第17話 母の香り
(お風呂……)
脱衣所に、ぽつりと一人の残されたユイカは、暫くその場で呆然としていた。
そして彼は、小さい頭で色々なことを考えていた。
(どうして入れって、言ってくれたんだろう……)
ユイカはそれがよく分からなかった。何故なら、見ず知らずの人の家に行って、お風呂を借りたためしがなかったからである。
顔見知りや、親戚であれば貸してくれることもある、ということは六歳のユイカの中でも、「何となく」という感覚で分かっていたが、初めて来た家なのに、お風呂を貸してもらえると言うのが不思議でならなかったのである。しかも、リビングやキッチンならまだしも、お風呂と言うのは何だか秘密の場所のような感じがして、一人で入るのは気が引けた。
「……」
ユイカは、ナミがリュックから出してくれた自分の服を手に持っていた。白とネイビーの太いボーダーのTシャツと、ベージュの長ズボン。そして、下着。彼はそれをじっと見てから、ぎゅうっと抱きしめ、顔を埋めた。
(家のにおいがする……)
家で使っている洗濯用洗剤の香りに交じって、ほんのり上品な香りがするのは、間違いなく母の香りだ。
「……」
ユイカがその状態でいると、脱衣所と廊下を隔てる簡易的な扉の向こうから、ナミのバタバタという足音が聞こえてきた。その為、ユイカはぱっと着替えから顔を離した。
(お風呂、入らなくちゃ)
ユイカはいそいそと服を脱ぎ、小さな浴室に入っていった。
一方のナミは、ダイヤル式の電話を使って、『スイピー』に電話を掛ける。何度かのコールを聞いた後、受話器を取る音がすると、快活なララの声が電話越しに聞こえてきた。
「はい、こちらは雑貨屋の『スイピー』です!」
普段と変わらない、明るくて元気なララの声を聞くと、何故だかほっとした気持ちになる。そのお陰か、ナミから慌てた気持ちが不思議と消えていった。
「おはようございます、ララさん、ナミです」
「おはよう、ナミ!どうかした?」
「実はあの、ちょっと困ったことあって、遅刻させてください。すみません」
「困ったこと?」
ララの声のトーンが急に低くなり、心なしか硬くなったように感じる。ナミは思わず受話器を強く握りしめた。
「話せば長くなるので、職場に着いたら話したいんですけど」
「相談事?」
「はい」
すると、受話器の向こう側でララがほっと息をついたのが聞こえた。
「あら、そう。じゃあ、何時ごろまでに来れそう?」
ナミは時計を振り向いた。今から自分も支度をしなくてはならず、『スイピー』までの所要時間を考えると、八時くらいまでは行けそうだったが、それは自分一人の場合の計算である。ユイカのことを考えたら、もう一時間余裕を持った方がいいと思った。
「九時くらいになりそうです」
「そう、分かったわ。それにしても困ったことって、どんなことなのかしら」
「後でちゃんと事情は説明します。あの、ララさん、もう一つだけお願いがあるんですけど」
「何?」
「職場に子供を連れていくつもりなんですけど、許してもらえますか?」
すると、電話越しでさえもララの動きが止まったのが分かる。
「……え?子供?」
とても驚いているようで、声がいつもよりも高い調子になる。
「はい……」
「まさか、隠し子?」
「違います!」
すると、ララが電話越しで大声で笑った。
「はははっ!そんなにむきにならなくっても、分かってるから大丈夫だよ!」
ナミは恥ずかしくなって、電話の前で小さくなった。
「ララさん」
「まあ、まあ。こっちのことは気にしなくていいから、とにかく気を付けておいで」
「はい」
ナミは静かに頷くと、そっと受話器を置くのだった。