鬼の駅
鬼の駅
別に、誰かの不興を買うとか、恨みを抱かれるとか、そんな生き方をした覚えはありませんでした。私はいつだって平穏に、極力人の迷惑にならないよう静かに、少しばかりの気遣いと我関せずの精神で暮らしてきたのです。幼少から今に至るまで、敵と呼べる人間は一人もいなかったし、万が一自分に害意を持つような人間が現れそうになった時は自分の方から距離を置いてきました。おかげさまで私の人生は今非常に安泰なのです。
そんな私ですが、今日は平凡な毎日を送る私にとってちょっとばかり良い刺激になった一日でした。
「今期の営業成績を発表しまーす! なんと、新人にしてベテラン勢に圧倒的大差をつけての契約件数トップを獲得しました、紗藤ケイさんです! 拍手を!」
これは久しぶりに嬉しかったですね!
私が勤める風間不動産販売は半年に一回、部署内で一番会社に利益をもたらした社員を表彰する文化がありました。私は普通に頑張っただけなのですが、思いのほか契約をとれていたらしく、まさかの一位に。
「いやぁ、ありがとうございます!」
流石に顔がにやけてしまいます。まぁ、昔から私はやればできる子でしたから。当然と言えば当然かもしれませんが!
皆の称賛の拍手がくすぐったく、いただいた表彰状は今までもらったどんな賞よりもいい紙を使っていました。
目立ちたくない私ですが、こんな形で目立つのなら悪くないものですね。そういうわけで、ゴキゲンな私は何か自分へのご褒美でも買おうかと、ちょっと浮かれ気分で帰宅の途についた訳です。
さて、駅につきました。
帰宅ラッシュよりは少し早い時間だったので、まだそこまで混んでいません。まばらに人がいます。私は空いている乗り場を探してホームを彷徨い歩くことにしました。
「やった、あそこは誰もいませんね」
ちょうど7番乗り場が無人です。実はここ、風間北駅の次に停まる風間中央駅がめちゃくちゃ込むのです。それまでに座れなければ私の家は終着ですから……それまでずっと立っていなければならないのは自明なのです。先頭をとることができたのはラッキーでした。
腕時計を確認。現在時刻17時40分。列車が来るのは50分です。
「あと10分か、意外と時間ありますね」
自販機でコーヒーでも買って飲もうかな。でも、その隙に先頭を誰かに取り返されそうで怖いですね。ここは黙って立って待っているのが無難でしょうか。
私が次の行動に迷っていると、突然構内アナウンスが入りました。
『お客様にお知らせします。風間北二番街駅で緊急停止ボタンが押されました』
風間北二番街はここの一個前の駅ですね。
『そのため、終着風上駅行き列車の到着が20分ほど遅れる見込みです。お急ぎのお客様には大変ご迷惑を――』
よし、コーヒー買って来ましょう。
私は財布を出しながら近くの自動販売機に歩いて行きました。
7番乗り場に戻ってきましたが、幸い私は先頭を陣取ることができました。とはいえ、そろそろ駅は込みだす時間帯です。もたもたしていたら座れなくなるところでした。
隣の乗り場にも人がちらほら。学生と思しき女性が二人、何やら話しているのが聞こえてきます。
「さっき隣の駅で人身事故あったらしいよ」
「へぇ、それで列車遅れてるの?」
「そうそう。まぁ、ぎりぎりで停止して助かったらしいけど」
二人はスマホを弄りながらそんな会話をしています。SNSは何でも教えてくれるってわけですか。恐らく今、彼女達のスマホ画面に隣の駅の近況がリアルタイムで流れてきているのでしょう。
「最近人身事故多くない?」
「何が?」
「風間北二番街」
「ああ……先月もあったよね。自殺の名所みたいになってるんじゃないの? ははは――」
確かに、先月は飛び込み自殺があったと風の噂で聞いた気がします。でも、日本全国で見たらあの駅が特別事故が多いという訳でもないと思います。私は学生時代からこの辺りの学校に通っていましたが、自殺の名所などと言う不名誉なあだ名で呼ばれていたことはなかったはずです。たまたま最近、人身事故が発生している。ただそれだけの事でしょう。
もっとも、私がよく使うこの風間北駅には、そういった暗い話が微塵もありません。駅と言えばよく、人ではない何かに背中を押されるだとか、足を掴まれてホームの下に引きずり降ろされるとか、そういう怪談で語られることもありますけど。実際ああいうの、眉唾だとしか思えなくて。馬鹿馬鹿しくて溜息出ちゃいますよ。
「幽霊とか……そんなのいたら今頃私死んでますよ」
ちょうど、掴みやすい位置に足首置いてるわけですからね。さっさと掴んで引きずりおろせばいいのに。
コーヒーを一口啜り、少しだけ身を乗り出します。ホームの下がよく見えるように。
ちょっと気になっちゃっただけです。実際、人の入るスペースはあるのかな、とか。物理的に入れるのなら生身の人間が隠れていて、ホームの下から手を伸ばしてくることもありそうです。
その時でした。私が自分の不注意を呪ったのは。
どん、と強い力で背中を押されたのを感じました。私がホーム下の観察なんかをしているから、絶好のチャンスとでも思ったのでしょうか。私は簡単にバランスを崩し、前のめりになってホームの中に落ちてしまいました。
「うっ! いたた……」
上から見ていただけでは分からなかった、思ったより高さがあったようです。
右足首を捻りました。痛くて力が入らない。
ハァ――ッ
ハァ――ッ
全力疾走でもしてきたのかという荒い息遣いが上の方から聞こえます。私が振り返り、ホームの上を見ると見知った女性が蒼白になって私を見下ろしているのが見えました。
「あなたは……!」
ええ、私の会社の先輩さんでした。
飯田君江、私の教育係でもある3つ年上の社員です。その形相、行く当てをなくした両手がおろおろと宙を彷徨っている感じ、間違いなく私の背中を押したのはこの女です。
「飯田さん! なんてことを!」
「あんたが、あんたが悪いのよ!」
何言ってるんですかコイツは。
悪いのは100%あなただ。
「本当なら今期の営業成績は私がトップのはずだった! あんたの教育で時間が取れなくて……ろくな営業ができなかったのよ! それであんたが賞を取るって? 納得できるわけないでしょうが!」
「ちっさ……」
「はぁ!?」
「いえ、別に」
常日頃から飯田先輩には思うところがありました。ヒステリーをお持ちで、時々癇癪を起して部下に当たる。仕事がうまくいかなかったときは決まって他人のせいだと考えて自分を鑑みない。そんな人でした。もともと営業成績だって中の下ですし、私がいようがいまいが彼女がトップになることはなかったでしょう。ええ、完全に妬み、僻み、やり場のない鬱憤が私に向けて爆発した。
いい迷惑です。はぁ……
「警察に言いますからね。もう会社で会うこともないでしょう。さようなら」
私が冷ややかな視線を持って切り捨てるようにそう言ったのが余計気に入らなかったのでしょう。飯田先輩は明確な殺意のこもった目で私を睨みつけてきました。
まぁ、裁かれるのは向こうなので何も怖くないですけどね。
さて、とりあえずこの状況、どうするべきか。
とりあえず私は手を伸ばしました。痛む足を鼓舞し、何とか背伸びしてホームの縁を掴もうとしますが、指先は届いてもつるりと滑って掴めません。ああ、もっと私に身長があったら。ここのホーム、案外高いのです。普通、ホームの高さは1mほどだと聞いたことがありますが、この駅には特急列車も止まるためか、それよりも高く作られているようでした。私の身長は150cmもないから、自力で這い上がるのは難しい。
ホームの反対側は壁です。こちらには活路は見出せません。
そうだ。さっき私が覗きこもうとしていたあのスペースがあります! 普通ホームの下には駅員さんが作業するための待機スペースなる場所があると聞きます。そこに潜り込めば轢かれることはないでしょう。
そう思って下を探してみますが、そんなスペースはありませんでした。いや、正確にはあったのでしょうが、整備を怠った長年のツケが回ってきたのか、土砂やゴミでスペースが完全に埋まっているではないですか。
この駅のずさんな管理体制には呆れさせられます。どうやら、這い上がるほかに道はないようです。
列車が来る直前に押されていたら死んでいたかもしれませんが、幸い列車がホームに入ってくるまでまだ15分はあります。その間に助けを呼びましょう。
「駅員さーん! すみませーん! この女に押されて落とされました! 助けてくださーい!」
その辺りにいるだろう、駅員さんに呼びかけましたが、しばらく待っても誰も来ませんでした。聞こえていないのかな。
「すみませーん! 助けてくださーい!」
飯田先輩もハラハラした様子で周りを伺っていますが、どうも人が来る気配はないようです。
困ったな、この7番乗り場は偶然にも駅員さんの目から離れた場所にあるようです。全然気づいてもらえない。
「は、は、は。助けは来ないようね」
先輩の焦りようは目に見えて分かりました。彼女を見ていると呆れてなりません。覚悟もないくせによくもまぁ、こんな事に及んだものです。
「……分かりました。引き上げるのを手伝ってくれたら警察には言いませんよ。助けてください先輩」
「馬鹿が! 私はあんたを殺す気で突き落としたんだよ!」
「それなら列車が来る直前に押すはずだ。最初から殺す気なんかなかったんでしょう。もう、許してあげますから早くこんな遊び終わりにしましょう」
「この……!」
先輩の顔面に線が走りました。あれは、血管でしょうか? 驚きました。怒って血管が顔に浮き出るなんて、実際にあることなんですね。よほど私の態度が彼女の癪に障ったらしい。そして先輩はこう言います。
「あんたはここで死ぬ! 私が殺してやったんだ!」
はぁ。
私は腕時計を確認しました。18時、そろそろですね。
「先輩。私は最後のチャンスをあげたんですよ。早く私を引き上げればよかったのに。もう手遅れです」
帰宅ラッシュだ。
ホームから喧噪が聞こえてきました。ここから一気に人が増えます。仕事を終えた会社員、学生、その他いろんな用途で列車を使う人たちがホームに集まってきますよ。もちろん、この7番乗り場にも人がたくさん並ぶでしょう。
「座れなくなるのは嫌ですが、今日は贅沢も言ってられませんね」
あなたのせいでせっかくのウキウキ気分が台無しだ。
責任は貴方の身で持って取ってもらいましょうか飯田先輩。私はさっきよりも気合を入れて助けを呼びました。
「すみませーん! 助けて下さ――ーい!」
「や、やめろ紗藤っ!」
やめない。
「突き落とされたんです! 誰か助けてください!!」
なんだなんだ?
どうしたどうした?
がやがやとそんな声が聞こえてきて、人が続々とこの乗り場に集まってきました。ホームの前には一人の狼狽した女。そしてその下には足を怪我した私がいる。何が起きたかは言うまでもなく明白です。十数人の人が私達を取り囲み、騒ぎ始めています。
私は白線の内側まで入ってきた会社員風の男の人に手を伸ばしました。
「すみません! 足を怪我してしまって、引き上げてもらえませんか?」
すると、男の人はじっと私を吟味するように視線を落とし、何かを思案するように唸ります。
そして、こう言いました。
「見返りは、何かありますか?」
……はい?
「み、見返り? な、何を……」
「いやだから、僕があなたを引きあげることで何か僕にメリットが?」
「メリットって……そんなの。私、このままだと轢かれてしまうのです。だから助けて欲しいと。見ればわかるでしょう?」
「お金とかもらえます?」
「何言ってるんですか!?」
その男は納得できないと言わんばかりに首を傾げて、その場を去っていきました。納得できないのは私の方です。この状況であの人は一体どういうつもりであんな事を言っていたのでしょう?
もういい。
私は別の人に手を伸ばします。屈強そうな男性です。
「すみません! 私の身長では上がれないのです。手を掴んでくれませんか?」
「俺は無駄な体力を使いたくねぇ」
男はニヤニヤ笑って私を見下ろしながらそんなことを嘯きました。
「他を当たりな」
そしてそのまま、したり顔で私を眺めています。
思わず耳を疑いました。なんなのでしょう。見て見ぬふりをするならまだしも、まるでこうなった私を嘲り、馬鹿にするような感じ。
凄く嫌な感じです。
「あの、そこの人! 駅員さんを呼んでください!」
真面目そうなスーツの女性に呼びかけました。しかし彼女はちらりと私の方を一瞥したきり、何も言葉を返すことなくただ立っているだけです。
「ちょっと! 誰か!! 誰か助けてください!」
――助けてだってよ。
――お前、行けば?
――やだよ面倒くさい。
――駅員さんいないのー?
――ほっとけばぁ?
――自分で落ちて、気を引こうとしてるだけじゃね?
――うわ、痛いわー
なんだ。
なんなんだこいつら。
いないのか。誰も、このままだと私は死んでしまうのです。誰かの力を借りないと……線路の端まで走れば上に登れる階段か梯子がありますが、右足を怪我していて走れない。間に合わないでしょう。
「お願い! 誰か停止ボタン押してください!」
――そんなの駅員に頼めよ~!
野次が飛んできます。
「うるさい! それなら早く駅員を呼んできてください!!」
――生意気なこと言うんじゃねぇ~!
――くたばっちまえ!
「きゃ!」
何か落ちてきました。
空き缶。私が飲んでいたコーヒーの缶です。落ちていたのを誰かが蹴ってホームに入れてきたんだ。
ひどい。
本当にひどい奴らです。
私は話を聞いてくれそうな人間を探しました。声高にガヤを発している連中は駄目です。真面目そうな社会人風な人間も協力してくれない。
若い子はいないでしょうか。高校生くらいの子なら、こんな邪心は持っていないはず。醜悪な大人たちの様子を見て、辟易としているかもしれません。
私はホームに目を走らせ、7番乗り場の端の方に二人組の男子高校生が立っているのを発見しました。私は一縷の望みをかけてその子たちに呼びかけます。
「お願いします! 私を引き上げてください!」
しかし、二人は私を見下ろしてくすくす笑っていました。何がそんなに面白いのでしょうか。
そして、おもむろにスマホを取り出して私に向けました。
カシャリ
耳慣れたシャッター音が響きました。
それを皮切りに、あちこちでシャッター音が鳴り始めました。色々な携帯機種のそれぞれ違うシャッター音が奏でられ、7番乗り場は一気に華やかな空気に包まれます。さしずめ私はアイドルにでもなったよう。しかし、彼らの持つ薄っぺらい機械の奥にはそれは醜悪な好奇の視線が向けられていることでしょう。
あの黒い機械の目を通して、邪悪な好奇にさらされているのだと思うと、とてつもない恐怖感に苛まれました。
――これはバズるぞ。
――顔撮れ。顔を。
――1万は固いな。
――まじで人がちぎれるところ見れるかも。
――列車早く来ないかな。
――必死だわ~ウケる。
お ぞ ま し い。
なんなんだこいつら。
全員、私が死ぬのを楽しみに待っている。私の死を、自分の醜い好奇心の糧にしようと舌なめずりをして見ているのですか!
鬼だ。全員、ここにいる全員が! たまたまでしょうが、人の心を持ち合わせていない常識のない人間だったんだ。そんな奴らが集まってしまった。一人でも常識がある人がいれば私は助かっていました。あるいは、これだけの人数が集まらなければ、相手が一人だったなら、少なくとも嘲笑われたり写真を撮られることはなかった。もしかすると駅員くらいは呼んでくれたかもしれません。倫理観の壊れている人間の集団。これが一番危険なのです。人は集まれば凶暴になり、集団の意志を曲げることなく貫き通す。
時計を確認しましょう。
18時5分。
「お、お願い! 誰か助けてください!」
あと5分。列車がこのホームに入ってくるまであと5分。
5分以内に上に戻らなければ私は死ぬ!
「誰か! 助けて!!」
死に物狂いで手を伸ばす私。もはや一刻の猶予もありません!
だけど、上にいる鬼たちは私が必死に助けを求めれば求めるほど悦び、スマホをかざして写真を撮っている。
「見てください、この女性。誰も助けてくれません。このまま列車に轢かれてしまうのか? 到着まであと4分を切りました! さあ、この女性の運命は……いかに!?」
最前列でスマホを横持ちしている男。何やら迫真の演技じみた喋り方で、私の様子を実況しているよう。まさか動画配信でもしているのでしょうか?
「反吐が出る……!」
死ぬものか。
死ねるか! こんなやつらの餌になって死ぬなど、絶対に許されない!
私は手を伸ばす。
何とか、自力でも這い上がってやります。右足が壊れそうですが、足が2度と動かなくなっても死ぬよりはましです。ジャンプし、何度もホームの縁に手をかけました。私が失敗して転げ落ちるたびに歓声と笑い声が聞こえます。もう服も泥だらけで、気づかぬうちに流れていた涙で化粧もめちゃくちゃでしょう。こんな様を人にさらすことなんてしたくなかったけど。それでも私は頑張った。
そして何とか、私は肘までホームの縁に這い上がることに成功しました。あとは全身の力を使って状態を上まで持っていけば登り切ることができる。
わずかに希望が見えた、その時でした。
ふいに誰かのスニーカーが動いたかと思うと、そのつま先が私の鼻先にめり込んだのです。私はその攻撃に怯みました。その後、間髪入れずにまた誰かが私の指先を踏んづけてきます。
「ああっ! や、やめて……!」
落ちる。
そんなことをされたら!
あまりの痛みに耐えられず、私は力を失って再び線路の上へと落ちてしまいました。サッカーワールドカップで推しのチームが点を取り損ねた時のような、高揚した落胆の声が響きわたりました。
「何ですか……私が何をしたって言うんですか」
お前らこそ地獄に落ちればいい。
この人の心を持たない悪鬼どもめ!
『間もなく、3番ホームに列車が参ります。ご注意ください』
あと2分もない。
というか、こんな騒ぎになっても駅員が気づかないわけがありません。
「駅員もグルですね」
とんでもない駅です。
嫌だ。
こんな所で死にたくない。これは飯田個人の殺人じゃない。やったのはこのホームにいる集団だ。許さない。私が死んだらここを自殺の名所に変えてやるから覚悟しろ。
「おい、お姉さん! 助けて欲しいか?」
若い男の声が聞こえました。
ハッとそちらに振り向きます。ホスト風の青年が私に手を差し伸べてそんなことを言うのです。
「助けてください! もうすぐ列車が来てしまいます!」
「じゃあ、助けてやるよ。あんたを引き上げてやる。その代わり――」
ここでストリップしろ。
青年は確かにそう言いました。
「はい……?」
「助かりたいんだろ? じゃあ服を脱いで俺達に見せろ」
にわかに場が湧き立つのを感じました。特に男たちからは歓喜ともいうべき声が上がりました。
「あなたは、何を言っているのです?」
「簡単なことだろ。そっちは命がかかってるんだ。死にたくないなら服を脱いで見せろって言ってるんだよ」
「なぜ。なんの意味が」
「楽しいからだ」
青年はけらけら笑って手拍子を始めます。ぬーげ、ぬーげと下品な掛け声に合わせて、他の連中もそれに混ざり合唱が始まります。
「ほら、早くしろよ。下着も全部脱ぐんだぞ。ちゃんと見ててやるから」
顔が燃えるように熱くなり、私は立ち眩みを起こしかけました。生き延びるために恥も何もかも捨てて、大勢の目にさらされながら醜態を露にしろと。それしか私が生きる術はないのかと。
でも、命あっての物種。私はこんなに若くして死にたくはない。
もし、あの男の言う通りにすれば助かるのなら、私はそれに従うべきではないでしょうか。ここで死なずに済むなら、私は何だって……――
私の手が、ブラウスのボタンに伸びる。一つ、二つと上から順番に外していって、そこで手が止まりました。
自分の中に渦巻く感情が、とうとう飽和した。これは危険な兆候だと分かります。でも、感情が冷静な判断力を奪う。生きなければいけない。そのために必要な行動をしなければならない。頭ではそう考えていたけど、その思考を塗りつぶすほど感情のエネルギーは強く迸りました。
私はあの群衆への怒りと、誇りを捨てかけた私自身への怒りで、私の全てがあふれ出したのです。
三つ目のボタンを外す前に私は腕を下しました。
そして、しゃがんで線路の上の石つぶてを拾い、あの青年めがけて投げつけました。
「うぉっ!? 何すんだてめぇ!」
お前の命令に従って生き延びるくらいなら、死んだほうがましだ。
この思考はこの場を生き残る上で非常にまずい考え方だと分かっています。でも、止められない。
私は再びホームの縁に手をかけました。
列車が来るまで、何度だって挑戦してやります。例えこいつらに何度邪魔されようと、私は諦めない。私を邪魔すればするほど、お前達の罪は重くなるのだ。私を落とした分だけ、地獄の獄卒に殴られればいい。
「はははは、ざまあないわね。紗藤ケイ」
唐突に聞こえた女の声。私は一瞬、その声の主を思い出すのに時間がかかってしまいました。
乗り場の端の方に移動していた彼女は、全ての元凶である私の先輩。
飯田君江。
「まさかこんなことになるなんて思わなかったけど。おかげでせいせいしたわ。私を怒らせるからこうなるのよ」
「飯田……私はお前を許しません」
そこで待っていろ。私が生き延びたら必ず警察に突き出してやる。
「そこにいるあんた達もだ!!」
「まぁ待って。落ち着いて紗藤さん。ほら」
すると、何を思ったのか彼女は手を伸ばしてきました。私に掴めと言わんばかりにホームの下へ手を。
「何のつもりですか?」
「もういいわよ。そもそも……あんたの言う通り。殺そうなんて思っちゃいなかった。ついほんの出来心で、あんたを突き落としたのよ」
「出来心って……私がそれで納得するとでも思っているのですか!? あなただって殺人未遂の罪に問われるのですよ?」
「あの時は頭がどうかしていたのよ! でも、あんたそのままじゃこいつらに殺されちゃうわ。私は別に殺人犯にはなりたくない!」
「そんなことを言って私が許すと思ったら大間違いですよ」
「で? この手を取るの? 取らないの!?」
彼女にはさっきまで私に抱いていた憎しみや殺意は消えているように見えました。周りの連中の異常さを見て、冷静に自分を見つめ直すことができたってところでしょうか。
本当に、本当に呆れ果てた方です。
自分のことしか考えてない。自分の罪の意識が怖いから私を助ける。それだけだ。
でも、今の私には彼女の手が蜘蛛の糸であることも事実。助けてくれるのならばなんだっていい。敵の手でもなんでも取れる。
私は彼女の手を掴みました。
「……警察には言わないで。お願い」
「どうでしょうね」
言わないで……あげてもいいでしょう。
助かるなら、それでいい。あなたの人生を破壊したところで私にメリットはない。彼女は私を助けると言った通り、しっかりと私の手を放さずに掴んで引っ張り上げてくれました。
「今後、二度と私に関わらないでください。会社でも、それ以外の所でも」
「うん、分かった――」
どん。
ぐらりとバランスが崩れる。
彼女の呆気にとられる表情を見て、私は全てを悟りました。
誰かが、押した。
彼女の背中を押したのです。
二人して線路の中に倒れ込んで土を吐き出します。ホームの上の鬼たちは歓声を上げて喜んでいました。
誰が押したのかは全く分かりません。ただ、こいつら全員にその可能性がある。飯田が私を押した理由は嫉妬から。でもこいつらにそんなものはない。ただ自分達が楽しみたいからという理由で、その背中を押したのです。
プァーーン
警笛の音がしました。
列車が見える。スピードを落とすことなくここに入ってくる。
「ぎゃぁあああああああああ! 死ぬ!! 私、死んじゃう!」
飯田は死に物狂いでホームに上がろうとしますが、当然そんなことはできません。彼女の身長も私と大して変わらない。それに、群れた鬼たちはお楽しみが増えたことに興奮するだけで決して獲物に手を差し伸べることはないのだから。
「いやぁああああああ! 助けて! お願い!! 死ぬのはコイツ一人で十分でしょう!!」
彼女が私を指さしてそうまくしたてました。
目玉をぎょろつかせ、唾を飛ばしながら「コイツを殺せ!」と喚く。喚く。
「お願い! 私の代わりにこいつを殺して! 服でも脱ぐわ! なんでもする! だから! 死にたくないぃいい!」
私は線路に落ちているこぶし大の石を拾い上げました。
絶叫しながら汚らしい鬼たちに命乞いをする哀れな飯田先輩。そんな醜態を見せるくらいなら、私なら死を選ぶ。
私は手に持った石を、彼女の後頭部に思い切り叩きつけました。
彼女はうっ、と呻いて倒れ、痙攣します。恨めしそうに私を睨みながら震える指を私の靴に這わせてきますが、私はそれを蹴って振り払いました。
「ケイ……ケイ……死ね。お前が死ね……――」
もう一度。
私は彼女の脳天に石をぶつけると、ようやく頭を垂れました。彼女はちょうど体を丸めて、頭を抑えて蹲るような姿勢になっています。自分の身を守るための本能でしょうか。都合がいい。
私は彼女の背中を踏み、よじ登りました。今度は簡単に縁に手がかかります。私は全身の力を使い、ホームの上へと上体を出すことができました。
「待っ……て」
私は足首を掴まれました。振り向くと頭から血を流した飯田が、最後の希望に縋るように私を見上げて、足を掴んでいる。
私はその目を、一生忘れることはないのでしょう。
私は何も言わず、彼女を線路へ蹴り落としました。
再び警笛が聞こえる。
私が無事にホームに上がった瞬間に、7番乗り場へ列車が到着しました。微かに何かがつぶれるような音がして、耳障りなブレーキ音が耳をつんざきました。
観衆は興奮の雄叫びを上げながら、ホームのギリギリまで殺到します。そいつらは私には目もくれず、列車とホームの隙間にあるだろう、その残骸に群れ、汚らしい欲望を潤していました。
私はその場を去りました。血に濡れた石を捨てて、駅の出口へと歩いていきます。
後ろから、夥しい数のカメラのシャッター音が聞こえてきました。
鬼の駅
完