第9話
だが、驚くべきはそこだけではない。
先程まであった化け物の姿が、忽然と消えてしまったのだ。それはまるで煙のように。
「うへー…いきなり何なんだよアレ、どんだけバイオレンスなんだよ。一応若様も含めてこっちは無事だぜ~、咄嗟に回避したからな」
砂埃を払い落としつつ、げんなりした様子でそう答えるのはキーゼである。
彼の言葉の通り、キーゼの傍らにはネクトと、そして2人に守られるような形で佇むロゼルタの姿もあった。
「うん、僕達も大丈夫…でも、セオがいなくなっちゃった…! どうしよう、あの姿で街にでも行っちゃったら、大変な事になるよ」
「不味いな…まさかあれ程の力を持っておるとはのう。少々侮っておったわ。ならば、お主らで探して参れ」
「それは勿論、セオの事放っておけないし……って、セルネ様は…?」
「何故妾がそのような労力の無駄を率先してやらねばならんのじゃ。そもそも、妾がそこまでする義務はないぞ」
早速シノアを顎で使って高みの見物に突入するセルネに、思わず突っ込みを入れるシノア。
しかし、呑気で漫才をやっている時間は無い。
すでに鉄砲玉のように飛び出していってしまったユトナの背中を追いかけるように、シノアも駆け出していく。
その一方で、不快そうに眉間に深い皺を寄せるのはオブセシオンだ。
彼はセオの事にはさほど興味はないらしく、彼を追う気は微塵も無いようであった…のだが。
「レネード、君は一旦安全な場所に非難して……レネード? 何処に行ったのだ…?」
愛しき女性の姿を必死に追い求めるも、辺りに彼女の姿はおらず。
元々、危ないからと後ろに下がって貰っていたのだが…それでもやはり、先程まで彼女がいた場所には、虚空が広がるばかり。
オブセシオンの脳裏には、最悪の事態が浮かび上がる。
居てもたってもいられなくなったのか、レネードの姿を追い求めてその場から立ち去った。
◆◇◆
「はぁっ、はぁっ…。何処に行っちゃったのかな…?」
どうやらかなりの距離を全力疾走してきたのだろう、額には汗が浮かび肩で息をしている所からも、相当体力を消耗している事が窺える。
オレンジ色の長い髪を高く結い上げ、走る度にそのウェーブがかった髪がゆらゆらと左右に揺れる。
何かを探しているのか、歩を進めながらもその人物──レネードはキョロキョロ周りを見渡す。
だが、未だに見つからないようで、いつの間にか街の大通りへと差し掛かっているようであった。
「はぁっ…もうダメ…。ちょっと…休もうっと…」
遂には体力の限界を迎えたのか、塀に寄りかかる様な形でその場に立ち止まるレネード。
新鮮な空気を体内に取り込んで体力の回復を図りつつ、今更ながら自分の行動に一抹の疑問を抱き始めた。
「そういえば…どうしてわたし、こんなに走ってるのかな…?」
自分で自分の行動の意図が分からないとは、滑稽な他無い。
けれど、自分でも分からないのは紛れもない事実なのだから仕方ないであろう。
もし、強いて理由を挙げるのなら──…
「あの人の瞳が…とても哀しそうだったから」
名前も、何もかも知らない…挙句の果てには異形の存在へと変貌してしまった得体の知れない人、という認識しかないのに、どうしてこんなにも心揺さぶられるのだろう。
今も、彼の双眸が頭にこびりついて離れない。
哀しそうで…今にも泣きそうな眼差しをしていたから。
だからこそ、もう一度会いたいと思った。
勿論、彼の暴走を引き留めたいというのもある。
けれど、それ以上に…彼ともう一度出会えば、何かが分かるような気がしたから。
自分にとって大切な存在であるオブセシオンが居てくれて、何も不満に思う事は無いというのに…心の奥底に何かが引っかかって、それはしこりのように彼女の心を蝕んでゆく。
…と、その刹那。
不意にレネードの耳に飛来する。声とも言い難いような凄まじい唸り声。
これに聞き覚えのあったレネードはハッと顔を上げると、唸り声がした方へと駆け出していった。