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I didn't mean to hurt you

「あー……ダメだ。ちょっと外行ってくるわ」

「え、修さん、またですか?」


 横のデスクで修さんとヤノ先輩がやり取りしているのが小耳に入った。午前中にもそう言って出ていったきり、1時間程帰って来なかったことを思い出す。昨日は違うが一昨日も外出してたし……思い返せば最近多い。平均すると、週に3〜4回は理由不明で外出し、しばらく帰ってこない。

 署の扉を潜って出ていく修さんの後ろ姿を見送ってから、隣のヤノ先輩にこっそり尋ねてみた。


「修さん、最近どこ行ってんすか? 捜査関連じゃなさそうだし、長いときは2〜3時間帰って来ない日もあるし……」

「それが分かれば苦労しないんだけどね……。聞いても教えてくれないんだよなぁ。携帯あるから良いだろって言って」


 ヤノ先輩はため息をつきながら、修さんのデスクから書類を取り上げ、半分を俺の机に乗せた。


「……ちょ!? なんですか、これ」

「大丈夫、最後のチェックは修さんにやってもらうから」

「何が大丈夫なんですか! こっちの事件、山西の件と平行して修さんとヤノ先輩がやってたヤツですよね? 俺、話しか聞いてないですよ」

「とにかく書けって。令状取らなきゃ捜査出来ないんだから。証拠は揃ってるから後は書式だけなんだよ」

「ヤノせんぱーいっ!」

「出てっちまったんだから仕方ないだろが!」


 一喝されて、仕方なく手元の書類に向かった。おかしい、修さんは豪放磊落なタイプではあったけど、書類仕事とか嫌いな人ではあったけど、こんな風に部下に嫌なことを押し付けて――いや、押し付けさえせずに無言でどこかにふらりと行ってしまうようなタイプではない。


「……ヤノ先輩」

「黙って進めろよ」

「修さん、プライベートで何かあったんですかねぇ……?」


 一瞬、ヤノ先輩の指が止まった。が、すぐに再開したキーボード音と返ってこない声以外に、答えはなかった。



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 呼び出された文面で既に、焦っている感じを受けていた。

 いつもの喫茶店、いつものブレンドももう慣れたものだ。初めてこの店を知ってから、今日まで何度かここで梶谷と会っては話をしていた。話の内容は世間の流行の話や小さい頃の思い出、読んだことのある本の話など、取り留めもないものが多い。

 警官として相談に乗るというよりは、ただの友だちのような感じで……そう思ってしまえば、梶谷とは年も近いしどうやら好きな本の傾向も似てるようだから、それはそれとして楽しむことが出来た。


 たとえ、時折見せる寂しげな視線や、セーターの隙間から覗く背中の白さに、どきりとすることがあったとしても。


 だが、今回はどうやら違うらしい。

 「相談したいことがある」というショートメールとそれに続く言葉から、言外に専門家としての意見を求められていると感じた。3年目のペーペー警察官が、期待に添えるかどうかは分からないが……。


 非番の日、約束通りに到着した喫茶店で、梶谷は座って待っていた。ドアを開けた俺に気付き、小さく手を振る。


「待たせたか?」

「全然。時間ぴったりだね、さすが警察官」


 何が警察官的なのかは分からないが、世間のイメージというヤツだろう。テーブルに置かれたコーヒーカップの中身は既に3分の2がなくなっている。「全然待ってない」ワケがないなんてことはすぐに分かった。

 俺の視線で、こちらが気付いたことに梶谷も気付いたらしい。さっと頬を染め、恥ずかしそうに笑う。苦笑を返した俺は、マスターにブレンドを2つ頼んだ。

 テーブルに新しいコーヒーカップが2つ並んだところで、梶谷が俺に唇を寄せるように身体を傾けた。


「ちょっと聞きたいことがあって」

「相談したいって言ってたな」

「うん……こんな手紙がきたんだ」


 すっと差し出された白い封筒を受け取る。宛先には梶谷の名前。差出人は弁護士事務所。

 中を見ていなくても大体分かってしまった。


「……示談の申し入れか?」

「すごい、やっぱり詳しいんだね」

「いや、他にないだろ……中見ても良いか?」


 梶谷が頷くのを待って、封筒を開ける。

 中は予想通り、弁護士からのストーカー規制法違反に関する示談の申し入れとともに、山西から謝罪文を送りたい、という内容だった。


「ねぇ、山西さんは公務執行妨害で逮捕されたんじゃなかったの? 何で俺に示談を申し入れるの、警察に申し入れれば良いじゃない」

「や、公務執行妨害には示談はないんだ。あの夜の現行犯逮捕は確かに公務執行妨害だったけど、現時点では山西は2つの罪で送検されてる。1つは今言った公務執行妨害、もう1つはストーカー規制法の第3条違反。今、あんたのとこに来てるのはストーカー行為……つまり、あんたに付きまとったことに関して、示談したいって希望だな」


 警察は付きまとい行為に関して、逮捕前に一度山西に警告している。公安委員会による禁止命令は出ていないが、それでも6ヶ月以下の懲役、もしくは50万円以下の罰金刑だ。


「ストーカーに関しての示談? そっちだけ示談ってそれって何か意味があるの?」

「あるよ。まあ勿論、民事関係でってことだけど、こないだの法改正で刑事事件については非親告罪になったから……」

「待って待って。ちょっと分かりづらくて……ごめんね、僕、法律関係はめっきり疎くて」


 自分の知識のなさを恥じているような悄然とした様子に、俺は慌てて手を振った。


「悪い、そういうつもりじゃないんだ」


 俺にとっては職業上常識の話でも、一般にはそもそも民事と刑事の区別も付かない人だって多い。そのことは知ってたはずなのに、自分が知ってる分ついつい全部言いたくなってしまう。少し考えてから、梶谷にも分かるようにまとめることにした。


「ものすごくざっくり言うと、あんたが山西の示談や謝罪文を受け入れれば、山西の処罰は軽くなる可能性が高い。もしかしたら、不起訴処分になるかも」

「不起訴って?」

「裁判にならない、処罰されない、前科がつかないってことだよ。公務執行妨害っても今回みたいに本件がある場合、そっちが不起訴なら一緒に不起訴になることはままあるんだ。山西の場合、ストーカーについての自覚はどうか知らないが、行為自体は認めてるし、謝罪・反省して被害者が受け入れれば、不起訴は十分有りうると思うぞ」

「処罰されない……」

「もちろん、示談には慰謝料がつくと思うから、金銭面ではあんたには有利になると思うけど」


 梶谷の端正な顔が、苦しげに歪んだ。


「……僕が選ばなきゃ、ダメ?」

「別に選ばなくても良い。無視してりゃ、あとは検察が決めてくれる」


 何度か会う内に、梶谷が優しい人間だということは分かっていた。いや、優しさというよりも……人を傷付けるのが怖い、という感じか。

 だから多分、山西の誘いを最初は明確に断れなかったのだろう、ということも分かっていた。梶谷が複雑な人間であることは事実なのだ。もちろん、山西の言うことを認めるつもりはないのだが。「嫌だ」と言ったらそれは嫌なのに決まっている。


「あんたを困らせたヤツだ。別に不幸になるのを願っても良いと思うがな」

「不幸になって欲しいなんて思ったことないんだ……。ただ、あんな風に何度も脅されるのは怖いし、こっちにその気がないのに恋愛感情を向けられると困る。だから、彼が僕に近づかなければそれで」

「それなら、謝罪を受け入れて金取るのも1つの手だな。当然だが、示談の条件に接触不可ってのを付け加えておけば良い」

「……あの人、その約束をきちんと守ってくれるだろうか」


 不安げな表情の理由は、俺にも良く理解出来た。起訴されて懲役になれば物理的に近寄れない。取調の時のあの様子じゃ、山西は自分の犯罪行為を自覚していない可能性もある。その状態で野に放されれば、また同じことに――いや、前より酷いことになる可能性がある。

 逆に、起訴されたところで罰金刑になる場合もある。それに、謝罪を受け入れないことで逆上して、釈放後に逆恨みに走るってのもなくはない。

 どちらの方が良いかは、俺にも分からない。

 ただ、梶谷の青褪めた顔を見ていると、何か慰めてやらなければならないと思った。


「あんたの納得いく方を選べよ。警察としては明らかな事件になるまでは何もしてやれないけど……俺個人としては、あんた、友達だと思ってるし。力になってやりたい。怖かったり困ることがあっても、こうして呼び出してくれれば……山西程度のヤツなら、ぶん殴ってやれる」

「中野さん……」


 少しだけ安堵した様子で、薄い唇が緩められた。

 細い指先がテーブルの上を滑って、コーヒーカップに添えられた俺の手の甲に触れる。


「ありがとう」


 表面だけをくすぐるように撫でた指先は、すぐに離されたけれど。

 その、絹を滑らせるような優しい感触だけが、いつまでも心に残っているような気がした。

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