1話
「どうしたの?」
目の前に座る幼馴染の珍しくぼんやりした様子に思わず声をかける。いつもは精悍で引き締まった、でもどこか柔らかい雰囲気なのが今はぼんやりとして水の中にいるように見えた。しかし声をかけた途端いつもの幼馴染が浮上した。
「あぁ、いい天気だなと思って。少しぼうっとしてた」
「シオンがぼうっとするなんて珍しいね。でも本当、今日はいい天気だ。日差しもそれほど強くないし」
その答えに安心して持っていたカップに口をつけるとレモンの香りが鼻を通りぬける。お互いに忙しく、久しぶりに会えたと思ったら三ヶ月もたっていた。ここ最近は特にシオンは忙しくしていたようだ。改めて見るとやはり少し痩せたように見える。
「ちゃんと休んでいる?」
「大丈夫、休んでるよ。ルカこそ休んでるの?よく研究にのめりこみ過ぎてたよね」
「さすがにもう落ち着いたよ」
それからは今まで会えなかったぶんの積もった話をたえまなく話す。子供のころからの夢だった研究職は大変だが充実していて生活が仕事中心になりそうなほど、もちろん仕事も好きだがシオンと会っているこの時間はそれとは全く別の満たされる思いがあふれる。テーブルの上にはくるみの入ったスコーンにレモンの香りがする紅茶、そして目の前に座る幼馴染、この穏やかな時間が私はとても大切で好きだった。その満ち足りた気持ちを取り込むように紅茶を一口飲む、紅茶が喉を通り腹の中にじんわりと広がると自分が感じた幸福感が体の中に染み渡っていくような気がする。月に一度・・・いや本当は週一にでも会って話したいけど、シオンは私以上に大変だろう、なにせこの国を守る仕事をしているのだから。
あの幼かったシオンがこんな風に成長するなんて正直思ってもいなかった。
「仲良くしなさい」そう祖父から言われ、紹介された子がシオンだった。当時色々な事情で外国からこの国にきたということだけは祖父からまだ子供だった私に理解できるようわかりやすく説明されなんとなくわかっていたはずだった、というのは目の前にいるシオンに釘付けになり祖父が話したことなんて頭の中から飛んでいってしまったから。
初めて見る外国人だったから、といえばそれまでだがそれだけではないと私は思っている。この国の人よりもすっきりとした顔立ち、夜のように不安になりそうなほど黒くて艶のある髪、瞳は深い海の青で、飲み込まれるほど綺麗だった。私は一目シオンが気に入り、それからはこの国の言葉をまだ簡単な挨拶や単語しか喋れなかったシオンにまるで自分が先生にでもなったかのように次々に教えた。シオンもシオンで覚えがよく、すぐに吸収していくのでますます私は得意になる。他にもシオンと遊びたくて子供たちの間で流行っている遊びを教えた。こんなに可愛い子に私がすべてのことを教えているかと思うと嬉しくて、誇らしく思った。
そんな私の行動にシオンも徐々に心を許してくれた。
それからシオンも大分流暢に話すようになり数年たったある日のことだった。シオンと遊びに行く約束をし、待ち合わせ場所に着いたときシオンがいなかった。いつもなら約束の時間より少し早くにいるはずなのに、と思いながらも待っていたがいくら待てど暮らせどシオンは来ない。時間が一秒過ぎていくたびに不安に駆られ辺りをきょろきょろと見渡すが落ち着かない、どのくらいたったのだろうか気づけば走り出していた。
待ち合わせ場所からシオンの家まではそこまで離れてはいない、わき目もふらず夢中で走る、走っているからなのか不安だからなのか心臓がばくばくと激しく脈打つ。
ちょうどシオンの家が小さくだが見えた時、シオンの祖母が出てくるのが見え、咄嗟に大声で呼び止めるとこちらに気がついてくれ待ってくれた。
「アーダおばあさま!!」
「ルカ、今行こうとしてたの。ごめんなさいねこんなに走らせてしまって」
「いいえ、あの、シオンとっ・・・・・約束を、していて・・・」
上がった息もそのままに、途切れ途切れになりながら聞こうとするとアーダおばあさまは眉を下げ、悲しそうな顔をする。息が上がって頭が回らなくなり、なにか変なことを口走ったのかと不安になる。
「ルカはシオンのこと、好きかしら?」
突拍子もない問いかけに混乱しだが私はその問の意味を深く考えることなくすぐに答えた。だって私にとっては考えるまでもなく、するりと言葉に出来る。
「はい、もちろん大好きです」
答えた途端、アーダおばあさまはほっとして、そしてなんだかとても嬉しそうな安心したような表情になり、いつもの温かい雰囲気に戻る。話したいことがあるから家に入ってと促され中に入るとほのかにまろやかで甘いいい香りがした。
「あの子にホットミルクを飲ませたの。ルカにも、って言いたいけど走って喉が渇いたでしょう。お茶を出すからそこに座って待っててくれる?」
「ありがとうございます、でもよければホットミルクを飲んでみたいです。シオンが前にアーダおばあさまのホットミルクがおいしいと言っていたので」
「そうなの、じゃあホットミルクでもいかしら?」
「ぜひ」
シオンがおいしいと言っていたことを伝えるとアーダおばあさまは顔をほころばせる。ホットミルクはシオンに出したものが残っていたのだろう、すぐに出された。やさしく甘い香りがするそれを飲むとほんのりハチミツの風味がして聞いていた通りのおいしさだった。すべて飲み終えるとアーダおばあさまは言葉を選びながらゆっくりと話してくれた。
「遊びに行ってくるって家を出て行った後、カール、近所に住んでいる人なんだけどね、その人に背負われて戻ってきたの、足に怪我をして。シオンになにがあったか聞いても一言も喋らなくて・・・そしたらカールがこっそり教えてくれたんだけど・・・・・・あの子は遠い国から来たのは知ってるわよね。顔も言葉も髪も文化もたくさん違うところがあるでしょ?そのことで嫌なことを言われて、怪我はたいしたことないんだけど心が落ち込んじゃって・・・」
そこまで言うとアーダおばあさまは苦しそうな顔をして目線を下げ言葉を詰まらせる。
さっきまで温かかった体が一気に冷えた、あんなに可愛い子に、綺麗な髪に、瞳に、酷いことを言う人が、私の大好きなシオンにそんなことを言う人がいるなんて信じられない。そういう感情を向けられるというのが衝撃的で、世の中にそんな考えがあってしかもそれを人にぶつけて傷つけるなんて。心臓の中いっぱいに水が入っているかのように冷たく不規則に揺れ落ち着かない。とてつもなくシオンに会いたい、そう思って会えるか尋ねたところ、アーダおばあさまは快く了承してくれた。何度もシオンの部屋で遊んだことがあるのでいつものように部屋へ向かおうとする。
「シオンを頼むわね」
後ろからかけられた言葉に振り返る、そこにはいつものように微笑んでいるアーダおばあさまが佇んでいた。私は「はい」としっかりと返事をして部屋へ向かった。
シオンの部屋のドアをゆるくノックをして声をかける。
「シオン、入ってもいいかな」
「ルカ?・・・うん、いいよ」
少しの間があり了解の返事が聞こえる。こころなしかあまり元気がないように感じて胸がざわついてしまう。労わる様にゆっくりとドアを開けるとベッドに腰掛けたシオンがいた。足に怪我をしたと聞いたけれど服で隠れてどんな具合かは分からない。
「ごめん約束したのに」
「ううん、気にしないで」
「・・・・・・おばあちゃんから聞いた?」
「うん少し」
「そっか・・・」
アーダおばあさまから話を聞いたそのときから私は、シオンを守りたいと思った。私が今まで生きていた世界はそこまで優しくも、綺麗なものでもないんだとついさっき思い知り、大好きなシオンが傷つかないように、もし傷つけばその傷を癒してあげたい、出来ることなら傷つくことがない美しい世界で生きることが出来ればいいのに。・・・そんな夢物語のようなことまで思うほど、シオンが悲しまないよう守りたいと、そう思った。
「シオンの髪は黒くて綺麗で、私は大好きだから」
シオンは驚いたように目を見張る。なるべくやさしくまろやかに私の思いが伝わるよう、シオンの心に沁みこんで優しく柔らかく内側から癒してくれるようにと丁寧に言葉にする。この言葉もシオンをあらゆることから守って癒してくれるようにと。
「ありがとう・・・ルカの茶色い髪も好きだよ、お菓子みたいでおいしそうで」
「なにそれ」
頬を染めていたずらっぽく笑うシオンに安心する。それからは横に並んで座りさっき出してもらったホットミルクのこと、最近生まれた弟のこと、たえまなく話をした。少し元気のないように見えたシオンもいつもと変わらない様子になっていき、それがまた私を嬉しくさせるので話すのに夢中になっていたから気づかなかったのだろう、シオンの横にふと本が見えた。それが妙に気になって聞いてみる。
「その本、どうしたの」
「あぁ、これ?・・・これね故郷の本なんだ。時々読みたくなるんだ、寂しくなったり落ち込んだりしたときに・・・じつはさっきも読んでた」
少し気まずそうな、恥ずかしそうな表情でシオンは言う。そうなんだ、と、いつものように自然に返事をした私の心は複雑だった。シオンを癒してくれるものがあるのは喜ぶべきことなのに、なぜだかそれが悔しい。シオンを喜ばせたり、癒したり、自分が何かしてあげたいのにそれが本当は必要なくて無意味なんじゃないかと思ってしまう。ついさっき、シオンの心を癒したのは自分じゃなくてその本じゃないのか。
嫌な考えばかりが浮かんでしまう・・・癇癪を起こした子供みたいだと自分が情けなくなる。そこからあとは何を話したのかよく覚えていなかった。