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作者: 香月航

 筆頭公爵家の長女として生を受けたデライラは、何不自由することなく育ってきた。

 栄養のある食事、清潔な衣類、常に気を配ってくれる優秀な使用人たち。

 足りなかったものといえば、デライラを産んですぐに儚くなってしまった母からの愛情と、仕事が忙しくて滅多に顔を合わせることのない父からの関心だったが。

 最初から知らなければ、そんなものはなくとも生きていけるのだ。

 平和で、恵まれている、淡々とした日常。それは人々にとって憧憬の対象であり、決して悲観するようなものではなかった。


 そんなデライラの人生での最大の転機は、五歳の時に婚約者候補に指名された相手――この国の第一王子であるオスニエルとの縁だろう。

 初めこそギクシャクしていたものの、いざ話してみるとオスニエルとの時間は非常に心地よく、デライラの日常に彩りを与えてくれた。

 好きだと思うものはもちろん、嫌いだと思うものなんて使用人たちには絶対に伝えられなかったのに、オスニエルにだったら伝えられる。

 時にはお互いの愚痴大会になるような席もあり、デライラは初めて楽しいという感情を知った。

 もっと一緒にいたいと思うのも、愛おしいと思うのも、オスニエルが全部初めてだった。

 嬉しくて、幸せで――だから候補ではなく、彼の隣に相応しくあるようにと、明確な決意を持って妃教育に取り組んだ。

 彼もまた、そんなデライラの思いを受け取り、『自分もデライラに相応しい男になる』と約束してくれた。

 あの数年は、人生で一番幸せな時間だったと思える。


 十歳をすぎた頃から、妃教育はより難しいものになった。

 なんとかついていくことはできるものの、天才でもないデライラにはそれが精いっぱいで、置いていかれないよう寝る間を惜しんで勉強に励んだ。

 それは王子であるオスニエルも同様で。変わらず続いている交流の席では、もはや愚痴すら出ることもなく、互いに肩を寄せ合って仮眠をとる時間になってしまった。

 それでも、デライラは幸せだった。自分の前で寝顔を見せてくれるのは、彼が自分を信頼しているからに他ならない。

 いつか『あの頃はキツかったよね』と笑い合える日がくる。その時、自分たちの関係が主君と臣下ではなく〝夫婦〟であるように。

 そんな未来予想だけが、心の支えだった。


 ――それから時は経ち、デライラは間もなく十六歳の誕生日を迎える。

 この国の女性は十六で成人となり、貴族の生まれなら当然社交界デビューを考える年だ。

 生涯一度きりの記念すべき夜に、家族に伴われて参加するのと婚約者にエスコートされるのとでは全く意味合いが違ってくる。

 第一王子の婚約者も今年こそ決まるものとみて、デライラはその日を今か今かと待ちわびていた。

 だから、そう。その日、王城に……しかもオスニエル本人から直接招集されたデライラは、口に出さずとも期待していた。

 自分こそが、婚約者に選ばれたのではないかと。これからもずっと、彼の隣で生きていけるのではないかと。

 心を占めていたのは喜びの感情ばかりで、朗報を伝えられるものだと信じきっていたのだ。


「他の婚約者候補たちから、辞退の申し出を受けた。――君に、嫌がらせをされたからだと」

「…………え?」


 ――まさか、こんな報せを受けるとは、夢にも思わずに。


(わたくしが嫌がらせを? 一体何のお話なの?)


 もちろん、デライラには一切覚えがない。

 そもそも、彼女たちとはそれほど親しくもなく、せいぜい知人止まりの関係だった。

 一応恋敵として距離感を保っていたのもそうだが、最大の理由は妃教育だけでいっぱいいっぱいだったため、彼女たちと交流するような余裕がなかったのだ。


(でも、確か去年の誕生日に連名で大きな花束をいただいたわ。では、わたくし以外の候補者たちは、それなりに親交があったということかしら)


 いずれにしても、デライラの立場からすれば〝嵌められた〟としか言いようがない。

 彼はデライラに嫌がらせをするような余裕がないことを誰よりも知っているはず。何故こんなことを聞くのか、デライラにはわからなかった。


「わたくしは、何もしておりません。もし誤解を招くような出来事があったのでしたら、改めて詳しくお調べいただくしか……今は、お答えのしようがございません」

「……そうか」


 オスニエルは悲しげに眉を顰めると、視線を足元へと落とした。

 彼は疑っているのだ。デライラが彼女たちに嫌がらせをしたのだと。……デライラが〝そのようなことをする女〟だと思っている。


(どうして信じてくださらないの? あなたの妃を目指しているわたくしが、そのような卑劣なことをするはずがないのに!)


 それからデライラは、どうやって部屋を出たのか覚えていない。

 気がついたら王都の邸宅に帰ってきており、青ざめた顔色の執事が『旦那様がお呼びです』と自分を迎えに来ていた。


「……王城から、報せを受けた」


 果たして、父親と以前に顔を合わせたのはいつだっただろう。

 見覚えのない執務室の中、そういえばこんな容貌だった程度の記憶しかない男は、難しい表情を浮かべながらデライラに問いかけた。


「他家の娘たちに嫌がらせをして、辞退を促したと。……やったのか?」


 ――ああ、この人は。こういう時だけは行動が早いのだなと、悲しくなる。

 デライラがどれだけ頑張っても、どれだけ褒めてもらいたいと思っても、名を呼んでくれることすらなかったのに。


「いいえ。わたくしは何もしておりませんわ」

「……そうか。もう下がれ」


 親子らしからぬ温度のない会話を終えれば、デライラは早々に執務室から追い出された。

 私室へ戻ろうとすれば、いつもより多く使用人たちが随行してくる。

 ……監視されているのだとわかれば、なんだか無性に悲しくなった。


(わたくしは、何だったのだろう)


 目指したものは、最愛の人に誇れる妃。皆に祝福されて隣に立つことだけを夢見て、どれだけ辛くても頑張ってきた。

 頑張って、頑張って――結果、デライラに与えられたものは何だったのか。

 今はもう、わからない。何も考えたくなかった。


(……疲れてしまったわ)


 頭の芯がぼやけている。

 今すぐに眠りたい。そして、目覚めたくない。

 デライラは知っていた。少し長い布と、ドアノブが一つあれば、それでいいのだと。


 公爵令嬢デライラが、私室から出てくることは二度となかった。





 ――ある王子の証言。

「嘘だ……嘘だ、嘘だ!! 私は彼女を愛していたんだ。彼女と結婚するために、ただそのためだけに生きてきた! 障害を排除していただけなのに……どうして……何故私を置いていったんだ……どうして……」


 ――ある公爵の証言。

「私が追い詰めただと? 私はただ、事実を確認しただけだ!! 私の娘が、そんなふざけた真似をするはずがないと信じていたから、あの子が『否』と答える言葉を聞いた。どこにおかしな点がある? ……きっと誰かが、あの子によからぬ感情を植え付けたに違いない……誰だ、誰がやった!!」


 ――ある令嬢たちの証言。

「デライラ様から嫌がらせを受けたと証言したことですか? ええ、殿下に伝えましたわよ。わたくしたち全員で、〝交流の席で談笑しながら〟伝えましたわ」

「だってそうでしょう? わたくしたちとは、全員まとめて会うだけ。対してデライラ様とは、一対一ですごす時間を必ず作っていらっしゃった。これが特別扱い以外の何だと言うのですか、ふふっ」

「まあ、もともとわたくしたちは候補だったという箔付けのために在籍していただけですし、そもそもあの妃教育とやらに全くついていけませんでしたもの。デライラ様だけですわ」

「なので、全員で辞退を申し上げたのです。〝惚気という名の嫌がらせ〟はもう結構です、と」


「……え? デライラ様が亡くなった? うそ、どうして……どうして!?」


 ――ある教師たちの証言。

「デライラ様の妃教育ですか? はい、例年のものよりもだいぶ早く進めていたのは間違いありません」

「やはり若い方は飲み込みが早いですね。教え甲斐のある、素晴らしい生徒でした」

「……え? 他の教科もそうだったのですか? それは素晴らしい! 彼女が王子妃、ゆくゆくは王妃となる日が楽しみですね」


「……は? 逮捕? ま、待ってください! 何かの間違いでは!? 私たちはただ、優秀な生徒に授業をしていただけです! 待って、話を聞いてくれ!!」






 デライラが目覚めたのは、見覚えのある寝室だった。

 どことなく違和感を覚えるのは、最後に見たものよりも少し前の姿だからだろう。


「……わたくしは」


 ベッドから出て、室内を歩く。

 目線が低いと思ったら、どうも自分の体が縮んでいるらしい。

 姿見に映るのは、幼い頃の自分だった。


(これは夢かしら?)


 何にしても、デライラがデライラであることには変わりない。

 筆頭公爵家の娘として生を受け、王子の婚約者候補として名を連ねるデライラのままだ。


「……それは、もういいのよ。わたくしは、疲れたの。今はただ、わたくしであることを忘れて休みたい」


 もう一度ベッドに戻ろうかと思ったが、夢の中で眠るというのも変な行動だ。

 ならば、とデライラは窓をゆっくりと開いた。

 時刻は早朝なのだろう。美しい紫色の空を目に焼き付け、肌を刺す冷たい空気をお腹いっぱいに取り込んで。

 デライラは目を閉じた。




「ああ……そんな、どうして……デライラ、目を開けてくれ……こんな、こんなことがあってたまるものか……せっかく戻ってこられたのに……やり直せるはずだったのに……どうして……」

 早朝の屋敷に、人々の悲鳴のような泣き声が響く。

 愛情を伝えなかった王子も、親愛を教えなかった父も、一線を引いた使用人たちも。

 令嬢たちも、教師たちも、皆。覆せると信じた悲劇が、ずっと早く起こってしまったことに、ただただ涙を流し続ける。


『本人がやり直しを望んでいないのだから、仕方ないね。じゃあ、これから頑張って』


 そう確かに聞こえた声は、その後二度と応えることはなく。

 あとはただ、彼女のいなくなった新しい現実が続いていた。


作者は決して自殺を推奨してはおりません。

他の選択肢が見えなくなる前に、一度ゆっくり休んで考えられる時間をとってください。

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