花は桜木、人は梅
私の家には、わずかながら庭があり、そこには一本の小さな梅が植えられている。
私が生まれるずっと前に植えられた、ちょっとした老木で、よくこんな狭くて、栄養もない土地で生き続けるものだと感心する程度には、生命力も強い。
「……今年も、咲いてくれましたか」
咲いたと言っても、それはまともに手入れもされていない老木。ほんの数輪が、ちらほらとほころび出した程度。
それでも、十分美しいのですがね。まだ肌寒い季節柄、袖口に手を入れながらそんなことを思う。
「梅見で一杯、というのもまたオツというか、粋かもしれませんが……道路に面していては、座ってのんびりとはいきませんねぇ」
かといって、家の中からでは見えない位置に植えられているので、この梅を愛でるためにはこうしてのんびりと眺めることくらいしかできないでしょうね。
そう思いながら、ぼんやりと梅を眺めていると、たくさんの足音が私の後ろを通りすぎていく。
無理もない。人の家の花、それもこんな少ししか咲かない梅に見とれるような人はいないのでしょう。
しかし、足音の一つが途中で止まった。
いったい誰が。そう思い、足音の方へ振り返る。
「良い梅ですな、お若い方」
和装の老人は、私が振り返ったことに気付き、柔和な笑みを浮かべながらそう口にした。
「それはどうも」
「おや、その口ぶり……この梅は、お若い方のお宅で育てられている梅ですかな?」
「育てるというほどではありませんが、まあそうです。世話の一つもしてやれない、駄目な主人で……これには申し訳ない限りですね」
「ほっほっほ。本当に駄目な主人なら、今のように梅の花を愛でるようなことすらしませんよ」
老人はそう笑うと、梅の木に視線を戻す。
「それに、梅もまた生き物。生き物には心があるものです。このような老木が花を咲かすのは、自分の花を愛でてくれる、お若い方がいるからと思えばこそかもしれませんよ?」
「その程度で咲いてくれるのであれば、いくらでも眺めるのですが……」
私の言葉に、老人は笑みを深める。
「あなたがそう思ううちは、きっと咲いていてくれますよ、お若い方。しかし、梅は百花の先駆けと言いますが、お宅の梅はのんびりとしてらっしゃる」
「それだけ年寄りで、環境も悪いからでしょう。この場所では、日光も当たりませんから」
「しかし、花は桜木、人は梅。その言葉にはなんとなくしっくりくる梅です」
老人の言葉に、私は首をかしげた。
花は桜木、人は梅。聞いたことのない言葉ですね。
「似たような言葉なら知っていますが……人は梅、ですか」
「ああ、これは失礼。そうですな、本来なら、花は桜木、人は武士。花も人も、散り際は潔く、美しくあるのが理想……ですが、この老いぼれは思うのです。人とは、梅のごとくあるべきなのではないかと。特に、他に遅れようとも、花開く、この梅のように」
「梅のごとく……?」
おうむ返しになってしまった私の言葉に、老人は「左様」と言って懐に入れていた手を梅に伸ばす。
「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿という言葉があるでしょう。桜は非常に繊細で、どこか弱々しい。ところが、梅は伐らねば無駄な枝がついてしまい、なおかつ伐られてなお、枯れることはない」
「……なるほど。この世の中では、人は桜より梅の方が望ましいようです」
「年齢にかかわりなく、その繊細さゆえに己を殺すことは悲しいものです。だからでしょうな。老いぼれの家では、一種の家訓のようになっているのですよ」
「花は桜で良くても、人は梅のように力強くあれ、と?」
「そういうことでしょうなぁ。それに、花も実もあるほうが、人も良いものでしょう?」
「見た目に美しく、実用的でもある……聞けば聞くほどに、人は梅であるべきだと思えます」
私の言葉に、老人は微笑み、頷いた。
「桜は散るもの、梅はこぼれるもの。こぼれると言う理由は、桜よりもゆっくりと散るからだと聞きます。それを往生際が悪いととらえるのはご自由にどうぞと思いますが、最後まであがいて何が悪いというのでしょう」
「ごもっともです。特に、つぼみの頃から香るような人間ならば、最後まであがききって、それから散ってほしいものですね」
「おや、お若い方にしては、ことわざにお詳しい」
「私はいわゆるおばあちゃん子だったものですから。祖母から様々な言葉を教わり、それを偶然思いだしただけですよ」
「なるほど……梅木学問ではないようですなぁ」
「楠ほどではありません」
私がそう返すと、老人はどこか嬉しそうに笑い声をあげた。
「梅に始まり、楠に終わるとは……いやはや。近ごろの若い方と話をしているとは思えませんでした。良い冥土の土産です」
しかし、ふいに懐中時計を取り出すと、細い目を見開いてそう言いだした。何か時間が迫っているのでしょうか。だとしたら、あまり引き留めるのは悪いですね。
「ご冗談を。あなたこそ、梅のような方なのです。まだまだ生きていただかねば」
「嬉しい言葉をありがとうございます、お若い方。またお会いできる日があるのならば、その日を楽しみにこの老いぼれも生きていけるというもの。その時までに、また新しい話をできるようになりましょう」
「ええ。私の知らない言葉を、たくさん教えてください。では……次は、桜の下ででも、お会いしましょう。この近くの公園は、なかなかいい桜を咲かせますから」
「そうですな。では、これにて失敬」
離れていく老人の後姿を、私は見えなくなるまで見る。
「……花は桜木、人は梅。あなたのおかげで、面白そうな方と出会えましたよ」
私は、そう梅に語り掛けると、家の中へと戻った。
どこか誇らしげな梅の香を感じながら。




