第9話
一歩ずつ、確実に足を踏み入れていけば、その先は視界に広がる黒、黒、黒一色。
右も左も、そして上も下も分からず自分が何処を歩いているのかも分からなくなってしまいそうだ。
まさに無の空間、とでも言うべきか。
最早感覚さえも無くしてしまいそうだが、ユトナが推測するに鏡の中は相当に広い空間で無限に広がっているのではないかと思うくらいだ。
辺りを警戒しつつ暫く歩を進めていくと、ようやく人の気配を感じた。
「おーい、娼婦さんいねーか~?」
出せる限りの声を絞り出して大声を張り上げるユトナ。
するとやや暫くして、静寂な空間に響き渡るか細い声。
「…………た、助けて…」
「……! よし、こっちだな!?」
ピクッと耳が動いたかと思えば、すかさずか細い声を耳に入れ声のする方へと駆け出すユトナ。
向かった先には、壮絶な事実がユトナを待ち受けていた。
そこには黒い霧に囚われて身動きの取れない娼婦の姿。
娼婦は囚われて相当消耗しているのだろう、顔色は土気色で覇気というものが感じられず、また呼吸も弱々しい。
ユトナは目の前に広がる光景にぐっと唇を噛み締めつつ、娼婦に声をかけた。
「おいっ、大丈夫かよオマエ!? 今すぐオレが助けてやっからな!」
『……何者だ、貴様は…? この娘は渡さん…!』
「なっ、何だ? もしかして…この霧が喋ってんのか?」
突如脳に直接響き渡るかのような、何処と無く居心地の悪い声に眉をしかめてみせる。
辺りを見渡してみるが自分と娼婦以外に人間が居る筈もなく、消去法で考えて今声を発したのは黒い霧以外にいないであろう。
『立ち去れ、目障りな人間よ…!』
「立ち去れって言われて、ハイそーですかって素直に従う馬鹿が何処にいるかってんだよ! 大体、てめー一体何なんだ? 魔物か何かか? それに、人を鏡の中に閉じ込めるなんてどういうカラクリだよ?」
『我は鏡に収束された様々な怨念や感情から生まれし魔物…。特にこの娘からは上質の感情を感じたのでな…感情を食らってやる為に我の根城に連れ込んだ。それに、この娘はこれを持っていたのでな…これを奪ったら、さらに力が漲って来て此処までの力を得る事が出来た…』
黒い霧がそう説明した刹那、霧からキラリと光るものが一つ。
何かと思い目を凝らして見てみれば、魔耀石と思しき真紅の宝石が妖しい光を放っていた。
「あれは…魔耀石かよ…? 何でこんなもん持ってんだ?」
「それは……宝石だから、って…お客さんから貰ったの…。まさか、こんな力があるなんて…」
思わず眉をしかめるユトナの疑問に答えるように、苦しげに顔を歪めながらも説明してやる娼婦。
魔耀石とはこの世界に存在する不思議な力を宿した宝石で、これを上手く扱う事で魔術に似た強大な力を得る事が出来る。
おそらく、魔耀石の力を借りて娼婦を鏡の世界に引きずり込んだのだろう。
『もう一度言う、今すぐ此処から立ち去れ…』
「じゃあオレももう一回言ってやるよ、嫌だね!」
一気に張りつめる空気、すかさず臨戦態勢を取るユトナ。
腰に差した双剣を抜くと両手に持って構えれば、そのまま地面を強く蹴って黒い霧へと突進していく。
『ほう…斬るのか? 我を。娘も一緒に斬れるかもしれぬな…』
「……! 汚ねーぞてめー!」
娼婦を盾にする黒い霧に、慌てて軌道修正して進行方向を変え、一旦距離を取る事にしたユトナ。
流石にただ前に突っ込むばかりではこの状況を打破出来ないと考えたのだろう。
悔しそうに歯噛みしながらも、鋭い視線を黒い霧へとぶつける。
…と、黒い霧が所持している魔耀石が一瞬強い光を放ったかと思えば、突如現れた火球がうねりを上げてユトナに襲い掛かった。
咄嗟に横っ飛びをすれば、ユトナのすぐ隣に直撃した火球が空間を焼き尽くし焦げ臭い匂いが辺りに充満する。
このまま手を拱いていればじり貧でやられてしまうのは目に見えている。
それだけは何とか阻止せねば。
そんな思いを胸に抱えながら、ユトナはキッと前を見据えた。