第二章:遠き場所よりきし者は2
「わぁ……」
天窓に張られた色ガラスから差し込む鈍い光が床に不可思議な文様を描き出す。
壁にも柱にも書架が作られ、資料がぎっしりと詰まっていた。
備え付けられた机は磨かれ、どれも飴色に輝き、賢人の像が穏やかに本を読んでいる。
上階へと導く階段は蔦草の彫金が施され、早くおいでと誘っているかのようだ。
「おや、いらっしゃいませ」
入り口の横にあった扉―こちらは随分と質素だーが開くと、中か男性が顔を出した。
柔和な顔が見知らぬ少女がいることに驚いたが、すぐさま優しい笑みへと変わる。
「あの、ここは?」
「書庫になります。エスタニアの方ですね」
「うん。えっと……セイっていうの。よろしくね」
ハナの侍女服を勝手に着て出歩いていることを寸でのところで思い出したセイラは、なんとか本名ではなくジニスでの愛称を口にすることが出来た。
セイラ王女の姿は知られていない。
ばれることはないだろうと少しばかり気も大きい。
「私は管理人のカナンと申します。よろしくおねがいします」
セイラはカナンのことがいっぺんに好きになった。
「ご自由に見て回ってください。よろしかったらこれを。今日もよく冷えますから」
そういってカナンはローブを貸してくれた。
たっぷりと丈のあるローブは暖かくセイラを包み込む。
それだけで気分が浮き上がるというのに、ここには好奇心を刺激するものばかりだ。
上から順に降りてくるのがいいだろうか。
小気味良い音をたてながら階段を上っていたセイラは半回転して視線をカナンに戻した。
「ここに冬の化身が来なかった?」
「……冬の化身ですか?」
「そっ。足跡を辿ってきたの」
困惑顔のカナンを置いて軽い足取りで階段を上る。
一階にあるのは何だか難しそうな資料が多かった。
二階も少し小難しそうだ。美しい図版や地図があったので後で回ってこよう。
三階がセイラには合っていた。
緻密な言葉で編まれた物語の数々。
心引かれる挿絵があればなおよし。
ジニスの小さな貸本屋には無かったものばかりだ。
そのなかの一冊が目を引いた。
「アリオス記……」
とても古いのだろう。
背表紙の文字は掠れていて辛うじて読める程度だ。
アリオスのことを知るのもいいかもしれない。
予備知識はいくらもないのだもの。
背伸びをすればどうにか手が届く。
見渡してみても踏み台になりそうなものはなかった。
下まで降りてカナンに台でも貸してもらえばよかったのに、横着をしたのがいけなかった。
何とか半場まで引き抜いたところでぐらりと重心が揺らぐ。
手にかかる重みは思っていた以上だ。
「わっちょっと待って! うわぁ」
頭の上に落ちてくることを覚悟してぎゅっと目を瞑る。
悲鳴を聞きつけたカナンが何事かと階段を駆け上がったが到底間に合うはずも無い。
歯まで食いしばって身構えたがいつまでも衝撃は来なかった。
どうにか本棚に引っかかったままなのだろうか、恐る恐る上を見上げると転げ落ちそうだった本を白い指先が支えていた。
「あ……」
セイラの吐息で目の前の白い髪が揺れた。
(やっぱり居たんだ)
白い指先がそのまま本を取り出してセイラの目の前へと差し出した。
咄嗟に出した両腕にずっしりと圧し掛かる重さ。
これを頭に受けていたら大きなたんこぶが出来ていただろう。それどころか気を失っていたかもしれない。
「あ、りがとう」
礼を言うと、冬の化身は何も言わずに背を向けようとした。
せっかく出会えたのにもったいない。
思わず伸ばした腕は彼のマントを思いっきり掴んだ。
当然、歩みを妨げられた青年は後ろを振り返る。
きらきらと光る碧の瞳で。
(あれ?)
「いかがなされました! ……ジン様」
ようよう階段を上り終えたカナンの目の前には予想外の人物がいた。
いつもならば決して人前には姿を現さない青年だ。
カナンのほうを向いた青年は、少しばかり困っているように見えた。
それがとても珍しいことだとは知らないセイラは、カナンの言葉に弾かれたように青年を見上げた。
「ジン? 君の名前?」
返事は無い。
薄く形のいい唇は引き結ばれたままだ。
けれど、セイラは沈黙を肯定と取った。
「ジン」
もう一度呼んでみる。
良い響きだ。
セイラにとってみれば、いや、エスタニアの人間にとってはとても馴染みのあるものだった。
「いい名前だね」
青年の眉が寄った。
とても難解な答えを求められた賢人のように。
それこそ何年かぶりに起きた大きな変化だったのだが、カナンはそのことに思い至るほど心穏やかではなかった。
突如現れた少女は、やすやすと禁忌に触れる。
ジンはジルフォード。ジルフォードは嫌悪すべき魔物の名前。
一度として名前を褒められたことはない。
それどころか名前を呼んでもらったことも数えるほどしかない。けれど、アリオスの常識の通じない少女はころころと笑う。
「ジンはね神の名前だよ。夜の神さま」
「……神、ですか」
怪訝なカナンの声を拾ってセイラは慌てて首を振る。
「あっ、夜って言っても怖くはないよ。ジンはね安らぎと眠りを司るの」
アリオスでは聞かない話だ。
数多の神々が色彩も豊かに生き生きと描かれるのはエスタニアだ。
神話の国と称されるのも頷けるほどエスタニアの生活には神々が深く関わってくる。
朝目覚めれば守護神に祈りを捧げ、眠る前には夢の中の安寧を願う。
どんなに小さな町、村にも必ずその地域の守護神が奉られている礼拝堂があるという。
エスタニアの聖地巡礼の旅はアリオスでも人気が高い。
そんなことを知らずとも、アリオスの人間で彼の名についてわざわざ触れるものはいない。
「……エスタニアか」
青年の声は静かなのにどこか耳に残る声だった。
もう少し聞いていたいと思うほど心地よい。
「そう。エスタニアの神だよ。知っているの?」
「……いや」
青年は、はっとすると視線を反らした。
先ほどの問いは故意によるものではなかったのだろう。
答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。
「それなら、こんどエスタニアの神話の本を持ってくるよ。ふふ。ジンの髪はやっぱり雪色なんだ。アリオスでみた一番綺麗な色だよ」
カナンは息をのんだ。
彼が色なしと呼ばれる所以でもある髪色にはカナンでさえ触れたことは無い。
それを今日出会ったばかりの少女は雪色と呼んだ。
「冬の女神でさえ、そんなに綺麗な色は持っていないよ。んっ?」
セイラはすいと青年との距離を詰めた。
距離が縮むにつれてセイラの瞳は輝きを増す。
「わぁ!」
青年の瞳が紫から緑へと色を変える。
光りの反射かと思っていたけれど、そうではない。
本当に色が変わるのだ。
「すごい! すごい! すごいー!」
セイラは重い本を持っていることも忘れ何度も飛び跳ねた。
もっと近くで見ることのできない己の身長が恨めしい。
とっさに身を引き、顔を隠そうとする青年との距離を大きく詰める。
「月の雫みたい……」
セイラはうっとりと呟いた。
月の雫はジニスでも滅多に取れない貴石だ。
光りの当て方により色を変える石を月になぞらえて名づけられたのだ。
時にはリーズの涙と呼ぶものもいる。
緩んでいくセイラの頬を見てカナンもつられて微笑んだ。
他国の王女が嫁いでくることにはとても不安だった。
遠い国から来た王女はジルフォードを気持ち悪いと拒絶しやしなかと何度も考えた。
確かに彼女たちは遠い国からやってきたのだ。
アリオスの常識など通じないほど。
魔物の名前が神の名にかわるほど。
「よろしかったらお茶にしませんか。今日もよく冷えますから」
カナンはこの素敵なお客のためにストックしておいた良質の茶葉をふんだんに使おうと決意した。
「うん。頂きます!」
カナンに続こうとしたセイラは途中で振り返り、一向に動こうとしない青年の手を掴んだ。
「ジンも」
ジルフォードはなんの億尾にも出さずにとられた手に驚いた。
自分のものより暖かい手。
じわりと体温が侵食される。
けれど不快感は無かった。
「ジンの手は冷たいな。知っている? 手の冷たい人は心が温かいって。」
どこかで読んだ事のある情報だ。
しかし、人と触れ合うことのないジルフォードにとって己の手が冷たいかどうかなど知る由もなかった。
「ああ、そうだ。私はねセイだよ。よろしくね」
答えがなくともぐいぐいと腕をひっぱりカナンの後へと続こうとする。
動かないジンに焦れたように少しだけ強くひっぱり、顔を上げると赤い瞳がセイラを貫いた。
ジルフォードの薄い唇が僅かに開き、また閉じる。
瞳の色もゆらりと赤と青を行き来する。ひどく戸惑い迷っているようだ。
「なに?」
「……セイは変わってる」
「そうかな? よく言われるのだけど、そんなことないと思うけどなあ」
セイラは首を傾げた。
その途端に変わるジルフォードの瞳の色に思わず笑みがこぼれる。
「綺麗なものは綺麗なんだもの」
「……私には関わらないほうがいい」
「どうして?」
「そのうち分かる」
払いのけられた手はしばらく宙を彷徨った。
遠くなっていくマントの端を今度はどうしても取ることが出来なかった。
カナンの縋るような視線も効果は無く、ジルフォードは音もなく階段を下り姿を消した。