カマボコ板にのった君は魅惑の天使
十一月。
深夜の台所で、冷蔵庫をあけた。途端。淡いひかりが、ボクをしらじらと照らしだす。
ほのかにきいろい灯りのなかに、あざらしが居た。
極ごく小さき。まっ白い、あざらしであった。
ひきわりおかめ納豆三段パックと、煮物のタッパーに挟まれ、小さく、ちいさくなっていた。
あざらしは何故なのか、カマボコ板にのっている。一応カマボコなのか確認の為に、頭とおぼしき部位を突いてみた。
すると、「きゅう」と鳴く。
生のあざらしらしい。
母は新発売と期間限定品に目がない。
衝動買いであろうか。生のあざらしの食し方を知っているのであろうか。長年の主婦の勘で、なんとかなるはず! のノリで買って来たのかもしれない。やれやれだ。
ボクは目的の茹でうどんの袋を取り出し、すぐにも戸を閉めた。
閉める寸前、「きゅううぅ」という、か細き声がもれ聴こえてきたが無視した。若干後ろめたい気持ちがあるにはあるが、何せ忙しい身の上だ。面倒事は御免であった。
時刻は午前一時。
年期のはいった片手鍋に水をいれる。
受験生のボクは、今からあたたかな一杯のうどんを喰うのである。
ドラマなどでは、こういうものは母親が作ると相場が決まっている。
熱々のうどんを盆にのせ、勉学に勤しむ息子の部屋のドアをそっとーーあくまで遠慮がちにノックをし、「あっくん。お腹空いていない?」
優しい笑顔つきでそう聞くものだ。
しかしボクの母親に限って、そのような気遣いはない。いっそ潔よいほどにない。
中学生の勉学というものは、将来の自分への投資である。
受験は人生の一大イベント。この理不尽かつ運試しのイベントを、知恵と忍耐力で乗り越えたまえとばかりに、放っておかれる。
流石に夜食用にと、うどんや、パン。餅などのストックは豊富に買い置きしてくれる。
何故か夜食の定番、カップ麺はない。たまにばあちゃん家で食べると美味いので、残念でたまらない。父さんは昼の職場で弁当のない時に食べているらしいけど、中学生のボクには、そこまで飲食にかける金銭的余裕はない。
なので夜中にうどんを茹でる。
沸騰している湯に、粉末スープをいれる。
鰹だしの食欲をそそる匂いが、ふんわりと台所にたちのぼる。
そうだ。豪華に天かすと生たまごを入れよう。カマボコも。そう思い冷蔵庫を再び開ける。
天かす。たまご。そして、あざらし。
そうだった。かまぼこはなかったのだ。いるのは、あざらしであった。
まっくろい。石炭のようなあざらしの目玉と目があった。
あ、やべ。咄嗟にそう思ったが遅かった。
あざらしは、躯にあったサイズの鰭をばたばたと振る。そうしながら、器用に自分が乗っているカマボコ板を前へ進める。
「きゅうきゅう。きゅううう」
哀れを誘う声をだす。
これで閉めたら、多分後悔の念に苛まされる。
ボクは基本良い奴なのだ。
恐るおそる、カマボコ板のあざらしへと手を伸ばした。期待に満ちた綺羅きらした瞳で、あざらしがボクを見あげる。
結構可愛い。
いや、かなりかわいい。
女子ならイチコロだ。食べるなんてもったいないし、野蛮でさえあるように思えてくる。
よしよし。これはボクがもらうとしよう。
ボクの伸ばした指先が、あざらしのふくよかな躯に触れた瞬間であった。
「この鬼畜めがっ!!」
日本語でそう叫ぶなり、あざらしはボクの指に噛み付いた。
「いてええっ!」
問答無用の暴力。ボクは悲鳴をあげた。
それでもあざらしを落としはしなかったボクを誰か、誰でも良いから褒めて欲しい。
これは父の教育の賜物だ。
動物。植物。一度でも手にとったものは、最後まできちんと世話をすべし。小さきものの世話もできない奴は、我が家で喰う飯はない。そうとまで言われて育ったのだ。
だが酷い。
受験生の右手を噛むなど、どっちが鬼畜だ。この悪魔め。
ボクは手のなかでじたばたと暴れるあざらしを、ぎゅむむむと握りしめた。掌いっぱいに伝わってくる、吸い付くような滑らかな感触。
そしてなんともいえない、もっちりとした質感。
見た目だけならば愛くるしい小動物であるが、相手は暴れながら尚ボクの指を噛み続ける。
「いてえ、いてええ」と、ボク。
「きゅううう。きゅううう」と、あざらし。
このままでは双方埒があかぬ。
下手をしたら両親が起きて来る。そして説教だ。空腹を前に説教などうけたくもない。
ボクはそっと空の丼のなかに、あざらしを落とした。あくまでそっとだ。だが丼のなかに入るやいなや、俄にあざらしは震えだした。
カマボコ板に乗ったまま、ふるふると白い躯を震わせる。
カマボコ板が丼にあたって、カタカタと音をたてる。まっくろい目の玉に泪を浮かべ、あざらしはボクを見上げた。
「たべるの?」
あざらしがそう言った。弱々しい声であった。
「え? あの、いや」
「たべるの? こんなに可愛いのに食べるの?」
「いや。そんな。いやいやいや」
ボクは慌てて頭を左右にぶんぶんと振った。
高速回転で振った。ちょっとふらふらしたけれど大丈夫。
カマボコ板にのる、ちっぽけなあざらしが話しているのだ。ボクの頭のふらつきなど、たいした問題ではない。
「たべるんだね……」
俯きながら、あざらしが言う。
丼の壁面に顔をおしつけ、絶望にそまった泪声をだす。
「食べない。日本人はそもそも、あざらしなんて食べないから」
「……ほんと?」
顔を押し付けたままなので、あざらしの表情は分からない。向こうもボクは見えていない。それでも構わない。ボクはうんと大きく頷いた。
「約束する。食べない」
「ああ。……よかった」
あざらしが、ぐりんっと勢いよくこちらを向いた。
その顔が想像していたのと、ちょっと違う。
さめざめと泣いていたと思っていたのに、妙に落ち着きはらっている。それだけではない。
あざらしは、どこか挑戦するような目つきをして、
「もし。たべるんだったら、きみを呪いころしていましたよ」
そう言うなり、ケッと丼へ唾をはいた。
ボクは無言で、手近にあった大皿を取り寄せ丼へ蓋をした。くさいものには蓋である。
蓋をして十分あまり。ボクがうどんをすすっている間、あざらしは閉じられた丼のなかから、
「うそですよーー!」
「可愛らしい冗談ですってば」
「ねえ。だして。ねえねえだして」
「おーーい。君。聞いている?」
「やだな、もう。すぐ本気にしちゃうんだから」
「けどそこがまた、君の魅力ですよね。ピュアっこだよね」などなど。
意味のない嘆願と、おべんちゃらを言い続けている。一方ボクは、すっかりのびたうどんに寂しい思いであった。
汁はもはやぬるい。
たまごは面倒でパスした。
うどんはふやけている。
丼のなかのあざらしは五月蝿い。
ボクは受験生なのに。世間一般では気を使われる立場なのに。
箸をもつ右手薬指がじんじん痛む。血がにじんでいる。
明日には紫色に腫れているかもしれない。
あざらしって、ばい菌を持っているのだろうか? 病院へ行くべきだろうか? 正体不明の菌がまわって、熱がでたりしたら、通っている新川塾の塾長に、冷たい声で罵られそうだ。
あざらしの事を後で、よくよく調べておくべきかもしれない。
いや。待てよ。
そもそもカマボコ板に乗っているあいつが、本当のあざらしであるわけがない。
そうだ。いくら新作好きの母親であったとしても、しゃべるあざらしを買ってくるであろうか? ではあいつは一体全体なんなのだ?
ボクはうどんを中断すると、そっと丼にかぶせた大皿を持ち上げた。
「おまえ……なに?」
こちらを見上げているあざらしへ問う。
「……ざらしろです」
躯をうんと伸ばして丼からなんとか脱出しようと、あざらしは鰭をばたばたと動かしている。
しかしカマボコ板が重いのか、少し上っては、すううっと底へ落ちて行く。
無様である。
「ざらしろ? ざらしろあざらし?」
そんな種類あったっけ? 聞いた事もない。
「ざらしろ もちこ。名前です」
「……もちこ」
すげえネーミングセンスだ。
白いからなのか? 白だから餅?
だったら、こいつの親兄弟。皆そろいも揃って、餅のつく名なのか? いや。待てよ。その前にこいつメスなのか?
「お前メスなの?」
だったら、もう少し優しくしてやろうかと思ったのが、甘かった。
「ふっ」
ざらしろもちこは、あざらしにしてはシニカルに笑った。
そこに多少の嘲りの色までそえている。役者にしたい程、表情豊なあざらしである。
最も丼を滑りながらなので、あまり格好良いとはいいかねる。
「こ。がつくからメスとか。君、馬鹿じゃないの。そうしたら蘇我馬子はどうなるの? 小野妹子は女なの? 馬鹿なの? 常識ないの?」
ボクは再度大皿を手にとった。
丼にかぶせて、ついでに上下に振ってやった。
バーテンダーがカクテルをつくる時によくやる動作を真似してやった。しかしあくまで軽くだ。そのくらいの優しさは持ち合わせている。
丼のなかから、あざらしの「やめてーー」という声と共に、かまぼこ板が器にぶつかる音が鳴り響く。
「うそうそ。ごめんなさい。許してー!」という雄叫びが聴こえてくるまで、ボクは丼を振りまわした。
※ ※ ※
不本意ながらも、カマボコ板にのったあざらしとの生活が始まった。
決してあざらしの可愛らしさに屈したわけではない。
なにせ相手は未確認生物。カマボコ板と合体している、手のりサイズのあざらしだ。
未知なるものへの好奇心は抑えきれなかった。
ちなみに冷蔵庫からざらしろが居なくなっても、母は騒がなかった。もしかしてカマボコと勘違いして買って来たのだろうか。聞きたかったがやぶ蛇になりそうで、ボクはざらしろの存在を家族には内緒にした。
小学生の時につかっていたポケモンの弁当箱で、ざらしろを飼った。底にはガーゼハンカチをひき、蓋には家庭科セットの目打ちで空気穴を開けた。
昼間は家族に見つかるなと、念おしをして食パンと水を置いて学校へ行く。
ざらしろは、やたら白いものばかり食べる奴であった。
耳をとった食パン。冷ましたうどん。素麺。ゆで卵のしろいところ。
豆腐。塩むすび。砂糖をいれた牛乳。
あざらしの癖に、魚は食べない。ほとんど見向きもしない。
名前についている餅は一度食べさせたところ、大変な目にあった。がっついて食べるものだから、喉につまらせたのだ。
ボクは咄嗟に指をざらしろの喉に突っ込んだ。それで吐かせる事に成功したものの、変わりにがっぷり齧られた。しばらくはシャーペンを持つとじくじくと痛み、ノートを書き取る時の不自由さに泣きたくなった。
しかし最初の凶暴さはどこへやら。ざらしろとの生活は、慣れてくるとそれなりに楽しかった。
謎のかまぼこ板さえ目をつぶれば、ハムスターの様な小動物を飼っている気分であった。
父の教えの通りにきちんと世話をしていると、やがて情がわいた。
情がわくと、大事にする。
すると増々可愛くなる。
ボクは噛まれても、怒らなくなっていた。ざらしろも無闇やたらと噛まなくなった。
噛んだとしても、はむりと甘噛みになっていた。
受験勉強の合間に面白可笑しく生活していたが、ざらしろがどう思っていたのか、本心は分からない。
勉強に疲れ、机でうたた寝をしていた時など、ボクは時々ざらしろの動き回る音を耳にした。
音はカツンカツンと聴こえてくる。
うす目を開けると、そういう時は決まってざらしろは窓辺に居た。
暖房で白く曇った窓に顔を押しつけ、外の様子を伺っている。そうしながら窓にはいあがろうとするものだから、カマボコ板が窓ガラスに当たって、カツンカツンと音をたてていた。
ボクはざらしろが寝ている時に、こっそりとかまぼこ板を外そうとした事がある。
痛がる素振りはなかったが、眠ったまま引っぱったざらしろは、みょーんと伸びるばかりであった。
そりゃあもう伸びる。
どこまでも。どこまでも。
みょおおおんとあまりに伸びるので、終いにはコワくなって、板を外すのは止めた。
窓辺に佇み、なにを見ているのか。見たいのか。
どこかに行きたいのか。
帰るべき場所があるのか。
ボクはなんとなく聞けなくて、狸寝入りをしたまま、大抵は寝入ってしまうのだった。
※ ※ ※
クリスマスケーキの生クリームを食べ過ぎた結果、ざらしろが更なるぽっちゃりあざらしになった頃だ。
「痒いです」
そう言って盛んに躯を短い鰭や、口で搔き出した。
それでも痒みが抑えきれないと、ボクに掻けと強請ってくる。掻いてやると、白くてふわふわの毛が抜けた。
ゴマフアザラシの姿が脳裏をよぎった。
ゴマフアザラシは成長と共に毛が抜けて、胡麻斑模様になるはずだ。ゴマフアザラシと同じならば、ざらしろも成長しているという事になる。
なんだか胸のあたりがざわめいた。
ざらしろに大きくなっていく証しだとは教えずに、余り掻くと禿げるぞと脅してやった。
ざらしろは「ひゃっ。禿げはいやです」と鳴いて、ふるふると掻くのを我慢した。
可哀想だけど、ボクは嘘を通した。
このまま毛が抜けて、大人になったら。
ざらしろはそれでもボクの側にいるんだろうか。そう思うと、身勝手だけど告げる気にはなれなかった。
変化はそれだけには収まらなかった。ざらしろが動く度に鳴っていた音が、変わってきたのだ。
前まではリズミカルにカマボコ板がカツンカツンと鳴っていた。それがカッツン、ツン。カッツン、フンと可笑しな具合に鳴るようになった。
ボクは巫山戯た振りをして、ざらしろのお腹をそっと指でまさぐってみた。
ざらしろは「うひゃひゃ」と笑って、太った躯をよじる。指で探ると、お腹とカマボコ板の間に、うっすらと隙間ができているのが分かった。
やっぱりだ。
フンのところは、ざらしろの腹の隙間がたてた空気のもれる音だった。
きっと毛がぬけて、大人になって、板がとれるんだ。
ボクの予感は日に日に現実になっていきそうだった。ボクは夜になると眠っているざらしろをひっくり返し、ご飯粒を練っては隙間につめた。普通の糊や接着剤を使ったら確実だろうけど、それでざらしろが、かぶれて病気になるのは嫌だった。
ボクはざらしろに意地悪をしたかったわけじゃあない。
ただ側に。もうちょっとだけ、いて欲しかっただけだったんだ。
※ ※ ※
お正月の一月三日。
ボクはこっそりとざらしろを連れて、外へでた。
受験生のボクは、冬休みも朝から晩まで冬期講習だ。唯一の休みがお正月で、それも四日からは又講習が始まる。
ざらしろをコートのポケットにいれて、近所の神社へ行った。お年玉で余裕があるボクは、帰りにはざらしろのリクエストで、ソフトクリームを奢る約束をしていた。
「あのグルグルのアイスが食べたいです」
寒空にも関わらず、ざらしろはソフトクリームを食べたがった。あざらしだけあって、寒さにはボクら以上に強いのかもしれない。
ボクは神社で受験用のお守りを買って、ざらしろには幸福の鈴なるものを買った。
ちいさな鈴には桃色で、桜の花の絵が描かれている。
ざらしろはポケットのなかで、鈴を首からさげて悦にはいっていた。
「ざらは可愛いので、可愛いものが似合います」
そう言っては、何度もなんども首を上下させ、鈴を鳴らす。
リンリン。プス。リンリン。プス。
ざらしろが動く度に、空気がもれる音がする。ざらしろだって、気がついているんじゃないだろうか。それくらい音は大きくなっている。
「ざらしろは可愛いですか?」
「うん」
「可愛いですよね?」
「うん」
「あっ君も、ついにざらにまいりましたね」
「まいった。まいった」
「やったです」
ポケットのなかから鈴の音がなる。空気のもれる音がする。その度に、ボクの胸が苦しくきしんだ。
海辺の公園に行った。
寒風吹き渡る、一月の公園に人影はほとんどない。ボクだってこんな時期に普通は来ない。
どうしても冬にソフトクリームが食べたければ、ショッピングモールに行けば良いからだ。モールだったら、十分温かい。冬のソフトクリームだって美味しく食べられる。けれど人混みの多い、正月のモールにざらしろを連れて行くなんてできやしない。
ボクは公園の寂れた売店で、ソフトクリームと暖かなカフェオレを買った。
ボクは海に面したベンチにそっと座った。
周囲には誰もいない。ボクはざらしろをポケットから出して、ベンチへ置いた。
「おそとです! 海です! ソフトです!」
ざらしろが、はしゃいだ声をあげる。汚れるからと、ざらしろは首から鈴を取った。
ボクはソフトクリームのコーンを持って、ざらしろの口元へさしだした。ざらしろは、寒さなど平気の平左のようだった。はむはむと美味そうに齧る。ボクは右手に持ったカフェオレをすすった。
ベンチのボクらに、これでもかとばかりに海風が吹き付ける。どこにも風をよけてくれる建物なんてない。海は灰色にうねっている。波がたかい。海鳥がぎゃおぎゃおと頭上を飛び交う。
「美味いか?」
「美味しいです。はむはむ」
ざらしろは満足そうだ。
「寒くないのか?」
「全然です。はむはむ」
「あざらしだから?」
「あざらしなので」
今度は、はむはむという音は聴こえなかった。
変わりにざらしろが、じっとこちらを見つめていた。
外の景色のなかで、かまぼこ板に乗っているざらしろを見るのは、なんとも不思議な光景だった。きっと通りすがりの人がいたとしても、ぬいぐるみだと思うに違いない。
それくらいざらしろは現実離れしていた。
なあ。お前はホントなんなのだろう。
幾度も問いかけるチャンスはあった。けれど最初の夜以降、ボクはざらしろに問いかけたことはなかった。ざらしろの可愛らしさに、目を瞑っていたのかもしれない。
苦手な問題から逃げてはいけない。
苦手だからこそ、取り組み、自分のものとすべし。そうしなければ、次なるステップアップは訪れない。
こんな時に塾長の言葉が頭をよぎった。
次なるステップアップ。
ざらしろと、ボクはきちんと向き合う時なのかもしれない。
「おーー」
おまえは、一体なんなんだ。
いつまでボクと一緒に居られるんだ。
帰るところがあるのか。大人になったらどうなるのか。
渦巻く疑問の最初のひとつを、口にだそうとした時だ。
「ざらは可愛いですよね」
ざらしろが、ボクの言葉を遮った。
「あ、うん……」
「かなり可愛いですよね?」
「まあ、そこそこ?」
「そこそこではありません。ざらの可愛らしさは特別です」
むっふんと、胸をはってざらしろが言う。その自信満々の態度にボクは笑った。
都合のよい、この展開に逃げたんだ。
「とくべつ。可愛い。ーーかもしれない」
「では、ひとつ。ざらを誉め称える詩をつくって下さい」
ざらしろが突拍子もない事を言いだした。
「し? 詩って、ポエム?」
「はい。そうです」
「やめろよ。無理ムリ」
「ざらの世界ではーー」
「え?」
「お付き合いや、結婚のもうしこみの時。相手を讃える詩をおくるのです」
「え? マジかよ」
「マジです」
「ボク流石に、お前とお付き合いはちょっと……」
「敬愛する友人にもおくります」
「え? ええーと」
ボクは正直混乱していた。ざらしろは、「ざらの世界」と言った。という事は、ざらしろの様にカマボコ板をくっつけたあざらしの世界があるって事だ。
しかもざらしろは、それを知っている。ちゃんと覚えているんだ。
「あっ君が、ざらをきちんと可愛いと思えるならば。詩をおくってください」
「……」
「短くとも結構です。心がこもっていたら、それはきちんと伝わります」
「……」
ボクはざらしろと、じっと見つめ合った。
巫山戯た目はしていない。しんと。凪ぎいた。穏やかな目をしていた。
もしかして。ざらしろは全部知っているんじゃないだろうか。
毛が抜けるのは、禿げになるんじゃない事を。
カマボコ板に、ボクがご飯粒をつめている事を。全部知って尚、ボクの気持ちに合わせてくれているんじゃないか。そう思うと、今までとは違う意味でボクの胸はきしんだ。
「君はーー」
ボクはざらしろの、まっくろい目を見ながら言った。
「カマボコ板にのった君は、魅惑の天使。……ボクは君が大好きだ」
顔から火がでそうなクサい台詞だ。詩というよりも、頭の悪い中学生の書いた小説の題名みたいだ。けどこれがボクの精一杯だった。
ざらしろは笑わなかった。
にこりと満足そうに微笑んだ。
「まあまあ。です」
そう言って、溶けかけたソフトクリームをはむりと齧った。
※ ※ ※
帰り道。
ざらしろがベンチに、鈴を忘れたと言い出した。
ソフトクリームを食べる時。外してそのままにしてしまったと言うのだ。
ボクらは慌てて公園へと戻った。ベンチに鈴は見当たらない。
小さいものだ。もしかして、風に押されて転がっていったのかもしれない。
ざらしろとボクは、公園の芝の間を四つん這いになって探した。
「ないねえ」
「ないです。どうしましょう」
ざらしろが狼狽えた声をだす。
公園の緑地帯は広い。落ちたとは限らない。
ボクらがいなくなってから、誰かが来てひょいと持ち去ったかもしれない。悪戯で、遠くに投げたのかもしれない。
「しょうがない。又買ってやるよ」
ボクがそう呟いた時だ。
ざらしろが、「あ、あそこ!」と叫んだ。
「え?」
「ほら、ほら。あそこ」
ざらしろが鰭で指し示した所に、白っぽいものがある。
冬枯れの芝に埋まって、ほんの僅かだけ顔をだしている。
「あった!」
ボクは躯をおこすと、鈴に向かってかけて行った。
ああ、良かった。あったね。
鈴を拾い上げ、ざらしろに向かって高く掲げてみせようとした時だった。
「あ、……あっ君」
ざらしろがボクを呼んだ。
震えるような。か細い声だった。
「あっ君。助けて……」
振り返ったボクが見たのは、一羽のカモメだった。
嘴をおおきく開けて、カモメはざらしろの前に立ち塞がっている。
「助けて。たすけて」
ざらしろが、じりじりと後ずさりをする。するとカモメも距離を詰める。
「あっ君! 助けて!」
「あっち行け!」
ボクは怒鳴りながら、走りだしていた。カモメが一気にざらしろとの間合いを詰めた。
陸上のあざらしは、俊敏とはいえない。おまけに、ざらしろはカマボコ板があって、その分重たい。
素早いカモメに勝てるはずがない。
「ぎゃあーー」
ざらしろが叫んだ。カモメがざらしろを鋭い嘴でつまみ上げた。
「たすけて! たすけて!」
ざらしろが、鰭をボクに向かってのばす。
「やめろ! ざらしろを放せ!!」
「あっくん! 痛い! あっくん、助けて」
ざらしろがカモメの嘴に挟まれたまま、身をよじる。
カモメが羽をばさりと広げる。やばい。飛ぶ気だ。
ボクはカモメに向かって鞄を投げつけた。
「あっくん! あっくん!」
「ざらしろ!!」
鞄はカモメに当たらなかった。
カモメはボクに怯える気配さえなく、ざらしろを咥えたまま、ついと空へと飛んでいった。
「ざらしろーー!」
叫んだボクの声に、かえってくる言葉はどこにもなかった。
※ ※ ※
ボクは日がとっぷりと暮れてから家へと戻った。
辺りは真っ暗で、帰るなりどこをほっつき歩いていたのだと、心配していた両親にこってりと怒られた。
普段なら親の説教など大嫌いだ。けどその夜のボクは黙って正座をして、親の説教を聞いていた。
ボクはざらしろを守れなかった。
ざらしろはボクの目の前で、カモメに連れていかれた。
カモメはざらしろを喰っちまう気で、連れて行ったんだ。
ボクのせいだ。カマボコ板がなければざらしろは、カモメの攻撃を防げたかもしれない。
大人になるって知らせていたら、もしかして今頃ざらしろの世界に帰っていたのかもしれない。カモメに喰われる事なんて、無かったかもしれない。
反論も弁解もなく。
項垂れて説教を聞くばかりのボクに、両親が動揺した。
何があったと聞かれても、ボクは何も話せなかった。
そのままボクは部屋へ戻った。夕飯なんていらなかった。
日中暖房をつけていなかった部屋は、しんしんと冷えていた。空っぽだった。
泪なんて、もう出てこない。
散々泣きながらざらしろを探して、浜辺を歩き回った後だった。
今朝までざらしろが、すっぽりと入っていた弁当箱がボクを無言で待っていた。
ボクは空っぽのポケモン弁当箱を手にとって、ベットに倒れた。
もう泣けないと思ったのに、もう一度泪がでてきた。
「あっくん」
ざらしろの最後の叫び声が、聴こえてきそうな夜だった。
ズボンの尻ポケットにいれていた鈴が、チリリと鳴った。
※ ※ ※
世の中は。一介の中学生のボクに、都合良くなどできていない。
ざらしろは戻ってなど来なかった。
ボクは淡々と日常生活を送り、受験勉強をして、学校と塾とを往復した。
夜食をつくるのは止めた。
夜中。冷蔵庫を開けるのがコワかった。
開けて、なにもない。当たり前のはずの事実がコワかった。
※ ※ ※
春。
桜のまだ咲いていない、入学式。
真新しい制服に身に包んだボクは、今日から高校生だ。
ワンピース姿の母が、外で「はやくして!」と叫んでいる。
ボクは革靴に足をつっこんでいた。中学までは運動靴だったけど、ボクの進学先の公立高校はローファーだ。
「あら。なにこれ?」
母が郵便受けを開けて、なにやら呟いている。
戸惑っているような感じだ。虫の死骸でもはいっていたのか?
「あつしー! あきらー! これどっちのなの?」
母がボクら兄弟の名を叫ぶ。
郵便受けから摘まみ上げたものを、振り回している。
遠目からでもソレが、薄汚れた長方形をしているのが見て取れた。外にでていたボクは、いち早く母の手からソレを受け取った。
「何、これ? 手紙なの? 流行ってるの?」
「うん……これは、ボクのだ」
ボクはちょっとだけでこぼことしたソレの表面をそっと撫でてから、ブレザーのポケットにいれた。
「そ。じゃあ行きましょう」
母が颯爽と歩き出す。
滅多に履かない、母のハイヒールがカツンと音をたてる。その音に、ボクは思わず笑みを浮かべた。
カツンカツンと、冬の窓辺に響いていた音に似ている。
ボクは立ち止まったまま、ポケットに手を突っ込んだ。
色あせ。ところどころ傷んでいるけど、間違いない。これはざらしろのカマボコ板だ。
まえさこ あっ君さま
カマボコ板には拙い字で、ボクの名が書かれている。
切手はない。誰かが、ボクの家まで来て。このカマボコ板を郵便受けに入れて行ったんだ。
まえさこ あっ君さま
ざらはなんとか、げんきです。
げんきになりました。
ごまもようになりました。
カマボコいたには、もうのっていないけど、あいもかわらず、みわくのてんしです。
ざらしろ もちこ
マジックの下手糞な文字。
ボクは笑いだしそうになるのを押し殺し、母の背を追った。
真新しいローファーはちょっと歩きずらいけど、なんだかやたら躯が軽く感じる春だった。
完
今回のシークレットお題を聞いて、2本書き始めました。「明」と「暗」。そのうちの「明」が本作です。
「ざらしろ もちこ」のモデルは、小学生の息子の持っているぬいぐるみのゴマフアザラシです。カマボコ板はついていません。家族間の脳内設定では「オス」です。けれど「もちこ」です。
ここまで読んでくださった皆様方、ありがとうございます。感想などいただけると、転げ回ってざらしろが喜びます。後、カラスウリも。
さて。主人公のあっ君。前迫兄弟の「まえさこ あつし」の名前にピンときた貴方は、カラスウリ作品のヘビーユーザーです。感謝状を差しあげたいです。主人公のあっ君は、あつし君でしょうか? あきら君でしょうか? 決めていません。前迫家は、奇妙な小動物を養う宿命でもあるのでしょうかね。笑。
尚、ざらしろがカモメから逃れた冒険談は「ざらしろ もちこ冒険記」で後日連載予定です。……嘘です。すみません。リクエストがあれば短篇で考えます。
原稿用紙換算枚数 約34枚。