第2話
「そういえば…明日は『蒼月の日』だったよね? 蒼い月が出たら気をつけなくちゃ」
「蒼月の日…? 何だっけソレ? それに何を気を付けんだ?」
シノアの呟きが耳に届いていたらしく、きょとんと首を傾げるユトナ。
すると、シノアは盛大に溜め息を吐きつつ丁寧にこう教えてやった。
「もう…世間の一般常識だよ、こんなの。蒼月の日っていうのは、大体10年に一度くらいの頻度で起こる現象の事で、夜空に浮かぶ月が蒼くなるんだ。この日は何故か不思議な現象が起こったり魔物の活動が異様に活発になったりするから、蒼月の日は家から出ちゃいけないって言われてるじゃない。蒼い月の光を浴びるとおかしくなってしまう、とも言われてるくらいで」
「へぇ~、そんな事聞いた事もあるような無いような…」
「…もう、興味無い事はすぐ忘れちゃうんだね。っていうか、10年前にもあったじゃない。あの時は孤児院の皆と院の中に避難してたのに、ユトナが急にいなくなっちゃって皆すっごぉぉく心配したし探すの苦労したんだよ?」
「え、そうだっけか…? あはははは、そんな事もあったっけかな~?」
手繰り寄せるは、10年前の記憶。
ジト目で冷ややかな視線を送るシノアであったが、ユトナはわざとらしくしらばくれて気にしていない素振りを見せる。
「それにしても…あの時森の中でユトナを見つけたんだけど、一体あの時何があったの? 蒼い月の光を浴びて大丈夫だったの?」
「ん~…それが全然覚えてねーんだよなぁ。その日の事だけ、すっぽり記憶が抜け落ちてるっていうか…」
「う~ん、何なんだろうね、一体…。まぁいいや、今日こそは気をつけて、ちゃんと室内に避難するんだよ? さてと、それじゃさっきの話合わせしようか」
改めて当時の事を聞かれるも、ユトナの頭から何故かそこだけがこそげ落ちているらしく幾ら思い出そうとしても記憶は出ては来ない。
何か、自分は重要な事を忘れてしまったのではないだろうか──そんな不安が、波のように寄せては返してゆく。
蒼い月──その単語がユトナの脳裏を過ぎった時、彼女の身体の奥で何かが疼いたような…そんな奇妙な感覚に襲われたような気がした。
◆◇◆
いつになく、神妙な面持ちのキーゼ。
気怠そうにしているか、若しくは飄々としている事が多い彼にとって、険しい表情を浮かべるのは極めて稀な事だ。
何故、キーゼがこんな顔をぶら下げているかと言えば。
ここ最近、彼の中で渦巻いている、一つの疑念であった。
最初はほんの些細な事…自分の中でも信じてもいなかった。
ただの勘違いか思い違いか…そう思いたい自分もいて。
けれど、疑念は日を追うごとに少しずつ自分の胸の中で育っていってしまって。
最早、気のせいだとやり過ごす事さえ出来なくなってしまった。
何よりも、こうして疑う事がどれだけキーゼの心を蝕んでゆく事か。
ただ、何かに対して疑問を抱くだけなら未だしも、毎日顔を合わせる同僚に対して猜疑の心を向け続けるというのは、思った以上に堪えるものだ。
だから、いつか確かめなくてはならない。
キーゼが抱いている疑念──同僚であるシノア、もといユトナの正体を…。
キーゼはそこで思考の渦から這い上がれば、未だ探し人であるユトナが騎士団の詰め所にやってこない事に気付く。
はて、今日は非番ではなかった筈だが…キーゼはそんな事を思いながら、誰かに彼女の所在を尋ねようとした、その時であった。
「…キーゼ、聞いたか? シノアが…」
「んお? シノアがどうかしたのか? つーかシノア何処にいんだよ? あんた知んないか?」
不意に声を掛けられて、声の主──ネクトへと視線をずらすキーゼ。
振り返った先には、何処か不安に顔を歪めるネクトの姿があった。
「何かどころでは無い、シノアがつい先程…」
「──っ! え、マジかよソレ…!?」
ネクトの口から零れた信じがたい事実に、キーゼの表情が一瞬にして驚愕の色へと移り変わっていく。
そして、まるで鉄砲玉のように勢いよく何処かへ向けて駆け出していってしまった。
◆◇◆
「シノアっ、大丈夫か?」
「うわっ!? び、びっくりした…! ど、どうしたんだよ二人とも?」
勢い良く扉が開かれ、キーゼとネクトの視界に飛び込んできたのはユトナとセオの姿。
二人とも、キーゼとネクトが此処──医務室を訪れるとは思わなかったのだろう、鳩が豆鉄砲食らったような顔でぽかんとするばかり。
「そ、それより…シノアが怪我をしたと聞いたのだが、怪我の具合はどうなのだ?」
焦りを孕んだ声色でネクトが問い掛ければ、2人にずっと背を向けていたユトナがゆっくりと振り返った。
ユトナの肩から胸にかけて痛々しいまでに包帯が巻かれており、そのせいなのかユトナの表情は何処か暗くまた落ち着いた雰囲気わ纏っている。
キーゼもネクトも、そんなユトナの姿に驚きを隠せないようであったが、その驚きの内容はキーゼとネクトの間では多少異なっていた。
キーゼの眼差しを釘づけにしたのは、痛々しい包帯ではなく──ユトナの躯。
「シノア…あんた…」
「え、どうかした…か? あー…怪我した場所が場所だし、ちょっと服脱がないと手当て出来なかったからな」
上半身は、包帯を巻いているだけの姿。
その姿は、何処からどう見ても男性の肉体そのものであった。
多少筋肉のつき方は甘いが、女性では有り得ない肩幅や骨格など、一目見ればそれが偽りなく男性である事が分かる筈だ。
「あーいや、そういう事じゃなくて…まぁいいや、何でもない。つーか、ガチでおれの勘違いかよ…ありえねぇ」
ハッとなって取り繕うように手をぶんぶん振るキーゼであるが、最後に自分しか聞こえないようにこっそりと内心を吐露する。
それは他の一同には聞こえなかったようで、特にユトナは不思議そうにきょとんとしていた。
「2人共ごめん、何か心配…かけちまって。ちょっと階段で足踏み外しちゃってさ、けど大した事無いしただの打ち身程度だから大丈夫だって」
「そうか…それならば安心した。シノアはそそっかしい所がある故、気を付けるのだぞ」
「あ、あはははー…肝に銘じておくよ……キーゼ? ボーッとしてるけど、どうかしたのか?」
顔を引きつらせて乾いた笑みを浮かべるユトナの視界に映りこむのは、信じられない、といった様子で顔を強ばらせるキーゼの姿。
彼はユトナの声でハッと我に返ったようで、
「あーいやいや、ちょっと考え事してた的な? まぁでも、シノアが元気そうで良かったよ。そんじゃ、おれ達は戻るか」