第一章:はじまりに続く道9
せせらぎを頼りに川を見つけたときには、日はすでに没しようとしていた。
その最後の振り絞るような光りも木々が邪魔をして、セイラたちの下へは届かない。
足元はどろどろで枝葉で傷つけた肌はひりりと痛む。
頭上の光りが消えるにしたがって、あまりを囲む空気も冷えてきた。
けれど、つないだ手は暖かく、セイラの掲げた光石のおかげで仄かな明るさがあった。
光石は、文字通り光るのだ。
闇に紛れてぽぅと淡く光る。
エスタニアでもあまり知られていない貴重な石は鉱山の皆からの贈り物だった。
それぞれの固体によって色が違うのだが、セイラが貰ったものは暖かな黄色だ。
まるで月が落ちてきたような光景に恐怖も何時の間にか薄れてしまう。
闇への恐怖は消えてもあせりは募る一方だ。
おそらく方向はあっていると思う。
けれど、身を隠すことが出来そうな洞穴を見つけることが出来ない。
セイラは後ろを振り返った。
懸命についてくるハナは大丈夫だと微笑んだが疲労は目に見えて大きい。
セイラも着慣れない服のせいで一歩ごとに体が重くなる。
このまま倒れこんでしまおうか。
そんな思いが浮んだ時、前方でかさりと葉が揺れた。
「人……?」
小動物ならいい。
せめて肉食の獣ではないように。祈りをこめて見つめた先をすっと横切ったのは人影だった。
それが人間だと断言することが出来なかったのは、その人影がほんのりと光っていたように見えたからだ。淡い淡い月の光のように。
「待って!」
「せっセイラ様?」
「ハナは此処にいて」
光石と荷物をハナに投げわたし、走り出す。
葉を掻き分ける音がする。
足元では水がはねる。
静かすぎる森の中で騒音とも呼べる音を纏って突き進むセイラとは対照的に前方からは全く音がしまう。
幻を見たのだろうか。
疲れのせいかもしれない。
未知の森のせいかもしれない。
だが、それは幻ではなかった。
人影はやはりあった。
ほんのり光ったままだ。
木々があけた隙間から差し込む月明かりが人影をそう見せていた。
人影の髪は月明かりを邪魔しない白だと知れた。
肌もきっとぬけるように白いのだろう。
「ねぇ」
呼びかけに答えはない。
「まって!」
瞬きをした刹那、人影は煙のように立ち消えた。
人影がたち消えた場所に来てみると、蔦草に覆われた場所があった。
覗き込んでみれば洞穴がある。
「セイラ様!」
半べそをかいたハナが追いついてきた。
「いきなり走り出すからどうしたのかと思いましたわ」
「ハナには見えなかった?」
「なっ何がですか」
「ん~……人がいた気がしたんだけどね」
「私には見えませんでしたわ」
怪訝な顔をするハナに向かって笑み一つ。
今見たものをうまく話す自身はなかった。
月が人の姿をとったようだと言えばハナは信じただろうか。
「ほら、今日の寝床を見つけたよ」
小さな入り口を入って暫く這うと天井が高くなった。
セイラやハナならば十分に立つことができる。
すぼまった入り口のおかげで冷たい風は入ってない。
そのくせ濁った匂いはなく、一晩過ごすには十分だった。
「よかったぁ。ここなら大丈夫そうだよ」
途中で拾った枝葉に火を灯すと炎は円形の空間を浮かび上がらせた。
光りが岩肌を舐め、二人分の影が舞い躍る。
小さな悲鳴の後、ハナの動きは殊更早かった。
セイラの腕をひっぱり背後に隠したかと思うと威嚇する猫のように髪の毛をおったてる。
事態について行けないセイラのぽかんとした顔を背後に受けながら、唸るように光りの届かない空間へと話しかけた。
「誰です?」
二人の動きに煽られた炎が気まぐれで見せたのは、光沢を持った人の目だった。
それが嘘でないことを証明するように忍び笑いが聞こえてくる。
声は四方八方に反響し、わんわんと上から降ってくる。
「わしか? わしはジュドーじゃ」
眼が暗さに慣れてくると髭もじゃの老人が浮かび上がる。
彼の体に纏わりついた服だったものは色を失い、絡まった髪も薄汚れた肌も岩肌に同化してしまったかのようだ。
「ジュドー? 森と同じ名前なんだね」
「そうさ。わしはこの森の守番さ。ジュドーの妖精」
妖精?
何とも怪しい物言いだ。
奇怪な樹木が生い茂り人の出入りを拒む森にひっそりといる守番だとすれば、その大地に樹木に同化したような姿は納得できたかもしれない。
けれど妖精となると別だ。
こんな老人が妖精だなんて、今まで培ってきたイメージがガラガラと音を立てて崩れてしまう。
ハナは半眼で老人を睨みつけた。
「おや、信じておらんな?」
「当たり前ですわ。妖精なんて御伽噺の生き物ですもの。貴方が森に隠れている人間だと考えたほうが現実的でしょう?」
「ふん。神話の国から来たくせに、常世ならざるものを信じんか。昨今の若者は、まったくつまらんのう」
嘆かわしいとジュドーと名乗る老人は深くため息を吐く。
天を仰ぐ仕草もどこか芝居めいていて、怪しさに拍車をかけるばかり。
ハナは更に距離をとった。
「なぜエスタニアから来たと?」
神話の国といえばエスタニアのことだ。
数多の神々に守られ、ササン大陸一の栄華を誇る国。
「なに、簡単なことよ。アリオスの住人はジュドーが嫌いなのさ。わざわざ入ってこない。それならお隣のエスタニアからおいでなさったと考えるのが妥当だろう?」
単純明快とからりと笑う。
けれど二人の少女には何故アリオス人がジュドーを嫌うのかは分からない。
「ジュドーの森には闇人がいるのだという噂がまことしやかに流れているのさ。この国の連中ときたら即物主義なくせに夢幻や闇人、そんでもってマルスだけは信じているんだから。ほいほい、そんな怖い顔するんじゃないよ。お嬢さん。お前さんはワシが悪いもんじゃないかと疑ってるみたいだが、お前さんたちだって十分に怪しいよ。日も暮れようって時間に娘二人で森をうろつくなんてね」
さすがにハナにも反論できない。
自分たちは怪しくないと言い張ってみたところで証明できるものはなかった。
「私たち、日暮れまでにアリオスの最初の街まで行く予定だったけど、賊に襲われて逃げてきたところなんだ」
セイラは歩を進めると、ぺたりと腰を下ろした。隣を叩きハナにも座れと合図する。
どうやら本気でここで一夜を過ごすらしい。
妖精もといジュドーを気にしながらもハナも腰を下ろした。
「賊? 最近では見回りも強化されてほとんどいないはずじゃ。国境付近ともなれば重点的に力を注いでいるはずだかのう」
「けれど剣を振りかざして追いかけられましたわ。……同じ鎧を着てましたわね。確か鳥のような刻印が」
「コレの事か?」
ジュドーは地面に指を這わし、楕円を描き、その楕円の右側に小さな三角を付け、楕円の下方に棒を二本付け足した。
「……ええ、まぁ……似てなくもないような」
何となく鳥に見えないことも無い。
いや、やはり似ていない。けれど、絵心皆無な画家はふぅむと難しい顔をしながら唸る。
「むぅ。ん~……」
「何なのですか?」
まじめくさって唸っているが、ハナには遊んでいるようにしか見えない。
半眼で睨み付けると、老人は今まで思い悩んでいたことなど嘘のようにからりと笑った。
「小難しいことは朝考えるのがいい! 夜は食って寝るのが一番じゃ」
投げ出したとばかりに老人は細く長い腕で何かを押しやる仕草をした。
「そうだね。とりあえずご飯にしようか」
セイラたちも一日中馬車に揺られ、森の中を歩き回ったので、腹の虫はもはや鳴る気力さえないほど空いていたし、足は棒のようだ。
反対する理由もなくハナはセイラの持ってきた荷物をまさぐった。
「晩飯ならいいものをやろう」
笑いを含んだ声と共に何かが降ってきた。
ハナがとっさに受け取るとそれはカラカラに乾いた何かの干物だった。
「あら蛇ですわね」
平然とした声に驚いたのはジュドーの方だった。
甲高い悲鳴を期待していたのに、少女は平然と蛇の干物を返してきた。
「一晩場所を借りるのですから、こちらが晩御飯を提供しますわ」
いつ何が起こってもいいように、食料の備えだけはきっちりとしている。
今回もとっさに引っつかんだ荷物の中には携帯用のパンに干し肉、干した果物、少量の調味料などがちゃんと入っていた。
ここに来るまでの間に集めた木の実やきのこを足せば、蛇の干物なんかよりずっとおいしいものを作れる自信があった。
「……むぅ。てっきり叫ぶもんだと思っていたんじゃがな。おじょうちゃんたち、つまらんぞ」
「そんなこと言われても知りませんわよ」
劣悪な路地裏で孤児として育ったハナにとってみれば、蛇だろうがネズミだろうが貴重な食料だ。
下処理までして食べやすくしてあるだなんて結構なことではないか。
ジニス育ちのセイラにしても別段驚くものでもない。
ジニスの男たちは、捕まえてきた蛇をビンに押し込み、強い酒を注ぎつけておくとと滋養強壮の薬になると信じて疑わない。
人が集まると蛇酒のお披露目会がすぐに行われる。
ジュドーが望むような可愛らしい悲鳴など上げられるもんか。
ジュドーの愚痴などほうっておき、ハナはさっさと調理に入った。
木の実は大きな葉でくるんで火の中へ。しばらくすると殻のはじける音がした。
かつては鍋だったであろう変形しまくった入れ物をジュドーから拝借し手早く切った材料を放り込めば途端に腹の虫が騒ぎ出すおいしそうな匂いが辺りを満たす。
実際、ぐぅと音がした。
「おや、こいつは失礼。料理と言えるようなものは久しぶりなものでな」
少女たちの笑いが響く。
「待ち望んでもらえて光栄ですわ」
大きな葉に盛れば、立派なディナーだ。
「ジュドーはいつからここに?」
「さぁて、ずいぶん前からだとしか言えんのう。そうさなぁ、外にいた頃の王はジーク王だ」
ジーク王と言えばアリオスの先々代の王だ。
「じゃぁ、三十年近くここで過ごしたのですか?……三十年。それならアリオスの王子のことなんて知りませんわよね」
三十年前といえば、現在の王ですら生まれていない頃だ。
「王子? ジルフォード王子か」
「知っているのですか?」
ジュドーは長い爪で頬をかいた。
「まぁ、年に何度かは森に迷い込むやつがいるからのう。そいつらから多少は外の情報を得ているがな。知っているってほどのこともないさ」
「そうですか」
残念そうなハナを尻目にセイラは、ジュドーへと料理を手渡す。
「ふむ。なぜ、王子のことが知りたいんだい?」
一瞬身体が震えるのを見咎められなかっただろうか。
相手が老人ということもあって、つい気を許してしまった。
セイラが王女だということは決して悟られてはいけない。
ハナは慎重に言葉を選びながら話した。
「最近、ジルフォード王子の存在を知ったのですわ。今まで、噂すら聞きませんでしたのに。だから……どうしてかと思っただけですわ」
「そうか。ワシが聞いたのは王妃が呪いをかけたとか」
「呪いですか」
嫌な想像がハナの脳裏を駆け巡る。
「馬鹿な話さ。娘っこ一人にそんな力があるもんか。ええい、辛気臭い話は止めだ。飯がまずくなる!」
言うやいなや、ジュドーは手を伸ばす。
殻のはじけた実を口に放り込めば熱と共に甘さが口に広がった。
さっとつくったスープの味も申し分ない。
「うむ。うまい」
「それは良かったですわ。もう少し、具があったほうがおいしいですけどね」
「なに、十分だわい」
「さっき、闇人って言ってたけど何のこと?」
「んん? なんと言うかのう。影みたいなもんだ。森の中を時折うろつくが、悪さなんてしやしないよ。わしはずっとここにいるが、一度もそんなことはなかったさ」
「ねぇ、それって白い人影だったりする?」
ジュドーは驚いたように目をまん丸にした。
「お嬢ちゃん。会ったのかい?」
「会ったというか、見かけたと言うか。追いかけてきたら此処に辿りついたんだよ」
「ほう。それはそれは。幸運なことだ」
ジュドーが笑う。
その笑みに含むものはなく、ジュドーは心底うれしそうだった。