰と? わからない。
けれど、確かなことがひとつある。
私はもう、元の私ではない。
水面に映った影が、今の私の体を持って生きている。
それが幸福かどうか――それは、来年になれば、わかるのだろう。
湖面に映る姿は、本当に“あなた”ですか?
それとも、長いあいだずっと――向こう側からこちらを見ていた“何か”かもしれません。
影が笑ったら、振り返ってはいけません。
……また来年、お会いできることを祈って。






