過去と今の楔
イソギンチャク顔の異形が、大我の手によってその生命活動を停止した。
悠然と立ち上がった化け物駆除の当事者、黒瀬大我は両手を化け物の血液で血塗れにしていた。
「終わった…のよね?」
「ああ。もう少しでな」
みやこは彼の言わんとしていることがいまいち理解できず、ふと自身の足元に視線を移した。
異形を構成する、樹木のような体表からまき散らされた体液。それの出どころは無論、異形のイソギンチャクであり、飴色の血液としか言えないソレの、鼻腔をつく独特の発酵臭と色彩が科学準備室の中央から空間を満たして行く。
彼女は口元を押さえつつ、気分の悪さを隠せず顔を顰めてしまう。
「視覚的な影響もあると思うけど、やっぱり生き物の匂いって感じがするわ」
破壊の限りを尽くされ、死骸となった化け物を視界に収めたみやこは、その死骸の異変にすぐさま気づかされる。
「どうなってるの…?」
「見ての通りだ。いつもこうなる」
異形の死骸が、一秒を経るごとに風化していっているのだ。死した直後の異形の体温が奪われるより早く、砂粒よりも軽そうな、文字通りの『塵』と化して行く。
大我の指先から手首まで、べったりと付着していた筈の化け物の血液も、どうやらこの風化現象により彼の両手からも完全に取り払われた様だった。
その光景を見ていたみやこは、やがて完全に異形だったモノが塵に帰り、血の一滴すら残さず消え去ったことを認めて話を切り出す。
「黒瀬君。色々と聞きたいことが出来たわ」
「そうだろうとも。だが、俺の知っている情報を全て話すには間を置きたい」
「どうしてよ?」
「風間さん。君はこの奇怪な事態に巻き込まれはしたものの、こうして無事に生還できた。さっきも言ったな? よく洞察して、これからの事を考えて欲しいと。頭の中の情報を整理して、それでもと思えたなら改めて連絡をくれ」
大我は戦闘によって乱れた制服を綺麗に正してから、懐から最新式のスマートフォンを取り出して画面をずい、とみやこに向けてくる。液晶には、『黒瀬大我』『メールアドレスxxxxxxx@xxx.xxx』『電話番号 xxx-xxxx-xxxx』といった彼の連絡先が映し出されている。
「と、登録するわ」
「ああ。そういう事だから、今日はここで解散しよう。そろそろ人払いが解かれて、この校舎にも生徒や教員が戻ってくる」
何やら気になることをつらつらと語っている大我であったが、みやこは現在彼の連絡先を登録していて殆どを聞き逃している。彼女が自身の連絡先諸々を登録し終えたところで、彼はスマートフォンを懐にしまい直して彼女を横切った。
「それじゃあ、また明日から宜しく、風間さん。今からは普通の転校生と、そいつに連絡先を押し付けられた、只のクラスメイトだ」
言うだけ言って、大我はみやこを科学準備室に置き去りの体でその場を去って行った。まず間違いなく下校したと考えられるが、彼女はそんな彼の対応に恣意的な部分を感じていた。
「わざとね、アレは。危険が無くなったからって、そそくさと帰るなんて。あと、幾ら言葉が足りなくても、目や表情に出ちゃってるし」
あからさま過ぎて、遠回しに気遣われている事に気付いてしまうくらいである。言外に彼は示しているのだ。
このまま何事も無かった。何も起きなかったし、見なかった事にできる。時間を置くから、悪い事は言わないから、そのまま日常に戻れ。と。
彼が先ほど呟いていた内容は聞き逃したが、彼が去り際に見せた顔と眼差しだけは見逃さなかった。
(すれ違った時の黒瀬君は凄く、悲しそうで、けれど優しい眼をしてた。表情は、そう…少しだけ笑ってた)
みやこはあの眼差しと表情をして、『不器用な笑み』と形容するのだろうと考える。
この世界では当たり前とされてきた数多の行方不明者。それに深い関わりを持つとされる異形の怪物。
(恐らく黒瀬君も、過去に異形が起こした行方不明事件に第三者として出くわしたんだ。だから)
全く同じ経験をした相手への、惻隠の情。
それを湛えた彼が、微かに浮かべる笑みに混ざった深い哀しみをも、彼女は読み取ってしまっていた。みやこは学校を出て家に帰ってからも、別れ際に大我が見せた心の淡く儚い部分を、頭から切り離すことは出来なかった。
風間みやこに先んじて榛葉学園を後にした黒瀬大我は、異形が消えて行く際に決まって目にする『人払い』が終わり、自身の出て行った校舎へ人が戻り始める景色を眺めながら帰路についていた。
(前回に続き、今回も何とか犠牲者を出さずに済んだ。この街に来てから、奴等が動き出す予兆をより鋭敏に知覚できる様になった。いつ頃からだろうか? 初めの内は、それこそ木っ端じみた、小さく弱い相手にも生き残れるよう足掻くので精一杯だったな…)
風間みやこと共にイソギンチャク顔の異形と交戦して、彼の中には過去の、自身が異形を追う様になったばかりの頃を一つずつ思い返していた。
(少しでも役に立てばと、身体を鍛え始めてもう七年になる。奴等を追って方々を渡り始めてから丁度三年。曲がりなりにも異形を駆除できる様になってからは二年が経っている。そして―)
大我はじっと自分の掌を見つめ、確かめる仕草で拳を強く握っては開いてを繰り返した。
不自然さは感じない。むしろ馴染み過ぎているくらいだと、今の自分の身に起こっている事について再び思考を巡らせる。
(肉体の異変に気付いたのは十六の時だったな。微々たる変化だったが、アレには流石に焦ったのを覚えている)
それは、大我が十六歳になってからの変化に関わる事である。
彼が別の県、市内で矮小な異形を感知し、その駆除にあたった。その頃より自身の腕力や持久力、頑丈さが向上してきている事に気付き始めた二年前の冬。
その日の大我は、発見し対峙した異形を危なげなく葬り、間借りしていたアパートに戻る。二階の角に位置する自身の部屋に入ろうとドアノブを握った時、それは起こった。
金属製のドアノブからは聞こえようも無い筈の、めきりと軋み何かが砕けた音と、ぐにゃりとした柔らかな感触。普段は落ち着き払った彼も瞠目し手元を確認すると、手にかけたドアノブがひしゃげ根本の部品から何からが壊れてしまっていた。
その事態を大我自身が引き起こしたのは明らかだった。掌の中に収まったドアノブを、慌てて放し、一歩たじろいだ瞬間に次なる事件が起こる。後方に凄まじい勢いがついて、慣性のまま飛びずさってしまったのだ。自分の片足に僅かにかけた力で体ごと後ろに吹き飛び、ぶつかった硬い感触を確かめると、内と外を隔てるアパートの壁に自分の背中の痕跡がくっきりと残っていた。
二年前のこの出来事が、身体の変化への疑念を決定的なものにした。その後はまた別の意味で大変だった事を彼は思い出す。
すぐさまアパートの管理人にアポイントメントを取り、修理費用を負担すると告げた時の、電話越しの管理人の怪訝な反応と言ったらこの先も忘れられない記憶であろう。
壊れたドアノブと砕けた部品を玄関先で打ち捨てたまま、考えるのも億劫になって、その日はこれ以上物を壊すまいと電気もつけず壁にも手を触れず、亀の歩みの如く摺り足でベッドへ潜り込んだ。
明くる日の朝、昨日の続きとばかりに小さな事件が頻発する。
起き抜けに水を飲もうと冷蔵庫を慎重に開け、ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を摘んでみたら、加減を間違えてポリエチレン材質のボトルを捩じ切る。
水浸しになった床をへこませない様に何とか拭き上げて、いざ朝食をと冷蔵庫から卵を取り出したら握り潰してしまう。
このままでは、フライパンもドアノブの二の舞だと朝食は諦めて、再び慎重に慎重を重ねて浴室に入ってシャワーを浴びた。今度こそはと、バスタオルで背中を拭こうと両手で引っ張ればあわや引き裂いてしまう。
他にも色々と失敗続きであったが、慣れる頃には実に一週間もの期間が経過していた。
大我は肉体の急激な変化の原因を、黒瀬家の財を投じて調査し研究しようとも考えた。しかし、何かしら思い当たる節が無いかとこれまでの行動を遡った結果、最初に身体の違和感を感じたのは、自身が異形を追い始めてから最初の一体を命懸けで駆除した翌日からだと気がついた。
『化け物を殺したからレベルアップした』。と仮定すれば聞こえは良い。大我は、『向こう側の存在に関わり倒した事で、自分にも何らかの力が働いて引っ張られているのではないか?』という考えに至っていた。
オカルトじみた結論だったが、実際にあのような存在を追い立て駆除しようと言うのだから、それも充分にオカルトだと彼は自己完結に留めた。
(これを果たして成長と呼ぶのか、変異と呼ぶのか。何にせよ)
彼にとって都合の良い現象なのは確かであった。今後、例え如何なる代償を支払う事になっても、歩みを止めることは無いのだから。
「風間さんはどうするのか。俺としては、共感を得られるだけでも良かったんだが」
結局は、自分が今になって理解者の存在を求めた末の、エゴでしかないと大我は自嘲しながら、取り戻した僅かな日常を眺めるしか出来なかった。
一方、風間みやこは帰路に着いてからも、自分がどうすべきかの答えを出しあぐねていた。お陰で帰ってからも上の空。彼女の日課である剣術道場での稽古にも身が入っていないのは分かっている。
みやこの父が経営する道場に通う、多くの門下生からすればいつも通りに見えていたのだが、彼女の実父『風間桐太郎』にも、みやこの普段は見られない様子を具に見抜いていた。
その日の稽古が終わり、門下生が軒並み帰った頃。時刻にして20時37分、みやこは道場に祀られた神棚の前で引き続き思案していると、父、桐太郎が現れる。
「なにか、悩み事があるみたいだね?」
「お父さん…うん、ちょっとね」
みやこの父、桐太郎は物腰の柔らかな人物だった。
みやこの母、桐太郎の妻『たまき』が行方不明となってからも、折れる事なく『風間一刀流剣術道場』を盛り立てながら、幼いみやこを決しておざなりにせず精一杯育ててきた。
みやこはそんな父の芯の強さ、誠実さと優しさを心から尊敬している。その父に対してさえ、彼女は何を話すべきかを言い淀んでしまう。
(今日、黒瀬君と一緒に出会した化け物のこと。行方不明になったお母さんのこと。正直、話したい事は沢山ある。だけど)
何から切り出せば良いか。内容を信じて貰えるかは、常日頃から彼女に真剣に取り合ってくれる父であっても難しいものばかりである。
とはいえ、声をかけてくれる父に誤魔化しや嘘を言えるほど、みやこは父の細やかな気遣いを無視できる性格ではなかった。
「お父さんは…」
「うん?」
「いなくなったお母さんの事…どう思ってるの?」
至って真剣に問いかけてきたみやこへ、桐太郎は僅かに陰のある表情を浮かべ、暫しの間考え込んでいた。本心を隠して茶化すでもなく、失った悲しみを泣き言や恨み言で返してくるでもなく。桐太郎は緩やかな口調で語り始める。
「そうだね…。本音を言うと、今でも悲しいよ。そう珍しい事じゃないってのは、分かってる。だけどね…僕は、今でも時折思ってしまうんだ。ああ、此処にたまきが居てくれたら、お母さんが今も変わらず居てくれたなら…。僕たちは、どんなに幸せだったろうかと」
みやこには、父がそう答えるだろう事は大凡の見当がついていた。だからこそ、彼女の胸中にはやりきれない思いが去来する。
「お父さん…」
「ははは! 何を言ってるんだろうね、僕は。もう随分前のことなのに。それでも…なんて、ふと考えてしまう時がある。いつもなら、稽古に励んでいれば頭の隅に置けるのに。みやこが、お母さんに似てきたからかな? 昔を思い出して、柄にもなくセンチになったのかも」
寂しそうに、それでも今の生活がある事を認めた上で、寂しいと言って不器用に桐太郎は微笑んでみせた。悲しみを覆い隠すような父の姿に、みやこの中で異形の存在に対する怒りが燻り始める。
本来あった筈の未来を奪われた。それを疑問にも思わない事を、当たり前の過去にしてしまう存在。
校舎で塵となって消えた異形の存在に、不気味さや恐怖を超えた、冷たい感情。
(確かめるまでも無いことだったのかもしれない。失った事を悲しんでも、どうして突然…なんて疑問はおろか原因を探す機会すら奪われる。今日、黒瀬君に会うまでの私も、きっとそうだった。お父さんの話を聞いて、確信した)
みやこはその場から立ち上がり、ばちんと自らの頬をはたいて喝を入れる。それを見た桐太郎は面食らっているが、彼女は呆けている父へ向かって高らかに告げた。
「ありがとう、お父さん! お母さんの事、お父さんがどう思ってるか、聞けて良かった! 私はもう大丈夫。お陰で、悩みごとにはケリが着きそう!」
「そ、そうかい? はは! 何だかよく分からないけど、みやこがいつも通りに戻ってくれたみたいで、安心したよ」
彼女の中で、これからの事が決まった。それは決意であり、目標であり、この先に待ち受けるだろう苦難への挑戦であった。
(これ以上、自分たちと同じ苦しみを負う人を作らせない。もう決めたわ。私も、私の全身全霊で立ち向かってやる! その為に先ずは、黒瀬君からもっと詳しい話を聞かないと!)
頭の中にかかった靄が晴れる気分を味わいながら、明日には黒瀬大我との接触に向けてしっかりと準備をしておこうと、みやこは奮起するのだった。
「それと、みやこ」
「どうしたの、お父さん」
「真面目な話の後で悪いんだけれど…お父さんそろそろ、夕飯が食べたいなぁ…と」
「……あ」
明日の黒瀬大我への返事の前に、父の言う通り夕飯を用意せねばと、彼女が大慌てで道場を飛び出したのは、夜の21時を回ってからのことだった。