2話 雲なくて朧なりとも見ゆるかな霞かかれる春の夜の月
前回のあらすじ
人間から犬になった者は、ある里でみんなと平和に暮らしていた。
「ヒトツミレバ、フタツニ。フタツミレバ、ミッツニ。ミッツミレバ、ヨッツニ。ヨッツミタラキエチャッタ。アルイハヒャクニナッテイタ。スベテハヒトツカラ、ヒトツハスベテカラ」
奇妙な老若男女問わずのその声はがらんがらんと鈴の音に合わせ、霧雨の降る夜の水田で響き渡る。一見すると、その光景は数多の提灯が揺れながら闇を進んでいるように見える。
「ヒトツミレバ、フタツニ。フタツミレバ、ミッツニ。ミッツミレバ、ヨッツニ。ヨッツミタラキエチャッタ。アルイハヒャクニナッテイタ。スベテハヒトツカラ、ヒトツハスベテカラ」
今宵、彼らは何処へ向かうのだろう。
※
「シロ助、百鬼夜行を知っておるか?」
先生がふと手を止め、布団の上でぼんやりしていた白犬に話しかける。
「それは説話などに登場する深夜に徘徊をする鬼や妖怪の群れの更新の事ですか?そもそも、この世界に妖怪がいるのですか?」
「そうかそうか、そこから話さねばならぬのか。そうだ、今宵は妖の話をしようかの。しばし待っておれ、この書類を片付けてからじゃ」
少しして、先生は湯呑を二つと急須を盆に載せ白犬と共に家の縁側に座り、下の階層の家々を暫し眺めていた。
「先生、妖とはなんなのですか?」
「妖、それは呪われた存在じゃ。人間や魔族、そう言った存在が何かしらの理由で死後に彼岸に行かずにとどまり受肉したり、霊力の塊となって顕在化したりしたものを言う。彼らはその望みが叶うか魂送りをしないと存在し続ける」
「もし、悪い願いを持っていたら、危ないですね」
「ああ。そしてその妖が何匹も集まり、共通の願いを叶えようとしているのが百鬼夜行じゃ」
先生は湯呑に白湯を入れ、白犬の前に置いた。
「そこを除いてみ」
白犬は先生に言われた通りに湯呑を覗くと、そこには夜の小さな集落の中に赤い光がいくつも動いている様子が映し出されていた。
「それが百鬼夜行じゃ。シロ助が見ておるのは、儂の記憶に新しい百鬼夜行じゃ」
先生はそういい、どこか悲し気に湯呑を口にあてた。白犬はそれに察し、湯呑を再び除くと、今度は見るも悍ましい化物が触手を伸ばし家を襲い、人を捕まえ、全てを闇の中に引きずりこんでいた。そして、映像は暗くなった瞬間に途切れた。
「先生、この村は?」
「百鬼夜行に滅ぼされた。恐らく、彼らは奴隷として酷い扱いを受け死んだ者じゃろう。だから、主のいた村を襲ったのじゃ。因果応報じゃな」
「でも、関係のない人まで襲われている......」
「ああ、そしてそのものらが死んで妖怪になり、百鬼夜行が途絶えることなく彼らは永遠に夜を歩く。と言いたいが、実は百鬼夜行の歴史は浅く、遡ること600年前には存在していなかったとされておる。なぜ、妖という存在が600年前に生まれたのか、その理由はわからぬがの」
「じゃあ、妖のいない世にすることは可能なのですね!」
「ああ、しかし恐らくそれはこの600年前の謎を解かぬことにはどうしようもないじゃろう。そうじゃ、儂の代わりにお主が旅をして600年前の謎を解き明かしに行くのはどうじゃ?」
「私がですか!?」
白犬は驚きのあまり、つい湯呑を倒し、水があたりに零れ広がる。
「すいません、今か片付けますので」
「まあ、儂もからかって済まない。流石に犬であるお主にはつらいことじゃろうからな。雑巾は儂が持ってくるから、お主はそこで待っておれ」
先生はにこやかな顔で、雑巾を取りに縁側を離れた。そのとき、白犬は奇妙な音が聞こえた。ほんの些細な音だったので、それが何かはわからないが、人の声のような音と、鈴のような音がまじりあっていたことは確かであった。
※
耳鳴りのようだった鈴の音は確実に大きくなっている。きっと、こちらに近づいてきているのだ。
「先生、音が聞こえます、鈴のようなちりちりという音が聞こえます」
私は雑巾を捜し戸棚に頭を突っ込んでいる先生の元に駆け寄り、その服を前足で引っ張る。
「先生、この音は何ですか?とても不気味で、怖いです」
「儂には何も聞こえぬがの」
先生はそう言いつつ、私のことを信じてくれたようで、すぐさま街の下を見下ろせる位置にある窓を覗き込んだ。私も先生の肩に乗り、窓の外を覗き込む。
今日は満月だから辺りが明るくて遠くまで見渡せるはずだが、村の外には濃い霧がかかっていた。春と秋は霧がよく湧くことは知っていたが、ここまでの濃霧を私は生まれて初めて見る。
「もし、シロ助の言うことが正しいのならば、いや、しかしそんなはずは......」
「先生、何か思い当たる節があるのですか?」
先生はとても難し気な顔をしていた。何か難しい判断を下さないといけない、そんな焦燥と困惑が混ざり合った顔だ。
「シロ助、恐らくあの霧を出しているのは妖じゃ」
「もしかして、あれが百鬼夜行ですか?」
「恐らく、いや間違いない。儂にも今聞こえた、かなり近くまで来ている。シロ助、儂は長にこのことを話してくる。お前は今のうちに逃げなさい」
「なんでですか!?みんなを置いて一人逃げるなんてできません!」
「安心しろ、儂らはそう易々と死にはせん。それに、儂らは逃げられぬのじゃ」
「何でですか!」
私は先生に歩み寄った瞬間、先生は私を抱きかかえ、いつものように頭に手を乗せ優しくなでた。離せと私は体をひねるが、力強く私は抱きしめられた。
「儂らは百鬼夜行と戦い国を守る代わりにここで暮らせるのじゃ。じゃから、逃げられぬ。しかし、お主はここに残って戦うと決めた村人ではない。そういう村人は逃げてもいいことになっておる」
「では、私もここに残って戦います!みんなも残っているのに一人尻尾まいて逃げるなんてできません!」
「儂は、何よりもお主に生きててもらいたい。それに犬の身で何ができる?せいぜい足を引っ張るだけだ。それなら、逃げてほとぼりが冷めたら帰ってこい。それで十分村の為になる。この里を出て北に3里走ったところに隣の村がある。まずはそこに向かえ、そして2日3日したら戻ってこい。いいな?」
先生の目が怪しく光り、一瞬私は意識が遠のくもすぐ戻った。なにか術を掛けられたのだろうか。
「はい、先生、また会いましょう」
無意識のうちに言葉が紡がれ体が勝手に動き先生の家を飛び出し後ろを見ずに北へと駆け出した。私は戻ろうと足を動かそうとしたが、意識の介入の余地がないようで体と魂が分離しているような感覚だ。
※
「ヒトツミレバ、フタツニ。フタツミレバ、ミッツニ。ミッツミレバ、ヨッツニ。ヨッツミタラキエチャッタ。アルイハヒャクニナッテイタ。スベテハヒトツカラ、ヒトツハスベテカラ」
声の集団が林の中からこちらに近づいてくる気配を白犬は感じ、足を速めた。傀儡の術が解け自由に動けるようになったものの、声の主たちのせいで戻ることが叶わず、進むしなかった。
「ヒトツミレバ、フタツニ。フタツミレバ、ミッツニ。ミッツミレバ、ヨッツニ。ヨッツミタラキエチャッタ。アルイハヒャクニナッテイタ。スベテハヒトツカラ、ヒトツハスベテカラ」
声は白犬よりも移動が速く、気を抜けば耳元から声が聞こえてくる気がするほどだ。しかし、それに恐怖し立ち止まる暇はない。白犬は無我夢中で北へ、北へと駆けた。
ふと森が途切れ、あたりは平地となり霧が晴れていった。すると、目の前に村が見えてきた。
「あれが先生のおっしゃられていた村かな?でも後ろの奴らがいるしあそこに向かうのはだめだ。多くの人が百鬼夜行に殺されてしまう」
白犬は村を前にして右折し、再び霧の林の中に入った。先生たちと共に戦えない分、他の村人を守りつつ、自分ができるのは囮となって時間を稼ぐ位のものだと考えたからだ。
百鬼夜行は白犬を絶えず追いかける一方、月が傾く頃にはもはや白犬は疲れ果てていた。もはや息をしても息が吸えず、足が鉛のように重く、目が霞む。一歩踏み出すたびに足が痛む。しかし、再開の約束を果たす為に白犬は走り続けた。
闇の中、薄れゆく意識の元走る白犬の背後で正体不明の百鬼夜行が着実に距離を詰めていく。もはやその吐息が背筋にかかる位だ。
「......だ......ま、だ......っ!」
白犬は里のみんなを、マカリ、カノ、先生を思いみんなも今戦っているのだと信じ走った。
白犬の背筋に牙が刺さる。もはや痛みを叫ぶ気力もないほどでも、白犬は走ることを止めない。後ろ足の一本の感覚が無くなり、頭から垂れてくる血液で前が見えなくなる。多くの妖がのしかかり、一歩一歩が重くなる。しかし白犬は走った。先生と里のみんなと再会をするために。
そのとき先の見えない霧の中に見上げたその春の満月は、白犬にとってなぜかとてもはっきりと美しく見えたのだった。
次回予告
出会いと別れ、そして新たな旅立ち。
3話「なかなかに風のほすにぞ乱れける雨に濡れたる青柳の糸」




