第22話
一方、ようやく煩い蝿が黙った、とでも言いたげに満足げに唇の両端を吊り上げるオブセシオン。
最早此処に留まる理由は無いようで、レネードに目配せを送れば、
「レネード、私にしっかり掴まっているといい。一瞬で別の場所に移動するからな」
「一瞬で…? えっと、これでいいの…?」
驚きと戸惑いを孕んだ瞳でオブセシオンを見上げるレネードであったが、それでも彼を信頼しきっているのか言われた通りに彼にしがみつく。
…とほぼ同時にオブセシオンが詠唱していた呪文が完成し、傍にいるレネード諸共生み出された次元の割れ目に飲み込まれていった。
時刻にすれば、ほんの数秒のうちに起こった出来事。
2人の姿は煙のように掻き消えてしまい、後に残されたのはセオ達のみ。
──必死で食らいつけば、死にもの狂いで手を伸ばせば…きっとレネードの腕を掴む事が出来たかもしれない。
それは頭では分かっていたけれど…何故か身体が金縛りにあったようにピタリとも動いてはくれなかった。
否、理由は痛い程分かっていたのかもしれない。
恐かったから。手を伸ばして、またレネードに拒絶される事を何より恐れていたから。
自分を、何か奇怪なものでも見るかのような眼差しで見られるのは、耐え切れなかったから。
もう、自分は彼女にとって、要らない人間なんだ。
そう思うと、自分と彼女の間に決して乗り越えらない、壊せない透明の壁が横たわっているように思えた。
「俺は…結局、無力だ…」
セオはその場にうなだれ、吐き出すようにそう呟くしか出来なかった。
彼の瞳に映るのは絶望か、それとも…。
「……んぅ…? あ、あれ…此処は…?」
沈黙が辺りを包み込む中、意外なところから破られる静寂。
今までずっと気絶していたシノアがようやく意識を取り戻し、ゆっくりと上体を起こしたのだ。
「ようやく起きたかえ? 全く、目覚めの悪い奴じゃのう」
「そ、そんな事言われても……ってうわああぁっ!?」
久し振りに開けた視界に映り込むのは、冷ややかな視線で自分を睨み付けるセルネのドアップ顔。
流石にこれには驚きを覚えたようで、反射的に後ろに後ずさってしまった。
「悲鳴を上げるとは何事じゃ、無礼者め。全く…起きるのが遅すぎじゃ」
「うー…そう仰られましても、僕にも何が何だかさっぱりなんですが…。確か、城内を歩いていたら、急に意識が遠のいて…」
とりあえず、ずっと意識は失っていたものの特に目立った外傷も無く、体調に変化も見られ無いようだ。
訳が分からず頭上に“?”マークを乱舞させていたシノアであったが、彼の視界に映り込んだユトナの姿に表情が一変する。
「ユトナ…!? どっ、どうしたの、一体何があったの? ねぇユトナ、目を覚ましてよ!?」
あっと言う間に表情は強張り、不安と驚愕に支配された顔をぶら下げたまま鉄砲玉のようにユトナの傍に駆け寄ると、意識を失ってぐったりしているユトナを抱き起して必死に肩を揺さぶる。
だが、ユトナが反応する筈も無く。
「…シノア、落ち着くがよい。事情は後で説明する。今はそやつを安全な場所で休ませる事が第一じゃ。まだ、望みが消えた訳ではないからの…」
半狂乱になりつつあるシノアを宥めつつ、すでにセルネの思いはその先に辿り着いているようだ。
だが、彼女の言葉がシノアをさらに驚愕の渦へと叩き落とした。
「の、望みって…そんなにユトナは悪い状態なんですか? そんな…何でっ、何でこんな事になってるんですか!?」
「だから落ち着けと申して居るに…。その辺りの事も、追々きちんと説明すると申して居るじゃろう。しかし、妾が運ぶのは骨が折れる…おい若君、お主にも責任はあるのじゃからこやつを運んで参れ」
やれやれ、と溜め息を零したセルネの視線の先には、ロゼルタの姿が映り込む。
ロゼルタがピクッと肩を震わせてから言葉を返そうとするより先に、シノアの驚きに支配された声が響き渡った。
「え? ななな、何で若様がこんな所に!? わわっ、とんだご無礼を…」
「……否、畏まる必要などありませんよ。結局私は、人々に崇められる存在などでは無いのですから…」
シノアへと視線をずらしたロゼルタの顔つきは憔悴しきっており、その双眸に宿すのは深い悔恨と虚無の色。
とはいえセルネの指示もきちんと耳に入っていたようで、ふらふらとまるで亡霊のように覚束無い足取りへユトナの傍へと向かう。
しかし、それより先にシノアがユトナを抱き上げ、背中におぶさってやった。
「何かよく分からないですけど、若様にそんな事させられませんよ。ユトナは僕が運びますから。えーっと、何処か安静に出来る場所で寝かせてやればいいんですよね?」
「ふむ、その通りじゃ。……おい、そなたも何時までそこで呆けておるつもりじゃ?」
「……、俺は…」
次いでセルネが視線を向けた先には、うなだれたままのセオの姿。
まるで魂の抜け殻のように茫然としたまま、譫言のように何かぼそぼそ呟くばかり。
「ええい、しっかりせんかこの腑抜けが! そこで呆けておっても、何も変わらぬぞ? これ以上、自分の大切な者を失いたくはないじゃろう?」
「……っ、セルネさん…。確かに…そう、だよな。まだ…終わった訳じゃないよな」
自らの言葉を噛み締めるように、自分に言い聞かせるようにそう呟くセオ。
そんな彼の瞳には、ほんの僅かではあるが…一抹の希望にも似た光が宿っていた。
「…よし、では参るぞ。とりあえず…妾の自室へ向かうぞ」
セオの僅かな変化にも目ざとく見抜いたらしいセルネやニヤリと口角を吊り上げれば、一同を先導するようにそう言い切るとさっさと歩いていってしまった。
そんな彼女の後を、慌てて追いかけるセオ達。
──哀しみ、不安、悔恨、戸惑い、そして絶望…。
様々な感情が渦巻く中、蒼い月の光だけが、何もかもを優しく包み込んでいた…。