転校生と案内役
西暦2014年4月。神奈川県H市。『私立榛葉高校』。正式名称は私立榛葉学園高等学校という。
市を縦断する大きな川沿い近くの土地に建てられたこの学園は、今年で85年を迎える、高等学校の中ではそれなりに歴史の若い私立高校である。
創設者は芸能界に長らく通ずる一族の出で、自身の生まれた環境ゆえか、若い世代の特異な才能や技能を見つけ出し育てることを生きがいにしていたとのこと。
元々は大型福祉施設に用いられる予定であった建物が、完成を目前にしてそれを主導する団体の手から離れ、売りに出されたことを機に創設者がそれを購入・改築して開校された。
開校当初から、各界においても優れた教育者および人格者として知られていた創設者の、『若い才能を花開かせ、のびのびと育てる学び舎』と銘打った私立榛葉高校に、一般の家から政府要人の関係者に至るまで、非常に特徴的もしくは殊更に秀でた何らかの適正ありと認められた子供たちがこぞって入校したことが始まりであった。
それは2014年の今日に至るまで、校長が幾度と代替わりしても連綿と続いてきた最大の持ち味である。
その榛葉高校、または榛葉学園。近隣住民や榛葉学園に実際に通う若者の間では『シンガク』と称される学校に、一人の転校生が来ることとなったのだ。
彼の名前を『黒瀬 大我』。図らずも榛葉学園の創設者の時代から深い交流のあった、同じく資産家一族『黒瀬家』の長男が転校してくる。
これらの細かい情報までも知る学園関係者、生徒はごく僅かだったが、黒瀬大我本人の強い希望によって榛葉学園に迎えられることが決まった。
当代の学校長はこれを痛く喜び、本人から申し出の電話が直接なされた際には二つ返事で引き受けた。
そんな榛葉学園の内側で起こる事情を知ってか知らずか、一人の女子学生は現在、放課後の校内で、この黒瀬大我のせいで直面している一つのハプニングに頭を悩ませている。
「私に学校案内を任せるだなんて。普通そこは担任のマヨちゃん、じゃなくても教頭先生か、校長先生とか、そういう役割の人がするべきだと思うのよ。ね、君もそう思わない? 黒瀬君」
「……そうだな。君の言うとおりだ」
「……」
「………」
(え、おわり? 私なりに、かなりツッコんだフリだったのに、これで終わり!?)
そして沈黙の時が訪れる。
自身の横に並んで歩く黒瀬大我に話を振った在校生、『風間 みやこ』。榛葉学園の三年生。
実家が界隈では高名な剣術家であり、その一人娘として、自身も受け継いだ才能に努力を重ねて榛葉学園に入学を認められた。
高校受験の際のスポーツ推薦という枠の一つを、学園側の大本命という扱いで入学を果たし、去年の秋から剣道部のエースを務める事となった才媛である。
しかし、ここにきて彼女の剣道・剣術一筋の人生遍歴が完全に徒となっていた。
(わ、話題がないわ…。剣しか振ってこなかったから、友達はみんな剣道部か父さんの関係者ばかりで、こういう時何を話したら良いか全然わからない!)
そもそも彼女が黒瀬大我と歩いているのは学校案内なのだから、三年間の在校経験から学校について話せば良いのだ。
とはいえ彼女の悩みの中心たる黒瀬大我といえば、みやこに話を振られても『ああ』とか、『そうだな』など暖簾に腕押し。間違いなく適当に受け流されていた。
クラスでの自己紹介でも名前を名乗っただけ。クラスメイトからの質問も完全にシャットアウトするほどの、言うところの『話しかけるなオーラ』をたっぷりと振りまいていた。
その為に、みやこが学校案内の名目で話しかけるまでは、うんともすんともせず放課後まで引っ張られたのである。
通常ならここまですげなくされれば、いまだ十代の高校生、敢えて付け加えるなら、うら若い女子高生が愛想良くしようとしているのに、それら全てを右から左へと来れば腹の一つも立つところだ。
(ああ、どうしよう。さっきのフリが精いっぱいだったのに、またスルーだし。 でも後は剣のことくらいしか)
だが、この風間みやこ。生来良く言えば寛大、悪く言えばお人よしな性分であった。自分が困っているのにこの負のスパイラルから抜け出せないのは、幼少より実父とともに明け暮れる剣術修行で培った芯の強さも相まって、なかなか黒瀬大我に対する態度を無関心へとシフトできないことにも起因していた。
結局案内とは名ばかりの、お互いに無言で校舎を練り歩くという事態に手をこまねいている。
そこに一陣の風が駆け抜けた。実際に風が吹いたのではなく、彼女にとっては予想外の相手と場所から事態は進展する。
「風間さん」
「へっ?」
「違っていたらすまないが、君は剣道か剣術か、そうだな…。武道を嗜んでいるのか?」
「き」
(きたーーーーーーーーー!!! まさかの黒瀬君から、しかも剣道の話題!!! あ、しかも此処って)
みやこが思考に気を取られて無意識に歩いていたのは、自身が三年間通い続ける剣道部の練習場だった。練習場に掲げられた、達筆な筆さばきの『剣道場』という立札を見て、みやこは考える。
自分の反射的行動から、所属する部活動を黒瀬君が読み取ってくれた? いや、もしかしたら、彼も何か武道を齧っているのかもしれない。だって彼の歩幅は一定で、足音も殆ど聞こえず静かだった。そうだ! そうに違いない! 黒瀬君もまた私と同じで、何かしらの話題を探してくれていたに違いない! と。
「もしかして、黒瀬君もその、何かやってたりするの?」
「ああ。これと言って決まったものはないが、徒手格闘技全般をな。武器術も学ぼうかと考えていたから、少しは知識が」
「それは素晴らしい!」
みやこは興奮気味に食いついた。みやこは非常に前向きな気質もあってか、これまでの沈黙はこの話題に転換されるまでの大いなる伏線だったと考えてすらいたのだ。
実際は黒瀬大我も彼女と同じく、足運びや立ち振る舞いの僅かな所作から、彼女のステータスの一部を見抜いたのだが、みやこにとっては話題を広げる絶好の機会には変わらなかった。
しかも当の黒瀬大我からの話題提供。これを逃す手はないとばかりに、みやこは自身の持てる剣術知識と彼から齎した話題とを繋げようと口を開く。
「黒瀬くんも、剣術に興味があるの!? 好きな剣術家は? 上段中段下段どれが得意かな? 刀なら、いつの時代の刀工の作品が好き!?」
マシンガントークもかくやと捲し立てたみやこは、直後に我に帰り、大我から背を向けてしゃがみ込んでしまう。
そうして一歩も動かなくなって小刻みに震える彼女の姿に、大我は学園に来て初めて如何にすれば良いかといった素振りを見せた。
(やってしまった! 遂にきっかけを掴んだと思って一気に喋り過ぎてしまった…っ! 絶対変な奴だと思われた! いや、この学校にいる人はみんな一風変わったのが多いけども、それにしたって会話下手すぎて絶対に引かれた!?)
「その、風間さん」
「………はぃ」
「構えなら、ここはやはり基本と言われる中段が好みというか、重要だと思う。何事も基本が出来ていないと上手くはいかないものだ。それを踏まえて、基本が身に付いている前提なら、脇構えなどは相手から刀身を隠せるメリットも大きい。流石に本腰を入れて学んではいないから、好きな刀工や剣術家については答えられないが、種類で言えば定番の太刀や、それよりも前の南北朝時代の大太刀なんかは、時代背景を鑑みて、実戦向きな所やシンプルだが美しいと感じる見た目をしていると思うが。どうだろう?」
しゃがみ込んだみやこは大我の言葉から一転、きらきらと瞳を輝かせて彼に向き直る。自分のバッドコミュニケーションに対して真摯に答えてくれた事が余程嬉しかったのか、彼女の中での黒瀬大我の評価は一変していた。
「黒瀬君…! う、嬉しいわ! まさかこんな話にもちゃんと答えてくれるなんて、正直、全然思ってなくて! なんていうかもう、ありがとう!」
刀剣に関する話題であれば、黒瀬と同じ男子もその多くは好きな話のジャンルであろう。みやこにとっても男子剣道部員からは一つの話題として時折出される事はあったものの、しかして世間的には、美人の部類に入るみやこに対して、いきなりそういった話をするのはかなりハードルの高いものである。
そういった話は、男子剣道部や父の道場で休憩中や座学の一つとして、大人達が講釈してくれる以外には中々その機会には恵まれない。といった諸々の理由など、みやこは知る由も無かった。
黒瀬大我にしてみても、風間みやこというクラスメイトは充分に美人だと思える相手であった。
異性として、過剰に意識して見ているわけではない。事実として彼から見てもみやこは可愛いより綺麗、といった表現の人物なのだ。思春期の男子には、慣れるまでは話しかけるのに勇気が必要そうだとも言える。
背中にかかる程の長さ、癖のない手入れされた髪質。微かに茶色が混じっているのか、放課後の校舎に差した夕陽の光が彼女の髪を輝かせ、とても出来の良い写真か現代の美麗な人物画とも錯覚するほど、みやこの姿は様になっている。
目鼻立ちも、くどくない程度にはっきりとしており、背は160センチから165センチの間くらいと、女性としてはそれなりに高い。やや切れ長の目に反して、眼差しは真っ直ぐだが優しげで、裏表のなさそうな印象を黒瀬大我は好意的に受け取っていた。
女性のボディラインをじっくりと見定めるのは失礼にあたるので大我も流石に自重したが、剣術を学ぶ彼女は流し目からでも引き締まっていて、バランスよく出るところは出ている。
「なるほど。クラスの男子の視線の先に、君がよく居る訳だ」
「え、何か言った? 黒瀬君?」
みやこは大我の呟きが聞き取り難かったらしく、律儀に聞き返してきたが、なんでもないと言って大我は誤魔化す。良くも悪くも大らかさがある分、彼女はその手の事にも鈍いようで、同性のクラスメイトや友人は、場合によってそれなりに苦労していそうだ。と、大我はそこで彼女の容姿に関する思考を打ち切った。
「黒瀬君って、教室にいた時は分からなかったけど、意外と話し易い人なのかもね」
「そうか? ふむ、話しかけ辛い人間に見えていたのか」
大我の声の抑揚から、みやこは自分の言葉が悪い意味で伝わっていない事は感じ取れていた。
黒瀬大我は教室内で、ありありと『話しかけるなオーラ』を発していた。そう感じた事には、みやこが大我の容姿や僅かな表情の変化を、興味を惹かれてよく観察していたが故というのに、彼女自身も気付いてはいない。
みやこの視点からすると、黒瀬大我という人物は、暑苦しさを抱かない絶妙な精悍さを備えた、『良い面構えの男児』に映っていた。
学校の制服の上からでも分かる。均整の取れた彫刻のような身体バランスが放つ、ある種の美しさ。全身を余さず使う事に特化した筋肉のつき方に、自身の想像よりずっと優れた機能を発揮するだろう。と。
今年の夏には18歳となる風間みやこだが、いかんせん色恋沙汰にはとんと自覚もなく縁もなかった彼女。
さりとてそんなみやこから見ても、彼の無自覚に放つ近寄り難さと厳かな印象すら受ける身体の隆起。そこに乗っかる仏頂面だが良い顔立ちと、言葉から伝わる真摯さや若干の愛嬌。最後の部分を抜きにしても、みやこは改めて大我のことをモテそうだと評価する。
(さっきはテンパってて気にしてなかったけど、これは確かに、女子が熱のこもった視線を向ける訳よね)