Wake up and smell the coffee
もやっとはしても、送検してしまえば、山西の件からは手が離れてしまった。
逮捕祝の飲み会も終わり(結局、会計は修さんとヤノ先輩が2人で負担してくれた)、普段の生活安全課の仕事が戻ってくる。山西の起訴処分が確定すれば、今度は正式に打ち上げをするかも知れないが、3人とも、もう頭の中は別の事件に移っていた。
そんな日常の中、たまには非番の日だってある。
久々の非番、何をしようかと前夜までは色々考えていたが、目が覚めたときには昼過ぎだった。
半日無駄にしたような気がしなくはないが……まあ、大体こんなもんだ。冬の朝は布団の中が天国過ぎて、あっという間に過ぎていく。
日が高くなって来た頃にようやく身支度を整え、寮を出た。昼食の時間が終わっているので、食堂では飯が食えない。
電車に乗れば大きな街まで出ることも出来るが、どうするか。駅まで歩きながら悩み、結局は寒さに負けて、駅前のコーヒーショップに入った。まだ春は遠い。
この小さな街には1つきりのチェーン店だ。正直もうどのメニューも飽き飽きしてる。でも、ここ以外に食べるとこなんてないから仕方ない。
自動扉を潜ると、平日の昼間ということもあってガラガラだった。コーヒーの香りが鼻先をくすぐる。
レジに並んで軽食メニューをよーく眺める。どれもこれも一度は食ったことがある。季節限定の新商品も既に3回は食った。とにかく店の選択肢がないのだ。
やっぱり電車に乗って、せめて隣町まで行くべきだったか、でも中まで来て帰るのも何だかなぁ……と思って顔を上げた瞬間、レジの内側にいる店員と目が合った。黒い縦縞ベストと白いシャツをスマートに着こなす男の顔に、何やら見覚えがあるような気がする。向こうも俺の顔を見て、驚いたように軽く目を見開いた。
「刑事さ――あ、中野さん、でしたっけ……?」
「あんた、梶谷か」
山西の件で、被害者だった梶谷だ。お仕着せのはずの縦縞のベストなのに、この男が着ると何故か優美なラインを描いてるように見える。飲食店を意識してか、少し長めの髪を後ろで結わえていて、うなじがあらわになっていた。
一瞬思考が止まったけど、しばらくしてから、わざわざ名前を呼び直してくれたのは梶谷の心遣いだと思い当たった。
「……ああ、今日、俺非番だから。呼びやすいように呼んで良いよ」
普通、制服を着ていなければ休みだと思うものだろうが、警察の場合はちょっと事情が違う。時々言われるのだが、こちらが制服を着てないと私服の張り込みだと思うらしい。目に見えてほっとした顔をしたので、やっぱり梶谷もそうだったみたいだ。
「……じゃあ、お名前で。中野さん、今日はお休みなんだ? 家はこの近くなの?」
「うん、そこまっすぐ行って、ちょっと奥に入った辺りにウチの独身寮があってな」
「独身寮……中野さんって独身なの?」
「何だよ。おかしいか?」
「おかしくはないけど……ちょっと意外。モテそうなタイプだし、落ち着いてるから結婚してるって思ってた」
くすっと笑った途端に、雰囲気が柔らかくなった気がする。空気が緩むって言うか。
整った顔立ちだけどそのせいで隙がない風に見えていたから、こんな風に笑うことも出来るんだって、俺の中でイメージが上書きされた。勿論、俺と梶谷の付き合いなんて、例の事件だけだ。自分が狙われているときにへらへら笑っていられるヤツもそういないというのも知っている。
だから――どっちかと言うと、あれだ。笑えるようになって良かったなって、そんな気持ちなのかも知れない。
コーヒーとサンドイッチを頼んだら、眉を寄せた梶谷が少しだけ身を寄せてきた。
「ねぇ、中野さん」
「おっ……おおっ!? 何だよ?」
最初、呼びかけられたことに気付かなかった。白い首筋に、髪が一筋かかる様子にいつの間にか目が奪われてたからだ。慌てて顔に視線を戻す。
「中野さん、この後って時間ある?」
口元を片手で隠して、こっそりと囁きかけられた。秘密を共有するような、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
「今日は非番だし。別に予定もないけど……」
「僕、もうすぐ上がりなんだ。どうせ飲むならさ、美味しいコーヒー飲みたくない?」
「……淹れてくれんの?」
部屋に誘われるんだろうか、なんて思った。だけどそんな想像は全然違ったらしくて、苦笑された。
「僕んち、コーヒーメーカーなんかないって。美味しい喫茶店知ってるから、こないだのお礼に中野さんにだけ教えてあげるよ」
「美味しい喫茶店……」
「……イヤ、かな?」
大して表情を変えた訳でもないのに、少し顔を伏せただけで随分寂しそうに見える。それだけで細い肩の頼りなさが顕になったように思えた。困ると言えば、素直に引くだろうというのも分かってしまうし。決まりがある訳ではなくとも、本当は仕事以外ではあまり関わらない方が良いんだが。
正直な話、美味しい喫茶店というのに心動かされた。飽きたサンドイッチ以外のものが食べたくなったのだ。
「えっと……いつ終わんの?」
吐き出すように答える。
何だろう、この微妙な気持ち。
うんざり……とは違うな。気が向かないワケじゃなくて、むしろ何と言うか……いや、良いや。考えるのは止めよう。とにかく新しい店を開拓したいだけだ、そう思おう。
梶谷の色の薄い瞳が、柔らかく細められた。
「良かった。あと5分で終わるから、急いで着替える。それまで待っててくれる?」
「……まあ。じゃあその間に買い物してくるわ。15分後にこの店の前で」
「うん、じゃあ後で」
何も頼まずに店を出て、夜中腹が減った時用のおやつなど買い漁りつつ、時間を見る。
5分。10分。15分。
約束より先に行くのは、尻尾を振って飛びつく犬のように浅ましく思われそうな気がする。じりじりと焦れながら、15分に2分程遅れて店の前に戻ると、頬を赤くした梶谷が整った唇を緩めて手を振ってきた。
「待たせたか?」
「今出て来たとこだよ、行こうか」
細い指先が羽織ったジャンパーの上から俺の二の腕に軽く触れて、触れただけで離れていった。
冬だから、厚着の上からで指の感触なんてほとんどわからないはずなのに、何だかそれだけで皮膚の内側をなぞられたようにぞくりとした。




