第九話「砂被り姫の不慮の出会い」後編
ぎゅっと瞼を、何秒閉じていただろうか。
衝撃が来ない。瞼を閉じた寸前には振り上げられていた腕は、文官の子とは思えないくらいには太い。その拳が、振り下ろされない。
そっと目を開けた時、シュテサルの前に立ちふさがる、薄紫の髪が見えた。
「カイロ、さん……」
「な、なんだ貴様! この俺が、次期宮廷伯と知っての無礼か!」
拳を受け止め、押し込まれることなく立ちはだかる。
眼鏡の向こうに見える優しげな瞳と、線の細さから、荒事など一切関わったことなどないかのように思えた。少なくとも、喧嘩っ早い性格では決してない。
「申し訳ないが、あなたのことは全く知らない。ただ彼女は僕の同僚で、貴重な友人でもある。突然現れた男に殴らせる気はない」
「平民が、貴族に逆らうなどと……」
「彼女はこのアミーポーシュ領に住む人間だ。あなたがどこの誰だか知らないが、ここは男爵夫人の領土。夫人の領民に手を上げたとあれば、夫人に手を挙げたに等しい!」
ここにマドレーヌはいない。だが、彼女なら親友を庇うだろう。
カイロの言ったことは、まぎれもなくマドレーヌの意志を示していた。
「おかえりになられるといい。宮廷伯殿」
シュテサルは周囲を見渡す。自らに注がれる視線の数を、彼は理解した。ここでことを荒立てるのは得策ではない。多くの上級貴族にも顔が利く男爵夫人を敵に回すべきではない。彼の中に残った最後の理性が訴えた。
自分の拳を掴むカイロの手を振りほどくと、馬車に飛び乗って走り出す。
町人たちは、何事もなかったかのようにまた、それぞれの目的地へ歩き出した。
「宮廷伯か……マドレーヌ様より階級は上だけど、領地はないよな」
頭をかくカイロは、今の自分の行動を振り返る。勢いに乗って盾突いてしまったが、九割マドレーヌの威を借りた。後で送る書状には、発掘調査参加希望だけではなく、そのことも加えようと決める。
自分が招いた問題と、緊張からの解放で彼はため息をつく。
「じゃあ、そろそろ帰ろう――」
トン、と背中に衝撃が起きる。突き飛ばされるほどではなく、ただ、小突くように。
肩越しに見えるのは、額を背中に着けているのか、ロゼッタの頭頂部と、服を掴む彼女の手だった。
「あんなこと、マドレーヌさんの領内だからって、無茶しすぎです……」
「あー、うん。反論の余地はないかな」
「私が殴られればよかったんです。もう一発叩いてますから」
「それでも、さすがに無抵抗で受け止めようとするのは、止めさせてよ」
「私は、貴重な友人だったんですか?」
「……うん。初めて、僕とメイベリアンのことについて、一緒に考えてくれた人だから」
額を付けたまま、言葉を交わす。服を掴む力が、ぎゅっと強くなる。
「ありがとう、ございました。嬉しかったです」
「どういたしまして」
しばらく、彼女が離れるまではそっとしておいた。
ふとカイロが気づくと、目の前に服のかかったラックが並べられている。大通りで起きた乱闘未遂。その後始末を隠すように、商品が広げられ、二人の姿が隠されている。
振り返れば近くの老婆が何か言いたげに手を振って、店先の若い店員は腕を組んでニヤけている。
先ほどもそうだが、連帯感の強い街だった。
これもすべて、領主マドレーヌのなせる業なのだ。
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