You are under arrest
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。
「来るな、刺すぞ!」
「動くな!」
腹から出した声の迫力で、刃を構えたままの相手の足元が揺れた。
逃げるか、それとも戦うか。向こうの一瞬の迷いは、俺にとっては絶好のチャンスだった。
踏み込む。
相手が握っている得物が再び、反射的に俺に向けて突き出される。刃がちりっと防寒コートの左腕を掠めたが、無視してそのまま腕を絡め取った。正面のガードが空く――腕を取りながら押し倒し、地面に押し付け、背中を膝で押さえる。
「――観念しろ!」
「うぐ……っ」
まともな悲鳴も上げられない被疑者の腕を更に捻り、手錠をかけた。
自分のことながら鮮やかな手並みだ。訓練通りの動きが出来たことにほっとして、止めていた呼吸がようやく戻ってくる。
夜の静寂に響かせながら、宣告した。
「――山西明夫。午後9時21分、公務執行妨害で現行犯逮捕だ」
弾む息が白く空中に溶けていく。
暗闇の中、男が身を震わせて唸った。押さえている背中の熱が、コート越しに膝に当たって温かい。荒い呼吸と熱だけが存在を主張するが、目立った抵抗はない。
付きまとい行為を数ヶ月も続けていた割に、案外呆気ない。公務執行妨害は別件逮捕になるかも知れないが、ストーカー行為に関しても証拠はほぼ出揃っている。両方とも送検出来るだろう。
気を抜いた訳ではないけれど、とにかく男の両手を拘束したことで、少しだけ気持ちに余裕が出来た。いつの間にか浮かんでいた額の汗を拭い顔を上げる。
街灯の真下、さっきまで男の手にあったナイフが落ちたままになっている。ぽかんと明るいそのアスファルトの上を、黄色いスニーカーが踏んだ。
細身のジーンズ、襟ぐりの広いニットから覗く華奢な鎖骨。色素の薄い髪が伸びた首筋にふわりとかかっている。
整った顔立ち。困ったように顰められた目元。震える唇。庇護欲を掻き立てるが――ニットの胸元はすとんと真下に降りている。肉のないシルエットからも男だということが明らかに認識できた。
それ以前に、俺は彼が男性だと元から知っている。何せ彼は今回の被害者で――逆上した山西が咄嗟にナイフを向けた先はたまたま俺だったが、実際のところずっと付け狙われて恐怖に耐えかね生活安全課に相談にきたのは彼なのだから。
彼は震える指先で、落ちていたナイフを拾いあげた。その足元が街灯で明るく照らされている。
「……佑樹……!」
被疑者が――いや、現行犯逮捕したんだから、もう被疑者ではなく犯人だ。公務執行妨害の犯人たる山西明夫が、膝の下から名前を呼びかける。光の輪の中に佇む彼に向かって。
彼は――梶谷佑樹は、淡い色をした唇をきゅっと引き締めた。
もう声すら与えたくない、という無言の主張がその姿から伝わってきた。
光の下に1人立つ梶谷と、暗闇の中を這う山西。
そこに境界線は明確に引かれた。
何を言おうが、今の山西はただの犯罪者でしかない。
苦しそうに呻く山西から、梶谷が黙って視線を逸らす。胸元に握り込んだ銀の刃がぬらりと光った。
その表情を見て彼の想いを理解したのだろうか。絶望したように山西が身体から力を抜く。
「佑樹、お前は何でそんな……」
「黙ってろ」
即座に手首を捻り上げて黙らせた。こういう場合はあんまり加害者の方に喋らせておくと、被害者の傷が深くなると効いている。
山西お声を聞いても、もう梶谷はこちらを向かなかった。
その細い背中の向こうから、見慣れたシルエットが近付いてくる。
「……修さん」
「おう、よくやったな」
俺の上司、警部補の修さんだ。
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、寒そうに肩を震わせる。それから、ちらりと梶谷の方を見て、少し笑って見せた。
「これで今夜は、梶谷さんにも安心して眠って貰えると思いますよ」
さすがに被害者に対しては丁寧な言葉を使っている。
どこか緊張の残る中でも、無理に微笑みを浮かべて、梶谷が軽く頭を下げた。
慌てて手を振った修さんは、梶谷の傍を離れてこちらに向かってくる。
そのまま俺の前まで近付いてきた時には、鬼のような顔つきに変わっていた。
「……あんたぁ、こっちだぜ」
俺の下から山西を引きずり出すように、パトカーへと引っ立てていく。
これでもまだ被疑者であった昨日までは山西に対しても丁寧にしていたから、犯行が確定した途端のこの対応の切り替えっぷり、俺は驚くばかりだ。
「中」
「はい」
呼ばれて、慌てて返事をした。
中野敬二だから、ナカ。安直なあだ名だが、警察学校時代も含めて3年目、さすがに慣れた。名前の方は、警官になるために生まれたようだ、なんて良くからかわれるから、苗字のあだ名で良かったと思う。
修さんが、声をひそめて囁く。
「……お前は、事情聴取がてら、しばらく被害者のフォローしてから車に戻って来い。こっちはヤノと2人で何とでもなる」
フォローなんて優しいことを言ってる間も顔つきは鬼のままだから、頭の中がどうなってるのか気にはなる。パトカーの中で、同僚の矢野村先輩が、俺の方をちらりと見てしっしっと追い払うように手を振った。
……まあ、ヤノ先輩も修さんも、本来的に優しいってことを、俺は良く知っている。
「何だぁ、その顔。おい、何か言いたいことあんのか? お? あんなほっそい身体でぶるぶる震えてんだぞ、可哀想だろが! 可哀想じゃねぇってか?」
「……なんでちょっと顔が赤いんですか?」
「あぁん!? お前、おれの言ってること分かってんのかよ!? おい、イェスかはいか分かりましたか、はっきり答えろ!」
「ああもう、分かってますって! ってかその質問、選択肢あるようでないじゃないですか」
「上司の言うことに口答えするなんざ、100年早いんだよ、馬鹿」
風体だけ見ていると、ほとんどヤクザだ。本当に体育会系な職場だと思う。無茶振り上等過ぎる。
100年も後なんて、修さんだけじゃなく俺もとっくに定年退職してるじゃないか。
「ええ、とにかく分かりましたから。詳しい聴取は後日で良いんですよね」
「ああ……。おりゃあな、ああいう細い身体見ると、折れちまいそうで心配になるんだよ……」
置き土産にそんなことを呟いて行ったので、俺はもうおかしくて仕方ない。何言ってんだ、修さんは。いくら頼りなさそうに見えたところで、あれは男なんだから。
もちろん俺に、そんな理屈で修さんの言いつけを破る勇気はない。
パトカーに向かってくだけた敬礼をしてから、梶谷のもとへ向かった。
「梶谷さん、大丈夫ですか?」
「……中野さん」
両手で自分の身体を抱いた梶谷の顔色は蒼白で、確かに折れてしまいそうにも見える。修さんの心配も分からなくはない。大きめのニットの襟から鎖骨が覗いている。袖からはみ出た指先に息を吹きかけながら、震える身体を抑えるように縮こまらせた。
震えているのは、多分、寒さのせいだけじゃない。
「情けないな、僕も。でもちょっと……さすがに」
「あー、ショック感じるのは皆一緒ですから、あんまり気にしない方が良いですよ」
3分の1位は気休めだが、残りは本音だ。誰だって、目の前で捕物が始まればびっくりしてショックを受ける。それもずっと自分を狙っていたストーカーが引っ立てられていくところを見たら……心に浮かぶのは単純な安心だけじゃない。無意味な罪悪感や後悔、自分で吐き気のするような憎しみ。そういうのがぐちゃぐちゃ混じっちまうから、あんま良い気分にはなれない……らしい。少なくとも、警察学校ではそう習った。
とは言え、だからって自分で経験したことじゃない。こういう場合のフォローって何すれば良いのか良く分からないが、頭を掻きながら自分だったらどうするか説明した。
「とにかくですね、寒いですから。暖かくして、風呂入って酒飲んで寝ちまうのが良いですよ。……あ、た、タンマ。あんた成人してたよな?」
言ってから、慌てて確認する。
警官が未成年に酒を進めてたなんてなったら最悪だ。
どうも焦る俺の顔がよほど情けなかったらしい。ようやく梶谷の張り詰めていたような頬が緩んだ。
「21だよ。……ありがとう、中野さん。お勧めに従って、今夜は風呂入って酒飲んでぐっすり眠ることにする。久しぶりに……夜中の物音とかでいちいち心配して起きたりせずに眠れるから」
複雑なのは確かなのだろうけれど、ほっとしたその笑顔も紛れもない真実だ。
その表情を見て、俺もようやく笑った。別に警官は正義のヒーローだと信じてる子どもじゃないけど、自分の仕事が誰かの役に立つのは素直に嬉しい。
後日、事情聴取のために署の方に来て欲しいことを告げて、その日はそこで別れた。
こんなに寒いのに、パトカーが走り去るまでずっと、見守っている梶谷の姿はバックミラーに映ったままだった。