蓮の花咲く朝の庭で。
百合子と由利子、二人はご近所で同じ読み名の同い年。仲良い幼馴染。
彼女は昔お庄屋さんだったという、白い土塀の向こう側に家があった。苔むした庭、由緒正しき日本庭園がある敷地。湿った土の匂い、盛夏でもひんやりとする、壁の内側。由利子は訪ねる度に思った。
……、ここだけタイムスリップしたみたい。昔々の何かがどろどろ溜まって、底なし沼の中みたい。
休みの日に遊びに行けば、広い縁側に置かれた、深々とした椅子に殿様の様に座り、ふんぞり返っている彼女の祖父の姿を、ちらりと見て震え上がった記憶がある。
仕事が忙しいご両親に、祖父母の家に預けられていた孫の彼女。大人しくかわいい百合子。流行りの服など着たことない彼女、昭和レトロ、ジーパンなどけしからんという祖父により、彼女の短パン姿は体操服以外、由利子も誰も見たことなかった。
「遠足どうするの?自然公園でアスレチックだよ」
「お願いしてみたけどだめだったの。お祖母様がとりなしてくれたけど、危ないから駄目だって。だから嘘だけど、捻挫したからアスレチックは無理って言う」
一緒に五百円分のおやつを買いに出かけた先で、そう話した百合子。足首には包帯で、ぐるぐるとカムフラージュしてあった。
「花咲いてない」
皆が班別でアスレチックに向かう中、一人残る彼女が可哀想で、学級委員をしていた事もあり、由利子もお弁当を食べた池の畔に残ることを、担任の先生に話した。
「いいの?行かなくて」
「大丈夫。アスレチックなんて汗かくだけだし……、ここ、蓮池公園だよね、池……、葉っぱばっかりだね」
「うん、今は浮き葉ばかりだよ。夏が近づくと立ち葉がにゅーんと出てきて、蕾が続くの、家の庭の池にもあるの」
「そうなんだ、池あるの?お爺さんに、庭に女子供は入っちゃいかん!て言われてさ、見たことない。鯉とかいる?」
「鯉はいないけど、金魚は放してるみたい。孑孑避けなんだって」
「うげー!ぼうふらって蚊の幼虫じゃん!やだなー、ここにもいるのかな、アレ、ピコピコ動いて気持ち悪い」
「あはは、これだけ大きな池なら何か居るって、ぼうふらも魚も……。蓮って、お花咲くとき、直ぐ近くで見たらすごく綺麗なの」
ベンチに座りキャラメルを口に入れながら、珍しく声を上げて笑った百合子。『ハッチャンイカ』を取り出し袋を開ける由利子。甘酸っぱい匂いがする。
「見たことあんの?お庭出れないのに?」
「蓮の花は夜明け前の薄暗い時から開くの、お祖父様は、まだ寝てらっしゃるから、お祖母様とこっそり見てる、一日目に少し開いて、昼には閉じて、二日目に大きく開いてまた閉じて、三日目に満開になって、今度は半分だけ閉じて、四日目には、一日中咲いて夕方には散っちゃうの」
「ふうーん、ねね、このイカでさ、アメリカザリガニ捕まえられるんだよ、この池にいるかな……ザリガニ」
サワサワと風が吹いて、水面の葉がぷかぷかとしていた。池の側には行っちゃ駄目だから、ザリガニ釣りは出来ないね、と話す百合子。青空の下でおやつを食べて二人はあれやこれ、他愛のない子供の話をした。
遠足も終わり、普段の日々になる。由利子は学校に通い、塾に行き、時々日曜日には、彼女の家に遊びに行く。勿論、小さな裏口からお邪魔するのだが。父親も母親も医者の家の彼女は、小煩そうな殿様から『お友達』として認められていた。
「お祖母様が蓮の花の中に、お茶っ葉を入れて香りをつけたの、それと蓮餅だって。美味しいね」
碧い硝子の皿に熊笹に包まれた黒糖色した餅菓子。冷茶は、仄かに花の香りがしていた。天ぷらにするレンコンが、こんなになるとは、由利子は少しばかり驚いた。
それからしばらくして、彼女の祖母がふとした病で亡くなった。遊びに行くことがそれ以後、出来なくなった百合子。授業が終われば、駆け足で帰ってしまう彼女にクラスメート達が心配をし聞けば。
「お祖父様が仕事から戻る前に、ご飯とお風呂とお掃除と……洗濯物も取り入れて仕舞うの。じゃあまたね」
そう言うとランドセルを背負い、スカートを翻して帰っていく。シンデレラ、シンデレラになったの!と噂になったのは仕方がない。由利子は少しばかり寂しくなったが、彼女の周りも変わり、遊ぶ事は三の次という様な、忙しい日々を過ごすようになった。
やがて中学生となる頃、目出度く由利子は名高い進学校へ電車で通う事になり、地元の学校に自転車通学となった百合子とは、少しずつ距離が離れて遠くなった。
お互い別の道を歩き始めていた。やがて高校生になる頃には、全く出会わなくなった。百合子は祖父に勧められた、家から通える女子校に進み、由利子は高等部へと上がり暮らしている。
家が近くでも交じり合う事がない二人。そのまますれ違う様に時がすぎるのかと思えば、そうではなかった。彼女達が高校二年の夏休み、たまたまスーパーで、百合子が由利子を見つけたのだ。懐かしくなり声をかけたのは百合子の方。
「久しぶりだね、由利子ちゃん、やだ、お菓子ばっかり」
「え!きゃー!まさかの!百合子ちゃん、やだ!やだ変なとこ見られちゃった」
「何買ってるの?え!まさかの『ハッチャンイカ』の、大人買い?沢山入ってる、まだ食べてるの?これ」
「か!噛んでると眠気覚ましになるの、そっちは?あ!鰻、そっか……丑の日か」
シジミと鰻を用意しなきゃいけないの、お祖父様にね。とニコニコとしながら話す百合子、相変わらず綺麗だなと思う由利子。
日焼けを知らぬ白い肌、ダイエットとは無用な身体に、黒い髪をポニーにしている。じっと黒い大きな瞳で見られると、ドキドキと胸が音立てる、ショートカットの由利子。
…… あー、可愛い!この可愛さって、神様のいたずらとか、なんかじゃない?モテるんだろうな、でも女子校だっけ?あのくそ爺が目を光らせてるうちは、無理かな。等と思いつつ四方山話が始まる。
「……あー、く。お爺さん元気なのね……、そういやそんなに年寄りでもなかったか。今でも現役バリバリで、働いてらっしゃるし……、ねえ、時間ある?そこのバーガーハウスに行こうよ、シェイク飲みたいからさ、付き合ってよ」
もっともっと話したいと由利子は彼女を誘う。でも案の定、今日は時間が無いからと、断ってきた百合子。レジに前後に並び、他愛のない話をしながら店を出る二人。自転車置き場に向かう。すると別れ際、百合子から明日の朝、家に蓮の花を見に来ない?と由利子は声をかけられた。
「あ!そういえば季節か」
「うん、今朝お茶っ葉をひと握り、花の中に仕込んでるの。丁度、蓮餅も買ったの、朝から甘いものも何だけど、一緒に食べない?」
行く行く!夏期講習があるけど、間に合うし!頑張って早起きするからと約束をし、二人はその日、別れた。
濃ければ濃い程良いらしい。それは床の泥。大輪の花は泥芥がお好みらしい。
百合子と由利子、二人はご近所で同じ読み名の同い年。仲良い幼馴染。
「ご両親ってどうなの」
「知らない、連絡もつかない」
家を抜け出すように出れば、空にはまだ名残の星がうっすら。早かったかなと思いつつ、由利子は夜明け前の冷気の中を彼女の家に向かう。潜戸の鍵は開いていた。静かに入る。まるで泥棒の様とおかしくなった彼女。
「おはよう、いらっしゃい」
池の側に赤い毛氈が広げられ、お茶の用意がされていた。池の側に立ち、花が開くのをじっと待つ娘が二人。半開きの花からは香りが出て広がっている。
「昨日、くそ爺と言いそうになったでしょ」
「え!ないない、お祖父様に対してそれはないよ、うん、く。は気のせい」
くすくす……笑う百合子。
「私も外に出たいな……、由利子ちゃんみたいにさ、勉強したい、お祖父様は女子に学問はいらんって……いいお嫁さんになりなさいって、それが一番だからって言うの」
「ヒャー何それ!前世紀の遺物じゃん。百合子ちゃん勉強できたもんね、もったいないよね、そうだな……大学、いいとこ目指したら?そしてここを出てやりたい事をしてみるの」
「ダメダメ、お祖父様の面倒を、誰がみるのかってなっちゃう。わがまま言えば、義務教育終わってるし、どこにも行かずに家のことしろって、出れなくなっちゃいそう。お祖父様、うん、石頭だし、しょうがないの」
え、それっていけない事の様な気がするけど……。伸び上がる花を見つめる彼女に、そう言いそうになる由利子。
「あのね……、お祖父様変なの。ご自分の跡取りが欲しいから……、私にね、婚約者を決めとくんだって」
「ちょいまち、そりゃ16過ぎてっけど……横暴じゃない?前から思ってたけど、家の事なら家政婦さん雇えばいいじゃん、ケチだねーくそ爺!」
「あはは、やっぱりくそ爺……。それでね。高校卒業したら結婚しろって、変よね、おかしいの。でもそれが私の幸せって言うのよ、家事もその為に覚えさせたんだって、酷いよね」
「はい?イミフなのだけど?取り敢えず相手は何歳」
「ギリギリの線を狙ってるみたい、こいつはモノになるって目をつけてる、今は大学生の人……お祖父様の会社に入るんだって、バイトに来てて、婿がねだと、目をつけたって、つい最近お聞きしたの……う、ふ、え……。え」
立っていた百合子がぽろぽろと泣き出すと、やだっ嫌なのって、小さな子供みたいに顔をしかめて、隣に立っている、由利子に抱きついてきた。
「はい!ゆ、百合子ちゃん!どうしたの」
……、何これ!あぶない!やだ可愛い。小さい!かつて平安の女史は、可愛いことは美しいと、曰わってたけど。やん、どうしよう。
由利子の中にムクムクと頭をあげる騎士道精神!頭ひとつ分、小柄な幼馴染の彼女。ああ!だめよ私。これでも一応、彼氏募集中のノーマルだと思ってるのだから。と自問自答が始まる。
だから……だから……。う?突っ立ってるのも無粋だから、ここは……そろりと抱き締めてみようかな。年相応の好奇心が生まれ、由利子は正直に行動に移す。
「うん。泣かない泣かない、泣いちゃだめだよ」
……、きゅっと抱きしめて……。すっぽりとはいかないけど、ぎゅううは出来る。きゃあ柔らかくて気持ちいい、いい香り、あぶない!けどいい……。男子のキモチがちょっと分っちゃった。これ……いいわ。
話だけ知っている世界に、一歩、近づいている彼女。女子にしては伸びた身長、中学の時にソフトボールをやってたせいか、筋肉ついてる由利子。高校になり、部活はすっぱりとやめ勉学に励んでいる彼女。
なので、成績は良い。すると男子から、ボスとか姉御とか不名誉なあだ名を賜っている由利子は、彼女の与り知らぬところで女子から憧れの熱い視線を送られている事は、知らない。
「由利子ちゃん、由利子ちゃん、大好き、どこかに連れてって」
しくしくと、駄々っ子みたいに泣いている百合子、そんな彼女の、ほんわりとしたぬくもりと、柔らかさと香りを感じつつ、もういい、姉御でも、ボスでも。うん、もう何でもいいや。
可愛いことは正義なり。私の新たなる扉が開いた、ということにしておこう。と潔く振り切った由利子。先の展開をあれこれと考え始める。
……取り敢えず高校卒業迄は時間がある。それに落ち着いたら百合子ちゃんも、もっとあれこれ考えると思う。クソ爺も、朦朧はしてないと思う。少しばかり考え方ががズレちゃってるけど、百合子ちゃんの幸せを、考えてるっぽいし。
だからかな婿?の年齢若いし……、家事をさせてきたのも、きっといいお嫁さんの修行かな。私ご飯炊けないもん、カップ麺がかろうじて出来るだけだし……。掃除も洗濯物もした事無い。私と結婚した男は苦労の連続になると思う。
「変な男の人だったら、どうしよう、由利子ちゃん、怖いの、ね、どこかに連れて逃げて……」
さめざめと泣いている幼馴染を、しっかりと抱きしめつつこのまま連れて帰ろうかと思い始める由利子。
……ああー!可愛い。ぎゅううに力がこもっちゃう。連れて帰りたい!うん!決めた!取り敢えず、夏休みだし探ってみようかな……、いけ好かない奴だったら。
大事な大事な百合子ちゃんは渡してやんない。絶対、絶対渡してやんないからね。覚えてろクソ爺!
「大丈夫、大丈夫、私がしっかり守ってあげる」
「ほんと?ほんと?由利子ちゃん、大好き」
ほのぼのと空がしてきた。小鳥子の声がチュンチュンと聞こえ始める。背を池に向けてる百合子。対して由利子は百合子の背中越しに、蓮の花を眺める。
あー幸せ!と思いつつ花を眺める由利子。果たして彼女達はこの先どうなるのかは、お釈迦様しかわからない。
ポン!と音が立つような、大きく大きく膨らんだ、桃色の蓮の蕾が、ひとつ二つ。昨日閉じた花がひとつ二つ……。
時が近づき、静かにそろりと、閉じてた口を開かせる。閉じ込められていた清らかなる空気が、外と交わる、甘い香りが涼やかな朝の細かな水滴に混ざる。そんな花開く時のお話し。
完。