蹂躙
どろりとした、纏わりつく様な粘ついた気配が濃くなっている。周囲は無音。静けさに比例して、扉の先の違和感と不快感が一秒ごとに増していた。
「聞いておくが」
「どうしたの?」
「もうじきに、気配が最も高まる瞬間が来る。俺はヤツが現れた後、ある程度の情報が分かり次第駆除しにかかるつもりだ。風間さんは?」
そう言われれば、と。みやこは前後の状況に適応するのに精一杯で、この後どうするかなど頭になかったことに気づいた。
(でも実際どうしようか…? ここにはお父さんの道場みたく実剣もなければ竹刀も持ってきてない。まさか自分の昔の記憶を思い出したり、この後彼の言うヤツ? とかってのと一戦交えるなんて)
「と、とりあえず…邪魔にならないようにするわ!」
「分かった。いきなりどうすると言われても、確かに困る。であれば風間さんは先ず、心の準備だけしておいて欲しい。パニックに陥ったり、遮二無二突っ込んだりするのだけは避けてくれ」
(いや、でも黒瀬君はこれから突入するって言ってなかった!? そりゃあ私と違って、慣れてるのかもしれないけどさ? これがマヨちゃんの言ってた、『おまいう』ってやつなの!?)
「最後に一つ」
「うん」
「これから相手にするモノを、よく見ておくんだ。どんな奴が行方不明事件に関わっているのか。自分の日常を壊した存在の一端を、深く洞察してからこれからの事を考えて欲しい」
至極真剣な物言いの大我に対して、みやこはそれほどの相手がこの先に待ち受けていることを予感する。この異質な状況が、みやこに対してこれ以上大きな動揺を誘わなかったのは、彼の並々ならぬ覚悟を感じ取れたからかもしれない。
扉の向こうから発せられる気配は、大我の言う通り重く大きくなっていった。
何かに気づいた大我は、右手で隣のみやこを制しつつ左手で扉の取手に手をかけ、ゆっくりと、扉を開く。
「ひっ」
彼女の眼前に佇むソレは、これまで見てきたどの動植物にも似ており、また似て非なる存在だった。
樹木のような質感の身体と、全身に刻まれた深い皺。大型鳥類に似た形状の足が支えるのは、でっぷりとした丸い胴体と枯れ木のような二本の腕。掌の先には指と見られる部位が無く、代わりに湾曲した鋭利な鉤爪が生えていた。
みやこが短い悲鳴をあげたのは、列挙される特徴のいずれにでもない。ソレの持つ頭部が、最大の理由だった。
ソレの頭部は差し詰め、海で見られる様な『イソギンチャク』としか形容できない姿形をしていた。
首と見られる部分から先に、鼻や耳は存在していない。眼球と思われる部位は左右二つあり、遠目から見れば樹木から飛び出た琥珀の塊にも似ている。
その目玉らしき器官は淡い明滅を繰り返しながらぎょろぎょろと周囲を観察し始める。
やがてみやこと大我を捉えると、二人を注意深く上から下へ視線を動かしながら何事かを呟きだした。
「#M'@kgw.'/am?」
「コイツが…」
頭の中が沸騰しそうな状況を、みやこは必死に堪えていた。母を隠し、父を悲しませ、思い出したばかりの記憶から湧き上がる怒りに苛まれている。そんな今の自分を作り出したモノが、この異形の化け物だとまざまざと見せつけられていた。
「死ね」
彼女の懊悩を切り裂いたのは、鋭い殺気を放ちながら突進した大我の声だった。
彼我の距離は凡そ5メートル。教室の入り口から異形の立つ中心へひと息に迫る。その背中に、彼女は場違いな感想だとは思いつつも、素直に感嘆していた。
地機に倒れる様な予備動作から、そのエネルギーを活かして軸足に力を込め、標的に急接近する独特の歩法。
何処かの師より学んだものか、はたまた独学か、異形に肉薄する大我の動きにみやこは見覚えがあった。その名は、
(縮地法!? とはいえ素手で、こんなヤツ相手に有効打なんて―」
次の瞬間、みやこの大我に対する見立ては未だ甘かった事を知る。
刹那の間に空気を突き破る様な、炸裂音がみやこの耳朶に響いた。
彼女はなんとか視認していた。大我の顎先が地に着きそうなほどに低く、且つ素早い踏み込みから繰り出された、天を衝かんばかりに高く真っ直ぐに放たれた右足を。
まるで四足歩行の獣が、獲物に喰らいつかんとする姿を想起させる、正確かつ強烈な一撃であった。
イソギンチャク顔の異形の首筋を捉えた彼のサイドキックが、推定2メートル強はある図体のバケモノを空中へ打ち上げる。
徒手近接格闘において、最も打撃力の高いとされる蹴り技。それも一般的な横から横への、水平運動のサイドキックではない、水底から現れる魚影の如き、ほぼ垂直と言って良い蹴り上げじみた変則サイドキック。
「an/'x.h@/÷!?」
それを受けた直後、何事かを呟きながら宙を舞うイソギンチャク顔の異形は、首を起点に身体が九の字に折れ曲がる程の衝撃を与えられる。一秒にも満たない高速の初撃がクリーンヒットし、大我は宙へ浮いたバケモノに対して、すかさず二撃目を敢行する。
「フン―ッッ!!」
此処でもみやこは限り限りの反応速度で大我の動きを追えていた。下腹に力が入った、空気を震わせる掛け声と同時に彼の左拳が爆ぜる。
蹴りに使った右脚を更なる踏み込みに使い、軸足となった左脚を引き絞る挙動と共に放った左拳が異形の腹部中央を痛烈に貫く。
二撃目の被弾にはもはや呻き声も出さず、イソギンチャクの顔を備えた異形は窓際の壁へと叩きつけられた。
(変則キックから、空手の逆突きのコンビネーション…っていうか! 中腰姿勢から前掛かりの左ストレートなんて。いや、そうじゃなくて!)
みやこの脳内は目の前の光景に半ば混乱させられていた。
正確には、入ってくる情報が多すぎる為に処理し切れなくなっている。一先ず冷静になろうと、二度三度と深呼吸をしてから、彼女は改めて状況を整理することにした。
(あのイソギンチャク、軽くジャンプするだけでも、教室の天井に頭をぶつけそうなくらいの大きさだわ。少なくともあの体格と腹周り、それを支える駝鳥みたいなゴツい両脚からして体重150キロ…ううん、下手したら200キロは超えてるかも? そんな相手を壁にめり込むほど吹っ飛ばすなんて…! 黒瀬君、どんな馬鹿力なのよ!?)
黒瀬大我の素性など、今日知り合ったばかりの彼女には知る由もない。しかし、それを置いても常人を遥かに超えた身体能力を発揮している事は一目瞭然である。そして自分達が対峙する異形の存在。みやこはこれらの要素から、事が始まる直前まで滾っていただろう激情を、言い知れぬ興奮に挿げ替えられていた。
(あのイソギンチャクが現れる予兆? みたいなのがあってから、校舎の中も外もやけに静かね。黒瀬君は、化け物が原因で行方不明者が生まれているような言い方をしてた。だとしたら、イソギンチャクは最初から狙った獲物のすぐ近くに現れたことに―)
「…来るか」
「え!?」
殴り飛ばされ、叩きつけられ、教室の壁が損壊する程のダメージを受けたにも関わらず、イソギンチャク顔の異形は緩々と立ち上がる。
「p''ja/&nfy」
異形の発する言葉の意味は相変わらず分からなかったが、大我とみやこはイソギンチャク顔が徐ろにとった首を傾げる動きとぎょろりと自分たちを交互に観察する視線の意味を直感的に理解していた。
「やはりそうか…狙いは君だ。風間さん」
みやこの心臓の鼓動がどくんと跳ね上がる。
如何なる生物なのかは勿論、独立した個体なのか。種族単位での同じモノがどれだけいるのか、社会性や独自の文明は持ち合わせているのか。
分からないことだらけの、文字通り未知の捕食者が自分を狙って現れたのだと知り、みやこの胸中にはそうだったのかという驚きと、そうだろうという納得が複雑にも混在していた。
「…っ!」
「大丈夫だ」
そう言って、黒瀬大我はみやこを庇う様に一歩前に出て異形との距離を詰めた。
これといった構えも取らず、徒手空拳ながら泰然として立つ青年に、みやこは異形からの不気味な威圧を跳ね除ける程度の安心を得られていた。気迫の乗った彼の声が異形の化け物へ投げかけられる。
「来い、鉤爪デブ。お前のその悪趣味な顔と同じに、全身を丁寧に引き裂いてやる」
「h_?kg¥=,!!」
これまで言葉が通じなかった筈の異形が、大我の挑発に俄かに反応した。口とも触手ともつかない器官から何某かを叫び、のっしりとした身体に似つかわしくない強靭な両脚で接近してくる。
先の意趣返しのつもりか、イソギンチャク顔は大我の取った縮地法に迫る速度と低姿勢から両手の鉤爪を振り上げた。
「所詮は猿真似だな。使い手に同じ方法で攻撃して、真面に当たるわけが無いだろう」
斜め下方向から迫る三対二本の鉤爪は、僅かに右手側から早く交差する形で大我の胴体、胸、首元にかけてを掻き切るように振り抜かれる。
喰らえば即死のソレを、彼は事も無げに異形の左側面に踏み込んで回避。追撃する左の鉤爪は、勢いが乗るより前に彼の右脚が異形の肘部分を押し止める形で弾かれた。
(上手い…! でもその体制じゃ引き手になった右の鉤爪を避けられない!)
みやこが懸念した通り、異形の眼球が嘲笑うように明滅し、再度腰に据えられた右手の鉤爪が大我の腹部を刺し貫かんとし撃ち出された。彼はその致命の一撃を、
(うそ!?)
「e#j!?」
あろう事か身体を支えていた左脚で、再度異形の右肘を止めたばかりか、足掛けにしたその右肘を踏み台にして両足で太ましく発達した首を挟み込む。
彼はそのまま、俗に言うバク転、後方倒立回転の動きに右方向への捻りを加えた首投げへ移行した。
「あれはまさか、フランケンシュタイナー…!」
通常、両足大腿部で首を固めて投げるプロレス技『フランケンシュタイナー』。大我は自身を大きく上回る体躯の異形を相手に、両足首をフルに使って異形の首を捻りながら締め上げ、バック宙の反動で再び浮き上がった化け物の顔面を地面へ叩きつけた。
「w&j! %《^,!?」
大我の攻撃は、脊椎動物にとって共通の急所となる首の骨に、多大な負荷をかける打撃や投げ技を選択していた。
相手も二足歩行とはいえ、明らかに規格の違う生物相手にも怯まず執拗な急所への連撃。
3メートル近い体格を意に介さず、技の極めに入る際も自身が潰されない様に回転をかけ、安全地帯と威力の底上げを達成してみせた。これにはさしもの異形の化け物であっても、ダメージを隠し切れないからか、立ち上がる素振りもなく悶絶の声をあげている。
高速の接近から二度に渡る鉤爪を躱され、首、腹部、首と身体の正中線を狙った攻撃を立て続けに見舞われたイソギンチャク顔の化け物。
その躯体は小刻みに痙攣しており、異形の姿を無視すれば余りに一方的で無惨な有り様である。
その元凶たる黒瀬大我はと言うと、フランケンシュタイナーの直撃を認めた後、むくりと立ち上がる。彼は間を置かず、うつ伏せに倒れる異形の樹木に似た質感と皺まみれの背中に飛び乗った。
両膝で異形の両腕を押さえ付け、抵抗を許さないといった体で大我が両手を手刀の型に、肩から二の腕にかけて背筋を弓なりに引き絞る。
「言ったはずだ。丁寧に引き裂いてやるとな」
吐き捨てた言葉と共に、両の手刀が異形の肩甲骨と背骨と見られる突起の間を貫いた。
「gm#^×£――!?」
イソギンチャク顔の化け物は堪らず絶叫し、肉と皮を千切りながら大我の五指が侵入してくる痛みと感触を味わわされていた。
「うぐ…っ」
貫手を刺し込まれ、皮を裂かれ肉を削がれ、悲鳴を漏らし続けるイソギンチャク顔の異形。今まで体験したことのないショッキングな光景が広がる中、えずきながらソレを見ているみやこでも死を予感させる程の、血液と思しき液体を背中から撒き散らしている。
「〜〜〜〜〜!!」
結果論でしかないが、戦いですらない処刑が始まって既に数分が経過していた。それだけの時間を拷問とも呼べる手法で苦痛を与えられ、異形は既に声にもならない悲鳴をあげ、琥珀の如き眼球を一層大きく明滅させた。
「お前の声にもそろそろ飽きてきたな。いい加減くたばれ」
異形の体内に入っていた大我の手首が、内側へ捻じられ何かを掴む挙動で止まった。そして、
「°*|:hd,"―――!!!」
一際甲高い化け物の声の後、大我が異形の背の肉という肉を引き裂きながら、その生物だったモノの、背骨らしき物体を力付くで抜き取った。
ぐったりと力無く地面へ伏せった、イソギンチャク顔の異形の生物。事が終わってみれば、一方的な蹂躙の前になす術なくその生命活動を停止している。
風間みやこは、化け物が悉く大我に圧倒され、馬乗りにされ、激しい拷問の末に虫けらの様に扱われ死ぬまでの一部始終を、只管じっと見つめていた。