名前のないレシピ
本作は、作者が構成・プロットを練り、AI(Google Gemini)との対話を通じて執筆・推敲を行った共同制作作品です。
どこにでもいるような、ごく普通の、少しだけ他人に無関心な生活。それが僕の守りたかったものだ。
その夜、仕事から戻った僕がアパートの郵便受けで見つけたのは、一通の場違いな封筒だった。三〇二号室――僕の隣の部屋の住人が、自分自身に向けて宛てたらしい、頼りない文字のメモ。
『明日の私へ。
今日は雨で、少し嫌なことがあったね。
でも大丈夫。明日はカボチャを煮よう。甘い匂いで、全部許しちゃおう。
隠し味は蜂蜜。忘れないで』
自分に宛てた手紙を、自分自身で投函して、しかも部屋番号を間違える。関わったら面倒なことになりそうだ、というのが僕の第一印象だった。僕はその封筒を隣のポストに押し戻し、逃げるように自分の部屋へ向かった。
だが、玄関の鍵を開けようとした瞬間に漂ってきたのは、食欲をそそる匂いとは程遠い、布や何かが激しく焦げる嫌な臭いだった。
「おい、大丈夫か」
反射的に隣のドアを叩いた。返事はない。ただ、中から場違いに明るい笑い声と、皿が砕ける派手な音が聞こえた。鍵のかかっていないドアを開けると、そこは薄暗い煙に満ちていた。キッチンの床に座り込み、割れた皿を指先で弄んでいる女性がいた。
「……何やってるんだ。火事になるぞ」
僕がコンロの火を消し、換気扇を強に回しても、彼女は動こうとしなかった。煤で汚れた顔をゆっくりと上げ、僕の方を見て、彼女は困ったように微笑んだ。
「あの、すみません。私、今、何を作ろうとしてたんでしたっけ」
その瞳は僕を見ているようで、どこか遠い場所を彷徨っているようだった。
「……カボチャ、じゃないのか」
思わず口をついて出た僕の言葉に、彼女はきょとんとした顔をした。換気扇がけたたましく回り、室内の煙を吸い込んでいく。真っ黒になった鍋をシンクに放り込むと、ジュッという激しい音と共に蒸気が上がった。
「どうして、それを?」
「ポストに……君のメモが間違えて入ってたんだよ。自分宛てのやつ」
彼女はハッとしたように自分のポケットを探り、それから力なく肩を落とした。
「まただ……。すみません、いつもどこかで間違えちゃうみたいで。部屋の番号も、鍋の火をつけたことも」
足元の皿の破片を片付けようとして、彼女がまた指を切りそうになる。僕はそれを制して、彼女を居間のソファに座らせた。部屋の中は、家具こそ少ないが、いたるところに付箋が貼られていた。 『ガスを消す』『戸締まり』『薬は食後』。
「……病院には行ってるのか」
「はい。でも、先生も首を傾げていて。心因性だろうって。一度にたくさんショックなことが重なったせいだって言われました」
彼女は自分の名前を「シズ」だと教えてくれた。
「朝起きると、頭の中が真っ白なノートみたいになってるんです。だから、忘れないうちに夜の私が、朝の私に宛てて手紙を書くんです。今日のことを忘れないで、明日はこうしてね、って」
彼女の話は、どこか現実味がなかった。だが、目の前で焦げ付いた鍋や、震える指先を見れば、それが嘘ではないことくらいわかる。
「今日は、カボチャを煮ようって書いてあったな」
「……はい。私、カボチャが好きだった気がするんです。でも、いざ台所に立つと、何をどうすればいいのか分からなくなっちゃって。蜂蜜を入れることだけは覚えていたんですけど、水加減も、切り方も……」
彼女は膝の上で手を握りしめた。僕はそれを黙って聞いていた。本来なら、「大変だね」と愛想笑いでも浮かべて、さっさと自分の部屋に帰るべき場面だ。他人の重荷を背負う理由なんて、どこにもない。
けれど、さっき拾ったあのメモの、震える筆跡が頭から離れなかった。『自分を許してあげて』。あれは、記憶を失い続ける自分を繋ぎ止めるための、必死の命綱だったのだ。
「……明日も、また忘れるのか」
「たぶん。でも、メモがあれば、今日誰かが助けてくれたことは分かります。だから大丈夫です。あ、あの……お名前、伺ってもいいですか?」
シズが真っ直ぐに僕を見つめてきた。その瞳には、せめて恩人の名前くらいはノートに刻んでおきたいという、切実な響きがあった。
だが、僕は一瞬迷って、口を閉ざした。名前を教えれば、そこに関係性が生まれる。明日には忘れられる名前を、わざわざ彼女の真っ白なノートに書き込ませることに、何の意味があるんだろう。
「名乗るほどのことじゃない。ただの隣人だ」
僕は突き放すように言って、立ち上がった。キッチンの冷蔵庫を勝手に開ける。
「一回しか言わないから、よく聞け。カボチャの煮物の作り方だ。君のメモに、僕が追記してやる。二度と焦がさないように、手順を全部書き込んでやるから、それを読んで明日作れ」
シズは驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いて、食卓にあったボールペンを僕に差し出した。
僕は彼女の汚れたメモの余白に、乱暴な字で書き込みを始めた。『一口大に切る』『面取りはしなくていい、面倒だから』『水はこれくらい』。
「……これでいい。明日、この通りにやれよ」
「ありがとうございます。……名無しの隣人さん」
彼女は僕が書き加えた無愛想な文字を、まるで宝物でも見るように指でなぞった。
自分の部屋に戻り、一人で缶ビールを開けても、指先に残ったボールペンの感触が消えなかった。明日になれば、彼女は僕の顔を忘れ、また「初対面の隣人」として怯えるのかもしれない。効率という言葉で塗り固めてきた僕の生活に、ひどく非効率で、ひどく手のかかる「空白」が入り込んできたことを、僕は認めざるを得なかった。
それから、奇妙な日々が始まった。仕事から帰ると、僕の郵便受けには時々、三〇二号室からの「お伺い」が入っているようになった。
『明日の私へ。カボチャは美味しく煮えました。隣の人が教えてくれました。でも、今日はジャガイモが余っています。どうすればいい?』
僕はそれを読み、溜息をつきながら、自分の部屋に入る前に彼女のドアを叩く。彼女は毎回、初めて僕を見るような顔をして「あ、どちら様……?」と戸惑う。その度に僕は「三〇一号室の者だ。君の質問に答えに来た」と同じ説明を繰り返した。
彼女の部屋の壁には、僕が書いたレシピや注意書きが増えていった。僕の名前は一度も出さなかった。彼女の中での僕は、単に「料理に詳しい、ちょっと態度の悪い隣の人」として、毎晩上書き保存されていた。
だが、変化は意外なところから現れた。
ある火曜日。連日の残業で疲れ果てた僕が、ふらつきながら廊下を歩いていると、三〇二号室のドアがそっと開いた。
「おかえりなさい。……今日は、お疲れなんですね」
シズが、ひょいと顔を出して僕を見た。僕は足を止めた。まだ何も名乗っていないし、今日は彼女のポストにメモも入れていない。
「……なんで、僕だとわかった?」
「あ、ええと……」
彼女は自分でも不思議そうに、首を傾げた。
「足音、でしょうか。この時間に、少し重たそうに歩く音が聞こえると、あ、あのお隣さんだなって、なんだか手が動いちゃうんです」
彼女の手には、小さなタッパーが握られていた。
「これ、今日のメモに書いてあった通りに作ったんです。食べてくれませんか。味が合ってるか、不安で」
それは、彼女のノートに書いていない「僕」という存在が、彼女の身体的な記憶に、わずかに染み出し始めた瞬間だった。
彼女が差し出したタッパーの中には、形こそ不揃いだが、丁寧に煮込まれたジャガイモと鶏肉が入っていた。僕はそれを自室に持ち帰り、一人で食べた。味は驚くほど優しかった。かつてプロを目指していたという言葉が、単なる自称ではないことを確信させる味だった。
数日後、僕は彼女の部屋で、壁に貼られた膨大なメモの隙間に、一枚の古びた写真を見つけた。それは、今よりもずっと短髪で、真っ白なコックコートに身を包んだ彼女が、大きな厨房で誇らしげに笑っている姿だった。
「これ、私ですよね。……なんだか、自分じゃないみたい」
シズは寂しそうに笑った。
その夜、彼女の口から語られたのは、ノートにも書き残されていない「封印された記憶」だった。彼女は新進気鋭のフレンチレストランで、将来を期待される若手料理人だった。だが、ある晩、厨房で大きな火災が起きた。
「火を……出しちゃったんです。私のミスで。……大事な仲間が怪我をして、お店もなくなって」
そのショックと、火災の際の後遺症、そして自分を責め続けた精神的な負荷。それらが重なり合った結果、彼女の脳は「新しい記憶」を拒絶するようになった。特に料理に関する記憶は、彼女にとって誇りであると同時に、最も深い傷跡だった。だから、彼女は忘れてしまう。自分がかつて、どれほど鮮やかに包丁を振るっていたかを。
「毎日、ノートを読んで、初めて自分がしでかしたことを知るんです。そのたびに、ああ、私はもう料理をしちゃいけない人間なんだって、思い知らされる」
彼女が自分宛ての手紙に「自分を許してあげて」と書く理由。それは、毎朝目覚めるたびに「火事の記憶」という絶望のどん底に突き落とされる自分を、なんとか救い出すための祈りだったのだ。
僕は、彼女のノートの隅に書かれた僕の手順書きを見た。 『面取りはしなくていい、面倒だから』。 プロだった彼女に対して、なんて無神経なことを書いたのだろうと、今更ながらに胸が痛んだ。
「……料理、嫌いになったか」
僕が尋ねると、彼女は少しだけ間を置いて、首を振った。
「わからないんです。でも、お隣さんに教わった通りにジャガイモを煮ている間だけは、胸のざわつきが消えるんです。ノートに書いてある火事のことも、忘れてはいけない罪も、全部、湯気の中に消えていくみたいで」
彼女の指先が、わずかに震えていた。脳が拒絶しても、身体が包丁の重みを、火の温かさを求めている。
僕は、彼女のノートを手に取った。そして、まだ真っ白な翌日のページに、初めて料理のレシピではない言葉を書き込んだ。
『明日の君へ。今日の君が作った料理は、最高に美味かった。だから、もう自分を責めるのはやめろ。明日も、また何か作ろう』
名乗らないままの、けれど明確な意志を込めたメッセージ。それは、彼女を過去の呪縛から引き剥がし、不確かな「明日」へと繋ぎ止めるための、僕なりの唯一の抵抗だった。
季節が巡り、ベランダから聞こえる虫の音が湿り気を帯び始めた頃、別れは唐突にやってきた。三〇二号室の前に、見慣れない中年の女性が立っていた。シズの叔母だという彼女は、申し訳なさそうに僕に告げた。
「シズがいつもお世話になっていたみたいで……。実は、遠方の専門病院へ移ることになったんです。あの子の症状、最近少しずつ、良い方向に向かっているみたいで。もっと整った環境なら、もしかしたらって」
それは、喜ぶべき報せだった。僕がレシピを書き込み、彼女がそれを作る。そんな非効率な繰り返しが、彼女の止まっていた時計の針を、ほんのわずかだけ動かしたのかもしれない。
引越し当日。廊下には段ボールが並び、三〇二号室のドアは開け放たれていた。中に入ると、あんなに壁を埋め尽くしていた付箋やメモは、すべて剥がされていた。何もない、ただの無機質なワンルーム。そこには、初めて会った夜のあの焦げ臭い匂いも、僕たちが交わした不格好な会話の残滓もなかった。
彼女は、トラックの脇で叔母に促されるようにして立っていた。僕の姿を見つけると、彼女はいつも通り、初対面の相手に向けるような、少しだけ怯えた、けれど丁寧な会釈をした。
「……あ。あの、お世話になりました。ノートを読みました。私、あなたに何度も助けていただいたんですね」
彼女の手には、ボロボロになったあのノートが握られていた。そこに綴られているのは、彼女自身の記録ではない。僕という「名前のない隣人」が残した、生きていくための断片だ。
「……体、大事にしろよ」
僕はそれだけを言った。引き止めたいわけじゃない。彼女の記憶が戻り、僕のことを完全に忘れてしまったとしても、彼女が「自分を許して」前を向けるようになるのなら、それが最善のデータだ。
彼女が車に乗り込もうとした、その時だった。ふと、彼女が立ち止まり、不思議そうに空を仰いだ。
「あの……変なことを言ってもいいですか」
彼女はノートを胸に抱きしめたまま、僕を振り返った。
「あなたの顔を見ると、なんだか、蜂蜜の匂いがする気がするんです。甘くて、ちょっとだけ胸が痛くなるような……。私、あなたとどこかで、美味しいカボチャを食べませんでしたっけ」
喉の奥が、熱い塊に塞がれた。ノートには書いていない。カボチャを食べたのは彼女一人だ。僕はただ、手順を教えただけだ。それでも、彼女の身体は、心が揺れた瞬間の温度を、確かに覚えていた。
車がゆっくりと動き出す。僕は走り出した。効率も、コストも、境界線も。そんなものはもう、どうだっていい。
「シズ!」
初めて、その名前を呼んだ。窓からこちらを見る彼女の瞳に、僕の姿が映る。
「僕は、三〇一号室の湊だ! ノートの続きは、君が自分で書け。……でも、もし書き方に迷ったら、また聞きに来い。僕は、ここにいるから!」
彼女は目を見開き、それから、今までで一番鮮やかな笑顔を見せた。声は聞こえなかった。けれど、その唇は確かに「みなとさん」と動いた気がした。
一週間後。僕の郵便受けには、一通のハガキが入っていた。宛先は三〇一号室、湊様。
そこには、これまでになく力強い筆跡で、たった一行だけ、明日のための予習が書かれていた。
『明日の私へ。今日は、新しいキッチンでシチューを作りました。いつか湊さんに、合格点をもらえるように。忘れないで』
僕はそれを読み、ふっと息を吐いて、自室のキッチンに立った。少しだけ丁寧に、自分のためにジャガイモの皮を剥き始める。いつかまた、隣の部屋からあの鼻歌が聞こえてくる日を信じて。




