序章
アリオスの冬は早い。
短い夏が終わることを告げるためにローラ山脈から一陣の風が吹き降り大地を荒らすと、すぐに寒気が忍び寄り木々が慌しく支度を済ませ冬が来る。
一年の半分ほどを雪と共に過ごす人々はすっかり雪と慣れ親しんできたが、その年の雪は殊更早かった。
まだ完全に刈入れの終わらない九つの月には、比較的温暖な気候であるタナトスでも、ちらほらと雪が降り始めた。
アリオスとタハルを繋ぐローラ山脈の中を貫くように走るノースの道では、氷床が完全に溶ける間もなく再び凍りついた。
いつもならばタハルの砂漠から吹き付ける風が小さな洞穴の中を彷徨って、赦しを請う亡者の嘆きの如く悲しげな音を立てていたが、今年はまるで違う。
彷徨う場所を失った風は一直線に走る。
ひょおぉぉう
ひよぉぉう
それはまるで怖ろしい何者かが上げる歓喜の声のようだった。
その不気味な声を聞いた者たちは、きっと良くないことが起こる前触れだと身を寄せた。
山脈の麓辺りは常に少数民族同士の小競り合いで騒がしかったが、この年ばかりは災厄が降りかかることを恐れ互いに己の領地に引きこもった。
一方で、都では早い雪は天からの寿ぎだと沸いていた。
王妃であるサンディアが懐妊したという知らせが届いて早十月。
昨夜から城では煌々と松明が焚かれて慌しい。
サンディアが産気づいたのだ。
戦王と称される強いロード王を掲げてアリオスは安定している。
昨年には側室であるシェラが王子を産み、今度は王妃だ。アリオスの行く末は安泰だと誰もが胸を撫で下ろしていた。
城の中は熱気に満ちていた。
新たな命が生れ落ちるまで己の運命は分からない。
王子ならば先に生まれたルーファ王子とどちらに付いた方が身の為か。
王女ならば早々に己の息のかかった婚姻相手を見つけなければ。
期待と不安が入り混じる広間はまるで祭りの前夜のようだ。
入りきれない祝いの品は庭にまで溢れていた。
王も気が気ではない。
一度、わが子を得る経験をしているがまったく頼りにはならなかった。
ルーファ王子が誕生した時は、朝焼けのすばらしい日だった。
安産で、やきもきする間もなく王子はロードの腕の中にいた。
サンディアの場合、彼女が陣痛を訴え侍医が駆けつけてすでに十数時間が経っている。
一秒一秒が長い。
暗かった空も明らみ始めたが、大きな雪雲に阻まれて常よりどんよりと重い色をしている。
いかに王と言えどもお産中の部屋に入ることは赦されない。
ロードは檻に閉じ込められた野生の獣のように彼らの世界を隔てる扉の前を恨めしげに円を描きながら巡った。
ああ、もどかしいと眉間に刻まれた皺が雄弁に語る。
「落ち着いたらいかかですかな?」
最高齢の五元帥であるハマナ・ローランドは笑みを湛えながらロードを諭したが、あまり効果があったとは言えない。
しばしの間、おとなしく椅子に座っているのだが、落ち着かないとばかりに再びうろうろし始める。
ハマナにはよく分かっていた。
今まで幾人もの誕生の場面に関わってきたが、お産の場面で浮き足立った男どもは何もかも心得た婦人方に到底及ばぬものだ。
せめて迷惑をかけないようにじっとしているのがいい。
それにしても戦王と恐れられ、単騎でも敵を蹴散らしに駆けて行く怖いもの知らずを慌てふためかせるものが、まだこの世に生れ落ちていない子どもだなんて愉快な話ではないか。
これで、側室を得てからぎくしゃくし始めた二人の関係も穏やかなになるだろう。
さぁ、祝福は間もなくだ。
程なくして鉄壁の防御を誇っていた扉が開いた。
「お生まれになりました。王子です」
侍女は喜ぶべき言葉を青ざめた声で告げた。
扉に縋るようにして立つ彼女の頬もまた死人のように色がない。
倒れてしまわないほうが不思議なほどだ。
その様に、さしものハマナも声を失ってしまった。
まさか死産か。いや、彼女は生まれたと言った。それならば母体が危険なのか。
ハマナの横を風が走った。咄嗟に伸ばした腕も間に合わない。
突き飛ばされた侍女は廊下へと蹲った。震える声が赦しを請う。
その向こうに銀獅子の煌きだけが見えた。
ロードは百戦錬磨と謳われた戦王。
真っ先に戦場を駆ける足がぴたりと止まった。翠玉の美しさを持ちながら猛禽類のように鋭い瞳が見開かれた。
一点を凝視したまま瞬きさえしない。
否、出来ないのだ。
視線の先にはサンディアがいた。産後の血で下半身を紅く染め、なおも溢れる赤は床に不吉な染みを描き出す。
結われていない髪が体に沿ってぞろりと流れる。
美しい豊かな赤毛は窓から差し込む鈍い光を受け、古血のように変色した。
虚空を彷徨うように焦点の合っていなかった視線がロードを捕らえると、サンディアは赤子を胸に抱き寄せ嗤った。
部屋の隅にいた侍医たちが声にならない悲鳴を上げ、災厄から逃れようと身を縮める。
「ねぇ、可愛いでしょう? 貴方の子よ」
幼子は産声を上げることも無く、紫色の瞳で父親を見つけた。
「きれいな白色」
幼子は白かった。
微かに映える髪の毛も本来ならば血の通った色しているはずの柔肌も皇かな白だった。
それがまがい物めいていてロードは息をのんだ。
幼子は瞬き一つしなかった。
部屋の中を覗きこんだ人々もひゅっと喉を鳴らして沈黙した。
人々の恐怖を煽るようにサンディアが嗤う。
「さぞやあの女の血が映えることでしょう。あの泥棒猫の」
嗤い続ける女にもはや王妃の威厳はなかった。
狂ったように嗤い続ける母親の腕の中で幼子は瞳の色を赤く変えた。
「ねぇ、アリオス国王陛下。うふふっ。あはははは。可愛い可愛い私の子ども。うふふ。可哀想な私の息子。お前の名前はジルフォードよ」
アリオス国王妃サンディアはその日、一人の男の子を生んだ。
側室であるシェラがルーファ王子を産んで丁度一年後のことだった。
王子の名前はジルフォード。
それはアリオスに伝わる姿無き魔物の名前であった。




