第8話
「はぁ……」
箒を手にし、廊下を掃いているのだがその表情は何処か暗く、また覇気さえ感じられない。
一応掃除はしているつもりなのだろうが、まるで身が入っていないのか一向に廊下が綺麗になる気配はないようだ。
そしてそのメイド──シノアは本日何度目になるか分からない溜め息を肺の奥から吐き出す。
気を抜いたらすぐに溜め息が漏れてしまう、それくらい彼の心は暗雲に支配されていた。
シノアの心を支配するのは意図せぬ形でとんでもない事に巻き込まれてしまった友人の事。
王宮で秘密裏に保護している為、命の危機に晒される事はないだろうが…それでも不安は尽きない。
もし、再び彼に良からぬ災難が降りかかったら…? どうやらその友人は不幸と云う不幸を呼び込んでしまう気質でもあるようで、それ故に油断はできない。
自分も出来れば彼の見舞いに行きたいが、残念ながら自分が仕えている宮廷魔術師は人をとことんこき使う事で有名な人物、到底暇を貰えそうにはない。
「大丈夫だといいんだけど…」
憂いを秘めた眼差しが、空を彷徨う。
すると、不意に背後から軽い衝撃を覚えた。
「ユトナーっ! どうしたのボーっとしちゃって!」
「うひゃあっ!?」
いきなり背後から誰かに抱き付かれる──というより飛び付かれたといった方が正しいか──形となり、思わず間抜けな声を上げるシノア。
一体何事かと後ろを振り返れば、そこには同僚でもあるメイド、ユニスの姿があった。
「ユトナにしては珍しいよね、いつもてきぱき動いてるのにさっきから全然掃除進んでないよ? もしかして、何かあった?」
「え? えーっと…だ、大丈夫、何でも無いから…」
まさに的を射た発言に内心ギクッとなるものの、下手に話して迷惑をかける訳にはいかないと、咄嗟に誤魔化してみせる。
明らかに落ち込んだ顔を見せれば余計心配をかけてしまうと考え、努めて笑顔を作りながら。
けれど、その表情には何処か憂いを秘めたような、物悲しいもので。
勿論、シノアに自覚はまるで無かったのだが、そんな表情を目の当たりにしたユニスは意外そうにぽかんとしてしまう。
「……? ユニス、どうしたの?」
「ちょっと寂しそうなユトナの顔もいいかも…! っていうか可愛いっ!」
「……へ?」
全く持って予期していなかったユニスからの返答に、思わずその場に固まってしまうのも無理はないだろう。
しかし、そんなシノアなどお構いなし、ユニスと言えば相変わらず背後から飛びついたまま。
(えーと…何か前々から思ってたんだけど、僕ってどうもマスコット扱いされているような気がする…)
シノアは心の中でそう呟くと、再び胸の奥で溜め息を漏らす。
勿論、自分が男性だと疑われるよりよっぽどマシなのだが…どうにももやもやしてすっきりしないのは何故だろう。
彼の中で僅かに蠢く、男としてのプライドがそうさせるのだろうか。
「2人共、何をやっておる? 時にユニス、そなたには妾の部屋の掃除を頼んだ筈じゃぞ?」
不意に2人の背後から降り注ぐ、透き通った鈴の鳴るような声。
反射的に振り返れば、2人の視界に飛び込んできたのは黒い猫の獣耳と尻尾、そして可憐な少女の姿。
宮廷魔術師セルネ、その人である。
「あっ…! す、すみません、すぐに参ります!」
ハッとなったユニスは慌ててシノアから離れるなり、ぺこりとセルネに頭を下げてからぱたぱたと廊下を走っていってしまった。
その場に残されたのはシノアとセルネの2人ばかり。
「お主も、さっさと手を動かさぬか。それとも…セオ、じゃったか? お主の友人の事が気に掛かるか?」
「あ…はい。セオ、大丈夫かなって…」
セルネ相手に嘘をついても仕方ないと、素直に内心を吐露するシノア。
「心配せずとも、魔耀石の力は妾が責任を持って封じておいた。それに、セオ自身力の暴走を制御しかけたのじゃからな。これからは暫く監視下に置かれるじゃろうが…なに、取って食ろうたりはせぬわ」
「そう…ですか。それなら大丈夫ですよね。…あ、そうだ」
セルネの迷いのない言葉に背中を押されたのか、シノアの顔に浮かんでいた不安の色が僅かばかり和らいでゆく。
…と、何か思い出したらしいシノアは改めてセルネに向き直ると、深々と頭を下げてみせた。
「セルネ様…今回の事は本当にありがとうございました。セルネ様のお陰で…僕は大切な友達を失わずに済みましたから。それにしても…どうしてこんなに力を貸してくれたんです? セルネ様には直接関係の無い事なのに…」
「…フン、この程度大した事では無いわ。別にお主らの為にやったのではない。もしこの国に何かあったら、妾も困るのでな。それに、オブセシオンは前々から気にくわなかったのじゃ」
「ふふっ…セルネ様って案外素直じゃないんだなぁ」
素直に礼を言われて気恥ずかしいのか、わざとらしく腕を組んで寛大な態度を取りつつも、真正面からシノアの顔を見据える事が出来ないのか視線を外すセルネ。
その様子が何処か可愛らしくて、シノアは思わずクスクスと忍び笑いを漏らした。