第10話
「レネード…!? 何故此処に…!?」
どんな状況であろうとも決して眉一つ動かさなかったオブセシオンが、眼前に佇む女性を視界に捉えるなり驚愕の表情を浮かべる。
一方、顔を歪めるオブセシオンを不安な眼差しで見つめるのはレネードであった。
彼女の額には汗が浮かび、肩で息をしている事からオブセシオンを探してあちこち走り回ったのであろう。
「はぁっ、はぁ…やーっと見つけたわよ、シオン。全くもう…何処行くつもり? 探したのよ?」
レネードの言葉に、僅かに顔をしかめるオブセシオン。
よもや自分を探してレネードが奔走した事に対してか、それとも彼女の言動が記憶を封印する前のものに戻ってしまった事に対してか…それは本人しか知り得ぬ事。
「私はもうこの街には居られぬ。君の方こそ…何故此処まで来た?」
「どうしてシオンが居られないのよ? それに、いきなりいなくなっちゃうんだから探すのは当たり前でしょ!」
「抜け目ない王子に最後に一杯食わされただけだ。…私はもう、君に会う資格は無い。それに…此処が君の居場所なのだろう?」
オブセシオンの双眸が僅かに感傷で揺らぐが、レネードと言えば彼の言葉に驚愕を受けている為それに気づかなかったようだ。
訳が分からない、といった様子で眉をしかめると、
「どういう意味…? それ」
「…昔の記憶さえ取り戻せば、また嘗ての様に共に居られると思っていた。しかし…それは私の思い込みだったようだ。レネード…君にも迷惑をかけたな。私の独り善がりな幻想に付き合わせてしまった」
何時までも過去に縋り続けていたのは自分だけ。手を伸ばせばもっと大きな世界が広がっているというのに、あえてそこから目を逸らしていたのは自分自身の意志。
大切な彼女を失ったという事実から、目を背け続ける為に。
何処か悟りを開いたような、諦めを孕んだオブセシオンの言葉が、レネードを突き抜けてゆく。
しかしレネードと言えば、それを否定する様に何度も首を横に振ってみせる。
「そんな…迷惑なんて思ってる訳無いじゃない! シオンがいなかったら…あたしは此処にはいなかったんだから。ありがとう…あたしの為にそこまでしてくれて」
「……。それこそ、君から礼を言われる資格などありはしない」
“レネードの為”それだけでは無かったから。
本当は自分自身の為。けれど、言い掛けたその言葉はオブセシオンの喉元で堰き止められ、結局は飲み込んでしまったが。
代わりにオブセシオンはレネードの眼差しを真剣な面持ちで見据えると、まるで懺悔でもするかのように淡々と語り始めた。
「10年前…君が私の事を全て忘れてしまったあの時、私は心底絶望した。私はこんなにも君を想っていたのに、君はそれをあっさり忘れてしまった…と。それから間も無くして、君は私の元から姿を消した。恐らく、君は気づいたのかもしれぬ…幾らレネードが生きていても、私の事を忘れてしまっては何の意味も無い…という淀んだ私の思いに」
思えば、あの時から少しずつ歯車が狂い始めて行ったのかもしれない。
ぶつけようのない怒りや絶望が、オブセシオンを凶行に駆り立ててしまったのだから。
一方、レネードは顔を強張らせながらも、必死に声を絞り出す。
「ごめん…あたしその辺りの事、よく覚えてないんだ…。気が付いた時には何処かを彷徨い歩いてて、偶然他の夢魔に助けて貰ったから」
「どちらにせよ、其処で別れたままであった方が互いの為だったのだろう。しかし、私は其れが出来なかった」
「もう…いいんだよ。今更あの時こうしてれば良かったーなんて言った所でどうにかなるもんじゃないんだし」
そう言い切って、レネードは何処か寂しく微笑む。
彼女の言葉にほんの僅かだが救われたらしいオブセシオンもまた、険しい表情が僅かに和らいだ。
「…さて、私はもう行かねばならぬ。もう会う事も無いであろうが…レネード、君の未来に幸があらん事を…。そして、例の少年騎士2人にも伝えておいてくれ、済まなかったと」
オブセシオンはゆっくりとした足取りでレネードの傍に歩み寄ると、そっと彼女の額に口づけを落とした。
彼なりの別れの挨拶なのかもしれない。
そしてすぐにレネードから離れると、何の躊躇いも無く踵を返すとしっかりとした足取りでその場から立ち去っていった。
振り返りざまにレネードが見たオブセシオンの口元には僅かに笑みが浮かんでおり、それはレネードが10年ぶりに垣間見たオブセシオンの晴れやかな笑顔。
まるで彼の鬱積していた様々な感情を払拭するかのような微笑みであった。