第一章:はじまりに続く道3
「なぁ、本当なのかねぇ」
「あれが結婚するだなんて……なぁ」
「あの『色なし』が」
冬の気配が濃くなってきた風を避けようと外套の襟を立て家路を急いでいた男たちは大通りで立ち止まると、ふと前方を見据えた。
夕暮れの空を背景に地面に突き刺さった剣のようなアリオス城が佇んでいる。
煌々と灯りが焚かれる部屋の一つに、あの魔物がいるのだろうか。
現在、アリオスを騒がせている噂は国王の弟が結婚するというものだった。
相手は隣国のエスタニアの王女であるという。
政略結婚など珍しくもない。現国王、ルーファ王にもエスタニアの王女との婚約話があがったことがある。
皆が恐れているのは、あの魔物が婚約するということだ。
王妃が恨みをこめて産み落とした王子。
歴代の王族は皆、銀の髪と緑色の瞳を持ったという。
それを許されなかった忌み子。
『色なし』と呼ばれた王子のもとへ嫁ぐ娘への同情を禁じえなかった。
体がふるりと震えたのは北風の冷たさだけではないだろう。
話はそれっきりにして男たちは家路を急いだ。
熱いスープと女房と子どもたちの「おかえり」が妙に恋しかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
噂話も届かない城の片隅。
膨大な蔵書を抱える書庫は今日もひっそりと佇んでいた。
地下一階地上3階を誇る書庫は今の時期、たったひとりのために存在していると言っても過言ではない。
一階から三階までは吹き抜けで、壁には隙間なく書架が並ぶ。
柱には賢人たちの姿が彫りこまれ、色ガラスをはめられた窓から差し込む光りによって生を受ける。
けれど今は日も暮れかかった時刻、賢人たちも薄闇に沈んでいた。
レリーフで飾られた入り口の扉に比べれば、あまりにも質素な扉が開くと中からランタンを掲げたローブ姿の男が現れた。
暖かなオレンジの色に照らされた顔は柔和で、目じりに入る皺がさらにその顔を穏やかに見せている。
天井の彩に見入った瞳は凪いだ湖の色だ。静かな誰も居ない空間。
数多の物語も閉じられ眠りにつこうとしている。
それを全て愛しむように瞳を閉じて息を深く吸い込む。
どこか埃っぽい古い紙の匂い。
背後から香る甘い香り。
今日のものは自信作だ。あの青年は好んでくれるだろうか。
この挑戦をするようになって十五年の月日が流れた。
「ジン様。今日はよく冷えます。お茶を淹れましたから一休みしませんか」
優しげなよく通る声は書庫の管理人であるカナンのものだ。
しばらくすると上階から猫のようにしなやかに人が下りてきた。
足音一つしない。その人物は薄暗い書庫の中を灯り一つ持たずに歩き、気密性が高いといっても冷える石造りの書庫の中で薄い衣一つきているだけだ。
その人物の髪は暗闇に溶ける事ない、見事な白髪であった。
しかし、老人というわけではない。彼はまだ19歳である。
ランタンの光りを受け、その瞳が金に輝く。
「さぁ」
カナンに促されジンと呼ばれた青年は暖かな部屋へと入った。
書庫の片隅にあるカナンの部屋には小さいながらも、簡単な炊事場と彼の寝台、5人ほどが腰掛けられる椅子があった。
棚には色とりどりの小瓶や小箱が並べられていたが整理しつくされており狭さを感じさせない。
部屋の中央に置かれた机の上には湯気をたてるカップが二人分と甘い匂いの焼き菓子が乗っている。
いつもの席に着いた青年は冷えてしまった両手を暖めるように、カップを包み込んだ。薄紅色の液体からは鼻腔を満たす花の香りがした。
青年の名はジルフォード・アリオス。
アリオス王の弟にあたる。
名を名乗らなくともこの国では姿を見れば彼が何者なのかなど簡単に想像がついた。
ジルフォードは昔から伝わる寝物語にでてくる魔物の名前だ。
名を呼ぶことは、魔物だと言っているのと等しく誰もがその名を口にすることを畏れている。
ジルフォードと呼んでくれるのは兄である国王と義姉である王妃と肝の据わった数名の家臣だけだ。
ジンと親しみをこめて呼んでくれるのはカナンぐらいのものだ。
ジルフォードは前国王と王妃の子どもでありながら王座を許されなかった王子だ。
国王と側室の仲を怨んだ王妃が呪いをかけ生んだ子どもだとも言われている。
その証拠のようにアリオス王族特有の銀髪を持たず、何者の浸食をも赦さないような白髪をしている。
さらに人々を慄かせたのがその瞳だ。
その瞳は特定の色を持たず、角度によって色を変える。
その恐怖と侮蔑を込めて人々は彼を〈色なし〉と呼んだ。
ジルフォードは人々と関わり合いを持つことを避け、ほとんどの時間をこの書庫で過ごす。
カナンは幼少の頃から知り合いで、唯一心を許す人物だ。
傍から見れば、二人の間には会話らしい会話は無くうち溶け合っているようには見えないが、カナンにはジルフォードの心情は手に取るように分かった。
テーブルに乗っている焼き菓子はどれもジルフォードの好むものだ。
めったに表情らしいものを出さず、ほとんど人前で食事らしい食事をしない彼の好みを知っているのはカナンだけだ。
ジルフォードがお茶を飲み干すのを見計らって、カナンは静かにカップを置いた。
「ジン様」
ジルフォードは名前を呼んだ相手を見つめた。
正面から見れば彼の瞳は紫色になる。人々が魔物と恐れる瞳もカナンはしっかり受け止める。
「ご結婚なされるようですね。おめでとうございます」
その表情に浮ぶのは本物の賛辞のようだ。
孫を見るような穏やかな顔でカナンは告げた。
「そうらしいね。兄上が言っていたよ」
ジルフォードは淡々とまるで他人事のように応えた。
今朝、国王の執務室に呼ばれその事実が伝えられた時も同じような反応の仕方で国王も王妃も苦笑せざるをえなかった。
もともと政略結婚であることは目に見えているが、ここまで無関心であるのはどうだろうか。
ジルフォードは相手の名前を聞き出すことさえしなかった。
聞く必要は無いとさえ思っていた。
ジルフォードは二つ目の焼き菓子に手を出し、カナンもそれ以上この話には触れなかった。
目の前の青年が何事にも無関心を通すのはいつもの事だ。
時には自分の生死にすら関心を持っていないのではないかと思わされる。
「もう一杯いかがですか?」
そういうと空になったカップが差し出される。
どうやら今日のお茶は気に入られたようだ。や
はり最後にチコの花びらを混ぜたのは成功だった。
栄養価が増すばかりでなく、体を温める効果があるのでこの時期には最適だ。
カナンは進んで栄養を摂ろうとしないジルフォードにせめてもと種種の薬草をお茶にブレンドしているのだ。
気に入らない場合でもジルフォードはカナンの気配りを汲み取ってか一杯目は飲み干してくれる。
二杯目を飲むのは気に入った証拠だ。
液体を注ぎ終わったカップをジルフォードのまえに置きながらカナンは告げる。
「明日には頼んでおいた本が届きますよ」
「そう」
興味のなさそうな声で告げられた言葉にほんのすこし嬉しさが混じっているのをカナンは知っていた。
カナンが長年をかけてもまだ読みきれない膨大な蔵書を青年はほとんど読み終わってしまっているのだ。
しかも内容を覚えてしまっている。調べ事をしていた時、その内容ならばと、本と頁数まで指摘してきた時には驚いたものだ。
しかし、その膨大な知識が生かされることも、ジルフォードが生かす気もないことをカナンは知っていた。
カナンがしてやれる事は、たまにお茶を入れて新たな本を与える事だけなのだ。
カナンはこの哀れな青年を助けてくれるような王女がやってくることを願った。
セイラ王女がアリオス王国の地を踏むのはあと一ヵ月後のことである。




