視線
皇帝陛下の二十七世婦の一人 水晶美人に絡まれてから数日
最近は春らしく暖かくなってきた
穏やかな風が吹き過ごしやすい日々を送れている
春筍節以降 酷い頭痛も少なかった
前世の異常気象が無いだけで こんなに違うとは…
普通に生活できるって素晴らしい…
空を見上げながら頭痛が無いことに感激していると
梓晴さんと思妤さんが お茶を持ってきてくれた
毒味が済んだ お菓子も置いてくれる
未だに毒見役の人が居るのは落ち着かないけど
お礼を言って口に運ぶと餡子が口の中に広がった
幸せな気分になりつつ食べたら散歩に行かないとと考える
前世なら気にしなかったけど今は浼雨の身体
なるべく体型を維持しないと
…ちょっと遠出しようかな
そう思って梓晴さん達と一緒に歩き出した
あてもなく花に引き寄せられていった結果
気づけば普段は滅多に行かない
嫁いできてから一度しか行ったことがない
堰赤殿の近くまで来ていた
「っ⁉︎」
堰赤殿を見上げながら歩いていたからか
誰かに ぶつかってしまった
その人はバランスを崩し転んでしまい
書簡を運んでいた最中だったらしく
持っていたであろう書簡が周りに散らばってしまう
梓晴さんと思妤さんが すぐに前に立ったけど
私が余所見をしていたせいでもあるから
彼を責めないように二人を宥めた
「ごめんなさい、大丈夫っ?」
「だ、大丈夫で…っ!」
屈んで その人と目線を合わせると
その人は私を見て肩を跳び上がらせていた
怪我がないか訊くものの
真っ青な顔で固まる彼は答えない
「妃殿下」
そうしている間に梓晴さんと思妤さんが書簡を拾ってくれていた
いつの間に拾っていたのか
早すぎる仕事の出来の良さに感激しつつ
お礼を言い受け取ると彼を立たせ書簡を手渡す
重要そうな書類だと思って あまり見ないようにした
「い、いえ、こちらこそ申し訳ありません…っ!」
震えながら彼は書簡を受け取った
罰せられると思っているのかもしれない
再び彼に謝ると その場から静かに離れた
少し歩くと後ろで走る音が聞こえた
よっぽど急いでたんだな…
余所見しないように気をつけよう
それにしても威厳を保つためなんだろうけど
謝りすぎるのも良くないし
優しすぎるのも良くないらしいし
…妃って大変…
そんなことを考えながら散歩を続けた
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「これは後回しだ」
崔に書簡を渡し別の書簡を受け取る
これも後回しでいいかもしれない
頬杖をつき内容を読んで そんなことを考えていると崔が
「殿下、休憩されてはいかがですか?
朝から動きっぱなしですよ」
時計を見ると昼飯の時間になりそうだった
区切りがついたから丁度良いかもしれない
了承して宦官たちにも休憩するように言い部屋を出る
「今日までの書簡はあと どれぐらいだ?」
「両の手に収まるぐらいですね」
「…お前の言い方は誤解する…」
廊を崔と共に歩きながら そんな話をした
まだまだ かかりそうだと溜息を吐く
崔の言う手に収まる分は基準が山盛りだからだ
今日も寝るのは遅くなりそうだ
そんなことを思いながら遠い目をしているとメイが居るのが見えた
崔も気づいたようで立ち止まる
あの男は…張鴻臚寺卿
来客が無ければ基本 暇な九寺の一人
あまり良い噂は聞かない
女好きでも有名で見境が無い
前から俺とは合わない
そんな男と妃が話している
彼女が誰と話していようが構わない
どんな関係になろうが咎める権利は無い
俺も彼女も お互いに愛を抱いていないんだから
『勝手に殿下とは友だちになれる気がしてたんです
これからは友だちと思って良いですか?』
そう思っていたんだが いつかのメイの言葉を思い出し
女性関係に関して信用ならない男と喋る
それを黙って見ていることはできず静かにメイの後ろに立った
「で、殿下…!」
「……妃に何か用か?」
そう言って俺が睨むと張鴻臚寺卿は慌てた様子で去っていった
メイは頭を下げ礼を言う
適当に躱していたが しつこかったらしい
女官の梓晴と思妤も苦笑いをしていた
「あの男は女性関係で良い噂を聞きません
注意してください」
「あぁ…そんな感じはしました」
メイは呆れたように納得していた
どこにでも居るのだとメイは溜息を吐いていた
濁して言っていたが前の世界で同じような男が居たらしい
言い寄られていて偶然を装って行く先々で現れて大変だったのだとか
だが そんなことをすれば俺から直々に処罰される
張鴻臚寺卿も分かっている筈だ
「肝の小さい男ですから そこまではしないと思いますよ」
「だと良いんですが」
溜息を吐きながらメイが そう言うと後ろで静かにしていた崔が
ところで何故こっちに居るのかと訊いた
俺に用があったのか、と
崔の言葉に思い出したようにメイは声を出すと
俺に相談したいことがあるのだと真剣な顔で言った
ここで話せる内容ではないらしく梓晴と思妤も交えて話がしたいらしい
食事を済ませてから青惺殿に向かうことにした
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…視線を感じる?」
後ろで梓晴さんと思妤さんも不安そうな顔をしている
最近 誰かに見られている気がしてならないのだ
それは妃である私だけではなく女官の二人も感じている
三人で感じているのだから気のせいではない
「視線を感じるようになったのは いつからですか?」
「三日前からです」
お茶を飲みながら考える殿下に代わり崔さんが口を開く
それに梓晴さんが答えた
間違いではないことを伝えるように私は頷く
妃だけでなく女官の二人ともなると理由が分からない
そう言いながら崔さんが顎に手をあて唸る
「その日もしくは前後で何か変わったことは?」
殿下が茶杯を置きながら言った言葉に三人で考える
私は思い当たらず二人に訊いた
梓晴さんと思妤さんは顔を見合わせると言いにくそうに
「その…大したことではないからと妃殿下から言われたので報告しなかったのですが…
視線を感じる日の前に宦官の方と妃殿下が鉢合わせたことがありました」
…あったな、そんなこと
本当に大したことではないから今まで忘れていた
私が呑気に そんなことを考えていると崔さんが声を荒げる
何故そんな重要なことを報告しなかった、と
梓晴さんと思妤さんは肩を跳び上がらせ真っ青になった
崔さんを落ち着けようと声を出そうとすると
「崔、落ち着け」
「しかし殿下…っ」
「二人も言っていただろう
大したことと捉えていない
メイが そう言ってしまえば事を荒立てる必要はない
あくまで二人は指示に従っただけのこと」
腕組みをした殿下が淡々と言って崔さんを落ち着かせた
納得していない様子だったけど それ以上は追求してこない
梓晴さんと思妤さんが安堵の息を吐いたのが分かった
流石だなと思っていると視線が合った殿下が目を細め
「貴女には後で話があります」
怒りを含んだ声で そう言った
久々の説教タイムだと嫌でも分かり小さく返事をする
「話を戻しましょう
その宦官とは どこで鉢合わせたんですか?
宦官の特徴は?」
何か気になることでもあるのかな?
「堰赤殿の近くです
丸みのある方で…髪は茶色で…眼鏡を掛けていて背は私よりも低かったと思います
書簡を運んでらして転んだ拍子に落とされてしまいました」
思い出せる限り思い出して そう告げる
梓晴さんと思妤さんにも確認し間違いは無いみたい
すると殿下が険しい顔をし始めた
その書簡の内容が分かるかと訊かれたが
見てはいけないと思って ほとんど見ていない
それは梓晴さんと思妤さんも同じらしく
なんとか作成が書かれていたことぐらいしか覚えていなかった
私たちが そう言うと殿下の顔がさらに険しくなる
「念の為 訊きますが…先程の張鴻臚寺卿からのような視線ではないんですよね?」
私は思い出しつつ はっきりと否定した
殿下も分かっていたみたいだけど張鴻臚寺卿のも嫌な視線だった
ねっとりと舐め回すような品定めするような視線
だけど あんなものじゃない
三人で感じているのは確実に殺意に満ちている
聞き終わった殿下は険しい顔のまま崔さんを呼んだ
崔さんは呼ばれただけで何か理解したのか
返事をすると部屋から出ていった
溜息を吐く殿下に訊いてみると
「…貴女が先程 申し上げた特徴の男性
一人 心当たりがあるんですが昨日から行方が分かっていません」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
行方が分かっていない
そう告げると女官二人は真っ青になった
対してメイは眉を寄せる
視線の正体が分かっていた時点で察していたのかもしれない
メイが言った特徴の宦官は確かに居る
書簡を運ぶ中書省に属している
直属ではないが真面目だと崔の評価も高かった
だが気が弱く雑用を押しつけられているのを見たこともあるらしい
顎に手をあてながら
「書簡を運ぶ際 堰赤殿の近くは通りません
普段から あまり人が寄らない場所です
通るとすれば誰にも知られないよう何かを運び入れる、もしくは隠す時でしょうね」
「……つまり書簡を流していた可能性が高い、と」
俺の説明を聞いたメイが目を細め そう言った
メイの言葉を聞いて女官二人が目を見開く
書簡如きと言う者がいるかもしれないが
物事を円滑に進めていく上で書簡は大事な証拠になる
それこそ皇帝の考えを伝える詔勅関連であったら大変だ
「彼が書簡を秘密裏に運ぶ役目を担っていたとしたら予想外の貴女たちの登場に驚いたでしょうね
故に慌てて落とした」
俺の言葉に同意するようにメイは頷いた
失態を隠すよりは流していた可能性のほうを考えれば
気弱な宦官が行方不明の理由は容易に想像がつく
溜息を吐くとメイも目を伏せた
確かめるように真っ青な顔で梓晴が
「じゃあ行方不明というのは…」
「……始末されたと見るしかないでしょう」
俺の言葉に女官の二人は言葉を失う
面倒なことになったと再び溜息を吐いた
重い空気のまま俺は立ち上がる
「風明」
「…はっ」
呼びかけると どこからともなく跪いた状態で現れた男
女官二人が小さく叫んだ
彼は隠密の頭である風明
後宮の警備を担当してもらっている
「今から青惺殿を警護しろ
危害を加えそうな者は容赦するな」
風明は頷きながら承知した
これからは風明が三人の護衛をすると言い俺は青惺殿を後にした
途中で崔と合流し落ち着いた状態で報告を聞く
「行方不明の者の名は建平
中書省に在籍している宦官です
五日前の昼間は確かに居たと同期の者から証言がありました
四日前の朝に出て来ず予告なく休む者ではなかった為
確認に行ったところ部屋は もぬけの殻だったそうです
それから各省に確認に行ったのですが誰も姿を見ていない、と」
「その同期というのは彼が行方不明だと知らせてくれた者か?」
「はい、建平の同期は彼しかいません
所属も一緒だったので仲が良かったと思われます
また妃殿下たちの話から建平が持っていったであろう書簡が堰赤殿の近くで見つかりました」
書簡は乱雑に隠されていたらしい
先日 橋を造る上で予算を使うことを許可したものだった
元の場所に戻したほうが怪しまれない筈だが
メイ達に見つかったから隠したのだろうか
そもそも用が済んだ後なのかどうかも分からない
仮に用が済んでいたとしたら何に使ったのか
「馬中書令が一向に建平のことについて報告してこないのも引っかかりますね」
「馬は黒だろうな
口裏を合わせ最初から居なかった者として扱う気かもしれない
同期の者とやらの警護もするよう風明たちに伝えろ
重要な証人だ」
「承知しました
だとすれば厄介ですね
用意周到な男ですから証拠が何も出てこない可能性が高いです」
崔の言葉に溜息を吐きながら腕を組む
せめて盗んだ書簡を何に使おうとしていたのか分かれば
そう考えながら目を閉じた
『やっぱり どこの世界でも悪いことに頭を使う人って居るんですね』
『何かされたんですか?』
『会社…組織に被害がありましたね
組織の金銭を横領している人も居ましたし
書類…書簡を盗んでいた人も居ましたし』
『横領は分かりますが書簡を盗んで どうするんですか?』
『他の組織に売るんです
報酬が貰えるので軽い気持ちでやってしまうんでしょうね
あとは書簡自体を破棄したい時とか…
あ、代表者のサイン…えーと…署名を真似る為にも盗みますね』
『…署名を真似る?』
『真似て書簡を偽造するんです
この契約ちゃんと殿下の署名がありますよね?
覚えてないなんて無責任なこと言いませんよね?
みたいな脅しをかけたりするのに使われます』
『……碌でもない』
『本当に…
別のことに頭使えばいいのに…』
いつだったかメイと茶を飲みながら話した時
そんな話を聞いたと思い出した
俺は腕を組んだまま前を見据える
「崔…発見された書簡は俺以外の署名があるか?」
俺の問いに崔は頭を横に振った
書簡自体を破棄したい線は隠して放置されていたから無い
他の場所に売る可能性はあるにはある
だが既に承認された書簡では使い道など無い
あと残るは署名を真似ること
「……拙いことになりそうだ」